ALBATROSS

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知らなければ幸せね

丑三つ時に差し掛かりそうな時間。カラン、この街ではあまり聞かない雪駄の音と共に引き戸が開けられる。暖簾をくぐり、鼻と額に傷のある男がやってきた。
「よう、ここは蕎麦屋かい?」
「いらっしゃい、残念ながらここはただの蕎麦屋だよ」
洗いたての切子グラスを手拭いで丁寧に拭きながら、来たお客に常套句を飛ばす。男は肩を竦めて中へ入ってきた。カウンター、私の正面に座り品書きを見る。
「珍しいなあ、ただの蕎麦屋なんざ客が来ねえだろう」
「そうだねえ、お客は常連客ばかり。ご新規はあんたさんが三日ぶりくらいかねえ。まあ、ぼちぼちやってんですよ」
「三日ぶり?三日前は誰が来たんだい?」
「おっと、情報だけなら帰っておくんな」
くすくすと笑いながら挑発するように男に視線を飛ばすと、男はニヤつきぺろりと舌で唇を舐める。
「女将さんや、随分と若えお人だな。あんたは相手してくれねえのかい」
「そういう輩も帰っとくれ。言ったろう、ここはただの蕎麦屋だよ。そうだな、あんたさんは二件隣がお似合いだ」
出そうとしたお冷やを自分の手元に起き、鼻で笑って言い放つと男はくつくつと喉で笑った。
「肝の強い女は嫌いじゃねえ。そうだなあ、すすめの蕎麦と酒だ」
「肴はいらない?」
「若女将の話が肴だ」
おや、うまいねえ。片眉を上げ、ふふんと笑う。お冷やとおとうしのしょうがの酢漬けを出した。男は箸をつけ、なかなかだと頷く。酢漬け程度でそう言われてもねえ。
「お客さん、どこから来たんだい?」
「網走からさ」
沸いた鍋に蕎麦を入れ、その間に薬味を切る。切子グラスに天然の氷をたっぷり入れ、冷やしておいたウイスキーをぬるま湯を多めで割ってやる。
「この店はいつからやってんだい?年季が入ってるように見えるが」
「残念ながら五年前だよ。元々ここも他と変わらない蕎麦屋だったらしいんだけどね、立ち行かなくて潰れたっていうあとの空き家を私が借りたのさ」
コトリをいい音を立てて出した頃、蕎麦が茹で上がった。丼に麺を入れ、汁を上からかける。わかめとかまぼと、そしてねぎをたっぷりトッピングし、くるりと向きを変えて男の前にドンと置いた。
「かけそばか?にしんじゃねえのか?」
「シンプルイズベスト!にしんはここらじゃどこもやってて新鮮味がないだろう?」
「ほーお……」
どれどれ、と食べた男の口から美味い!と飛び出た言葉ににんまりと笑う。その言葉を聞く度に頑張っておりますとも。笑いながら、これも食べてよと稲荷寿司を出す。今日の残り、この人で最後のお客だしいいだろう。男は蕎麦を汁まで綺麗に飲みほし、稲荷寿司も綺麗にたいらげた。いい食いっぷりだ。
「ふう、ごちそうさん。美味いな。この酒も珍しい味がする」
「異国の酒だよ」
「悪かねえ」
「ああ、それで三日前のご新規のお客、だったかい?」
私の確認に、男は頷く。そんなの聞いてどうするんだか。空になった丼と皿を洗いながら話す。水は今日も冷たい。
「異国のお人だよ。英吉利の人だったかね。飯のために近所の蕎麦屋に入ったら女に擦り寄られたって、驚きながらうちに来たんだ。向こうだってパブに女がいるだろうに、蕎麦屋は意外だったらしい」
おかしいだろう。くすくすと笑いながら話すと、男の様子が妙なことに気づいた。ほお、と低い声で相槌が打たれる。ウイスキーの氷が溶けて、カラリと回り音が鳴った。
「若女将、随分と知った口だな。異国の酒といい、この湯のみといい、あんた日本人か?」
男の問いに、思わず噴き出した。ぷっ、ふふ。男はむっと顔を歪める。キュッと蛇口を閉め、洗い終わった皿を拭く。まさか、この見た目で国籍を疑われるとは。
「日本人に決まってるだろう?それともなんだい、私を不法入国者とでも疑ってるって?ちゃあんと戸籍だってあるよ、それとも通報いたしましょうか?」
「……いや、俺の阿呆な勘違いだな。悪い、最近少し苛ついていてな」
「よく食べてくれたから許すよ。あんたさん、お顔が怖いからそう顔を歪めてたら子供が泣いちまう」
素直な男におかわりの酒を注いでやる。男は一気にそれを飲み込んだ。あつい、と着物の前を肌蹴させる。男の色気の中に妙な模様が見えたが、私はそれを見なかったことにした。刺青が入っている輩なんてろくなもんじゃない。この前も刺青を背中一面に入れた男が裏通りの蕎麦屋の女を攫おうとして騒ぎになったばかり、こうして客と話はすれど関わらない方がいい。酒がカッと回ったのか、男の少し赤い頬がカウンターにつけられた。目はほんのり充血して、とろりと今にも閉じそうだ。随分と酒に弱いらしい。
「ほれ、寝るんならお宿に帰んな」
「泊めちゃあくれねえのかい」
「言っただろう、うちはただの蕎麦屋だって。女もいなけりゃ床もないよ。それとも店の床で寝るかい?」
「若女将が寝かせてくれんならそれでもいいかもなあ」
「初対面の客が馬鹿言ってんじゃないよ、ほれ帰った帰った」
しっしっと手で払うような動作をし、引き戸を引くと外の冷気がぶわりと入ってきた。うう、寒い。今は降っていないが、雲は厚く、明け方にはまた雪が降りそうな空気だった。代金を置いた男がよろよろと立ち上がる。肩を出口まで支えてやる。肌蹴た先が間近で見えた。本当に妙な模様だ。最近はこういうのが流行りなのかもしれない。少しアイヌのものに似てるかも、なんてうろ覚えの模様を思い出すが、うろ覚え過ぎて何も一致しなかった。男はカラコロ、コロ、カラン、と千鳥足で音色を奏でて宿屋に向かって消えていく。その背が見えなくなるまで見送り、暖簾を取ろうとしたときだ。
「もう終いか」
「え?……あ、ああ、悪いがもう閉じるところで…………大丈夫?」
また新たな男がやってきた。くすんでいるが白いマントを纏い、顔の見えない出で立ちだが体は大きく、背中には銃を背負っている。しかし、その姿はなんというか……血がついているのだ。全身に。それがなんの血なのか、想像すると怖そうだ。厄介な客は嫌だなあ。
「腹が減ってんだ。女はいらねえから蕎麦が食いたい」
「……生憎女はいないんだ。うちはただの蕎麦屋でね」
ぶわりと吹いた冷たい風に、片手で髪を抑えて苦笑する。珍しい、という男のつぶやきが聞こえた。男はフードを取り、顔を見せた。顎のところにも血がついている。また、顎自体にも縫合の痕があった。顔に傷の人が多い日だなあ。男の目を見ると、男はニコリと貼り付けたような笑みを浮かべる。しかし、目の奥は一切笑っていない。ぞくりと悪寒がした。
「頼むよ、一杯出してくれ」
「……宿もうちにはないよ」
「なら宿は他を探そう」
男は私の返事を聞く前に、私の横を通って勝手に店へ入る。すれ違うとき、男からぷわりと血腥い臭いがした。それに嫌な気分になったが、仕方なく私は暖簾を店の中に入れて戸を閉めた。カウンター、さっきの男と同じ席に座った男に気味悪さを感じつつもお冷やを出してやる。男は前髪を後ろに撫でつけた。真っ黒な瞳が私をじっと見つめる。
「……な、何にする?」
「無理言って入ったんだ、出来るもんでいい」
「そうかい」
ならかけそばだ。今すぐ出せる。今すぐ出してさっさと帰ってもらおう。妙な輩には関わりたくない。私はまとわりつくような視線を無視して手早く準備をした。薬味を切り、トッピングをのせる。稲荷寿司はもう無いから、代わりに熊肉のチャーシューを四切れほど追加でのせてドンと出した。男は蕎麦を見ずに私を見つめたまま。酒の代わりに熱い日本茶を入れて出すと、突然手を掴まれ身体がびくりと震える。
「……そんなに警戒して怯えないでくれよ、俺が何かしたか?」
戸惑うような、申し訳なさそうな、甘えるような優しい声。でもそれは声だけだ。薄らと口元だけが微笑み、目は一切笑わない。能面を無理やり笑わせたような笑みだ。気味が悪く、鳥肌が立った。空いている手で男の手を解こうとするが、ピクリとも動かない上に力が強くなってしまい私の掴まれている方の手がキリキリと痛み始める。
「は、離してくんな、痛いよ」
「……ああ、悪い。あんたがいい女だったもんでつい、な」
よくもまあころっと嘘を吐くもんだ。離された手には赤く痕がついていた。気持ちが悪い。男は無言で蕎麦をたいらげる。残りの洗い物を済ませ、乾いたグラスをしまったあたりで、器の中は全て男の腹に収まった。汁の一滴もなく、お気に召したようでほっと息を吐いた。不味いと言われたら困るもの。茶を啜り、男が口を開いた。
「あんた、刺青の男を知ってるかい」
ひゅっと背中に針を投擲された心地だった。片付けようとした器を落としてしまい、ガチャンと音がする。大丈夫か、という男の声に懐のあたりが冷たくなった。一言謝り、急いで片付けようと割れた破片を拾おうとする。と、伸ばした手を横から攫われ、男に抱きすくめられた。固い筋肉、すぽりと覆う大きな身体。血の臭いがぷわりと近くで香る。よくよく見れば、この服、兵士の軍服だ。
「危ないだろう、あんたの手に傷が出来ちまう」
「……は、離して、」
「実は初心な娘か?初めてじゃあねえだろう」
「離して!」
厚みのある胸を押して少しでも距離を取ろうともがくが、鍛えられた軍人に通用するわけもなく何の成果も得られなかった。生ぬるい男の息が私の首元をほんわりと濡らす。うう、気持ち悪い。飯は出せないって断ればよかった。そうすれば器は割れなかったしこんなことにもならなかったのに。後の祭りとはいえ後悔せざるを得ない。男は私の顎を掴み、顔を寄せた。
「刺青の男を知ってるな?」
「そ、んなの、ここらにはたくさんいる、知らないわけない」
尻をぐわしと掴まれた。うう、と呻き声が出る。色気も何もない。そもそも掴み方に色気がない。尻はデリケートゾーンなんだ、触るならもっと優しく触るべき、というかそもそも勝手に触るな。所属先にクレーム入れてやる。ちらりと紋章を見れば、男は第七師団らしい。北鎮部隊かよ。しかも文字は二十七、第二十七聯隊だっていうのか。
「フ、フン、兵士が強姦かい、世も末だね」
「されたいならしてやろう。妙な刺青だ、曲線がいくつも彫られているような。……知ってるだろう?」
ああ、もういやだ。なんて気味が悪いんだ。生理的な嫌悪と混乱で涙を流せば、男に目元を舐められる。うう、気持ち悪い。なんて気持ち悪い男なんだ。ついさっきの客のことを知ってるんだろう。全部意図的なんだろう。何が目的なんだ、金か、命か?下衆な男は戦地で死んで帰ってこなければいいのに。どうしてこんな男が生きて帰ってきて、隣の通りのゆうちゃんは死んでしまったんだ。優しい良い人だったっていうのに。残されたおさきちゃんが可哀想だし今この状況の私も可哀想。
「答えろ」
「ぐっ、……あんた、なんなんだ、情報入手するのが下手だね!客の守秘義務ってもんがあるだろう!」
「三日前の客は話したのに?」
「やっぱりわざとかクソ野郎!」
手を振りあげてべちんと男の顔を叩く。男はそれをわざと受け、痛いじゃねえか、とボソリと言った。よく言うよ痛くもなんともないくせに。私の手が痛くないのがその証拠だ。ギッと睨みつけると、男は先ほどとは一転して愉悦の笑みを浮かべる。
「いっ、ぎ!な、何するの、いっ、痛い、いたい!」
男は私の首筋に噛み付いた。ガリ、と音がして皮膚が破られる。ぬるりとした男の舌に嫌悪から冷や汗が流れた。気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い。
「……ああ、悪いな、うまそうだったんでつい」
耳元で男が囁くように言う。色気が含まれた声に、私は心底厭悪した。首の噛まれた傷を舌で抉るように舐められ、喉の奥から悲鳴が上がる。
「いっ、う……ついで食べられてたまるか!な、なんなのあんた!帰って、さっさと帰って!」
「刺青の男は?」
「どうせ知ってるんでしょ!下手な悪戯してないでさっさと出ていって、二度と来ないで!」
ぼろぼろと涙を零しながら男の身体を押せば、今度はあっさりと離れた。腰が抜けて今にも倒れそうだが、懸命に足に力を入れ男を睨む。男はぺろりと自分の唇を舐めた。白い唇に、赤い舌が映える。
「女独りの切り盛りは危ない、用心棒を雇うことだな」
「あんたのお陰でよくわかったよ!」
「震えていても気は強い、か。悪くない」
「早く帰れ!」
私の悲鳴のような言葉に、男はくつくつと笑いながら、また来る、と言い店を出ていった。二度と来るな。今後軍人はお客にしないことにしよう。私は一人になった店で、泣きながら割れた破片を片付けた。店の電気を消す前に、清めの塩をあたりに撒いてあんな客が二度と来ませんようにと神棚に祈る。首元の傷は深く、かさぶたが取れて完全に消えるまで一ヶ月かかった。しかも残念なことに塩も祈りも効かず、治るまでの間にあの気持ち悪い兵士はまた来た。
そして何よりも気味が悪いのが、この翌日、通り向こう五件先の宿で皮のない男の死体が見つかったらしい。

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