ALBATROSS

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塩酸モルヒネ五グラム

 医師がトレーの中を見ては、首を傾げている。繊細な操作を行う、皺の多い指先が、ちょいちょいと婦長のナース服を掴んだ。「ねえ、モルヒネ知らないかい? 長谷川さんが用意してくれていたのだけれど、見当たらないの」
 温和な眉が下がる一方で、婦長の眉がつり上がった。わなわなと唇が震え、探してくると告げて部屋を出ていくが、婦長は老医師の足跡を辿るのではなく、真っ直ぐとある病室へ向かった。すれ違う患者たちと、にこやかに挨拶を交わし、日当たりの良い大部屋の扉を開ける。
 モルヒネとは、痛み止めの一種だ。芥子から作られ、神経に作用する強力な鎮痛剤であり、麻薬でもあり、薬でもある。
 病院では当然薬として扱っているが、陸軍病院では重傷の患者も数多く、モルヒネが無くなってしまうことは頻繁であった。
「二階堂さん、あなたまたやったでしょう!返してください!」
「あっ、見つかっちゃった」
 上げられていた頭部が、ひょこりと布団の中に隠れる。さながら、巣から顔を出す栗鼠のようだが、しかし、この患者はそのような可愛らしいものではない。婦長の目から隠そうとする手には、探しものの瓶が握られていた。
 婦長が、ベッドに向けて手を出した。ふっくらとした肉付きの手のひらは、消毒液の匂いが染み付いている。
「出してください」
「な、なにを?なんのこと?」
「モルヒネですよ、モ・ル・ヒ・ネ!」
「し、しらない」
「手に持っているじゃないの!」
「知らないもん!オバサン怖い!嫌い!」
 布団の下に隠れながら、ウゴウゴと芋虫のように動き、婦長の怒りから逃げようとする。しかし、説教よりも先にモルヒネが重要なのだ。痛み止めとて無料ではない上に、管理不行き届きとされてしまえば婦長の立場も危なく、また、患者の中毒も悪化していく一方だ。
 どうしても嫌だ、とヘッドボードにしがみつき動かない成人男性に、婦長はため息を吐いた。
 本職ではない相手に頼むのは心苦しく、また、悔しい気持ちもあるが、業務が優先である。婦長は一度廊下に出ると、病棟の受付まで戻り、窓口にいたベテランの女性に、とある名前を告げた。
 しばらくして、奥から、もぐもぐと何かを食べている若い娘が出てきた。そばかすの散る頬が膨らみ、丸い目が婦長を観てにっこりと月になる。事態を察したように、肩を竦めた。彼女は受付の事務員だが、同時に、看護婦の助っ人のようなものでもある。
「こんにちは、婦長さん。その……アレですか?」
「ええ、休憩中に申し訳ないのだけれど」
「いいえ、よくあることですもの、婦長さんも大変ですよね、お疲れ様です」
 娘は婦長を労ると、奥から、食べかけの弁当箱と水筒を持って来た。カーディガンを羽織り、襟から、ひとつに結ばれた髪を抜く。いってきます、と軽い歩調で二階堂のいる病室へ向かう背を見送ると、婦長は慌てて時計を見るなり、次の業務へ戻った。




 二階堂浩平。第七師団の陸軍兵。夕張にて犯罪者相手に戦闘を行い右足を欠損。
 二階堂の上官である月島軍曹から、娘はそう聞いている。
 大部屋に入ると、カーテンが揺らめく。窓が少し空いていて、心地よい風が入るが、二階堂は厚手の布団を被り、ぶるぶると震えていた。
「こんにちは、二階堂さん」
「あっ!」
 喜色を隠さぬ声を上げ、二階堂が飛び起きる。ベッドから身を乗り出すのを見て、娘は慌てて駆け寄り、二階堂の肩を押した。「落ちちゃいますよ」
 とすん、と尻を敷マットにつけ、二階堂がゆるゆると娘を見上げる。肩に置かれた娘の、少しあかぎれのある柔らかな手に、己の肉が削げた皮膚の厚い手を重ねた。くふふ、と鳴る幼子のような笑い声。娘の目元が和らいだ。
 二階堂は、時に言葉を何も受け付けず、暴れ回ることもあり、それは特に怒られたあとや、大きな声を聞いたあとなどは顕著だが、現在の状態は落ち着いているようだ。また、足部分に目を向けると、包帯はキチッと巻かれており、短い爪でボリボリと引っ掻き、ゆるんだ痕跡もなかった。アラ、珍しい、ご機嫌なのかしら。心の内で、こてりと首を傾げた。一度口に出すと、「スギモトコロス」と、ひたすらブツブツと繰り返すため、娘はなるべく、怪我の話には触れないようにしている。
 握られた手をそのままに、近くにある見舞い客用の丸椅子に腰掛け、二階堂と目を合わせた。濁った黒眼が、ぎょろぎょろと忙しなく動き、娘を上から下まで観察していた。
「ねエ」かすれた低い声と、娘のメゾソプラノが重なった。はわわと二階堂は口を開き、「さきにお話して」と呂律の怪しい口調で言う。娘は頷き、にこりと口角を上げた。
「お弁当、食べてもよろしいかしら?」
「……おべんとう」
「ええ、お昼ご飯を食べていたのですけれど、呼ばれてしまって。よろしければ、手を離していただけますか?」
「ウ〜〜……いいよ、ごめんね」
 親とはぐれた迷い子のように、不安だと語るくしゃくしゃな表情を浮かべ、二階堂が頷いた。離された娘の手は弁当箱へ向かい、離した二階堂の手は、しばらく空中をさまよったのち、患者衣の胸元、肉が落ちたために余った布を、寂しげにギュウと握った。
 娘は食べかけのおにぎりを頬張り、卵焼きに箸を向ける。娘の、綺麗に炊かれた米粒のような、ふっくらとした頬の上の、そばかすが動くさまを見るのが、二階堂は好きだった。先日暴れ回ったのちに、ぼんやり「おちつく」と呟いていた。それを知ったのは偶然であるが、二階堂の情緒を安定させるためには、今のような昼食途中の呼び出しは、良いタイミングだったといえる。はつらつとした視線が娘に注がれ、娘は内心では気が気でないが、相手は患者なのだし、と決して美人ではないが、穏和な輪郭を持つ顔を真っ直ぐ二階堂へ向け、咀嚼を続けた。
「ネエ、卵焼きちょうだい」
「いいえ、駄目ですよ」
「どうして?」
「先生から、餌付けをするな、と言われているもの。二階堂さんたら、病院食を全然食べなくなっちゃうでしょう。あたしのご飯なんかより、よほど栄養があるのに」
「ウ〜〜」
 断られると、二階堂はうなり、また顔をくしゃくしゃにして、体を折りたたむように、ベッドへ突っ伏した。足に鼻先が当たっているが、痛いとは言わない。痛覚が麻痺しているらしい。つまり、モルヒネの瓶は開けられている。娘が病室に入った際、布団の中で震えていたから、そのときすでに手遅れだったようだ。「二階堂さん」
 娘が呼ぶと、二階堂はちらりと顔を上げ、爪先が割れかけた指で、そっと枕を指さした。
 最後の梅干しを口に入れ、弁当箱の蓋を閉めた娘が、枕をひっくり返す。下に、モルヒネの瓶が置かれていた。
 二階堂は、片足が無く動けないというのに、他の患者や気の弱いナースを脅して、よくモルヒネを盗み出す。婦長に怒られても、医者に怒られても、上官に怒られても、繰り返し盗み続けているが、娘が来たときだけは、暴れたり抵抗したりせずに、大人しくモルヒネを差し出す。
「……モルヒネちゃん、ごめんね」
 瓶の蓋が、しっかりキチッと閉まっていることを確認し、ポケットに仕舞う。娘のカーディガンの端をつまみ、二階堂がショボショボと話した。いたかったから、と言われてしまうと、娘にはわからぬ激痛であるために、何も言えなくなってしまう。人は痛みで死ぬこともある、と以前ナースから聞いたことがあるなら、なおさらだった。
「……もう、二階堂さんたら。メッ!」
「めぇー」
「アラ、羊の真似?お上手ね」
 怪我をする前から、二階堂は、娘には想像もつかず、縁のないような様々な出来事を経験し、精神異常の兆候はずっとあったのだと、月島軍曹が話していた。それまでは、それなりに軍人だったのだとも聞いた。
 娘は、何があったのかまで踏み込むつもりは無いが、すっかり箍が緩んだ二階堂に、思うところがないわけでもない。幼児退行と、我慢のきかない感情の吐露。幼子のような甘え方は、じわじわと、娘の柔らかいところに染み込んできた。本名を何度告げても覚えられず、モルヒネを盗ったら来てくれるからモルヒネちゃん、などと誤解されそうな呼び方をされていても、相手は二階堂だから。
 いけないとわかっていても、同情の念を向けてしまうときがあるのだ。何故か、と言われると、彼の熱の篭った目と、縋るように向かってくる手を見れば明白だろう。
 確かな言葉はないが、娘は初心ではなく、彼の想いを理解している。
「モルヒネちゃん、あのね」
「はあい」
 理解した上で何も告げずに、彼の情緒安定剤として、時折こうして相手をしている。それがひどい裏切りだとわかっていても、ちいさな泣き声を聞いてしまうと、体に備わる器官が反応するかのように、ついつい構ってしまう。
 病院窓口受付嬢、愛称モルヒネちゃん、別称モルヒネ奪還娘。
 そして二階堂の思い人────ならぬ岡惚れ相手。娘は、五歳の息子を持った既婚者である。

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