- ナノ -

ALBATROSS

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そして残骸

ドスン、と大きな音を立てて網戸が取れて倒れた。元々古かったし、最近猫がよく登るからもうすぐ壊れるだろうとは思っていたけれどこんなに早く壊れるなんて。幸い日本と違ってイギリスの夏に蚊はあまりいない。いない、けれど。

「うっ……出た……」

 ブブブ、と独特の羽音と共に早速家の中へ入ってこようとする蜂を前に窓を素早く閉める。蜂は嫌いだ。イギリスは蜂が多いように思う。日本でも確かにいたけど、こんなに蜂と出会う頻度は高くなかった。それにちょっと油断してるとすぐに蟻が来ちゃうし、ゴキブリの代わりかもしれないけれど、ゴキブリも蟻も嫌なものは嫌だ。嫌悪なく素手で掴んで遊べるのは幼少の頃だけだ。
 にゃーん、とイギリスで拾った愛猫がこのタイミングで外に出たいとカリカリと窓をひっかく。こらこらやめなさい、傷ついちゃうでしょ。抱きあげると、猫はにゃーんとまた鳴いて瞳孔をきゅるりと開いた。うっ、怖い、と反射的に力を抜いてしまう。猫はすたりと床へ降りて、外に行こうとする。と、思いきや。
 猫はう゛ー、う゛ーと滅多に使っていない、飾りのような暖炉に向かって威嚇をし始めた。

「な、何? 何かあるの?」

 猫は人ならざるものが見える、なんてよく言う。不安になり、恐る恐る火かき棒で暖炉の中のこれまたお飾りの灰を探る。なあんだ、やっぱり何も無いじゃない。大丈夫だよ、と猫を振り返ろうとしたとき、ボッと音がした。

「……ひっ!?」

 火だ、火がついている。暖炉に火がついた。私は灰をかき回しただけだ。なのに火がつくなんて。それにこの火は明らかに普通ではない。だって、色が、緑なんだもの。ズリズリと火かき棒を引きずりながら後ずさる。け、携帯、携帯どこにやったっけ、通報、いやその前に写真? パニックになった私の前に颯爽と猫が、果敢にも暖炉に向かって威嚇を続ける。ふしゃあふしゃあと毛が逆立つ尻尾はエビフライのようだった。
 私が片手で手探りに鞄の中の携帯を探している間に、緑の炎は唐突にボンッ、とまた音を立てた。ボンッ、ボンッ。まるで何かを吐き出そうとするその動きに、どこぞのB級映画のような恐怖の展開になってしまうんじゃないかと冷や汗が垂れて手が震える。ボンッ、ボンッ、ボンッ。
 ゴォォッ。

「ワア!」
「ひぎゃああ!」

 炎がボワリと膨らみ、中からゴロンと勢いよく何かが悲鳴をあげてリビングの床に落ちた。私も悲鳴をあげる。猫はふしゃあああ! と威嚇をしていたが、びっくりしたのかトタトタと走り机の下に行ってしまった。お、置いてかないでえ。情けない悲鳴、見つからない携帯と抜けた腰に、頼れるのは君だけだと火かき棒を無意味に抱きしめる。
 炎から出てきたのは、エイリアンのような見た目をしていた。クリーチャーとかモンスターとかそんな異形の、恐ろしい見た目に目の前が滲んでいく。私殺されちゃう、きっと頭からぱっくり食べられちゃう。せめて一思いにお願いします、ぎゅう、と目を瞑る。

「ここはホグワーツではない! ここはホグワーツではない!」
「ひぃっ……喋った……」

 キーキーと高い声でエイリアンは喋った。薄目を開けて姿を見ると、エイリアンはバランスがおかしい体格にガリガリに痩せた体と、大事なところが隠せているのか怪しい布切れを纏ってギョロリと大きな目玉を回して私の家の中を見ている。

「行き先を間違えってしまった、ドビーは行き先を間違えた! ドビーは悪い子!」
「ひっ!?」

 エイリアンは早口でキィキィと独り言を言い、床にゴンゴンと頭を打ちつけ始めた。何かの儀式かもしれない。何かを呼んでいたり…? 生憎その床下には家の骨組みと土くらいしかないけれど、暖炉に勝手に火がついたんだから床下からにょきにょき何かが生えてきたりするのかも。なんて恐ろしい!
 代々譲り受けたこの家を魔物の巣窟にしてはいけない! 私は勇気を振り絞り、火かき棒をエイリアンに投げた。しかし私の非力ではエイリアンに届かず、床をずさーと滑っていくのみだ。エイリアンに当たることはなく、むしろエイリアンは私の姿を認識してしまった。大きな顔に嵌っている大きな目玉と目が合う。

「ひぃっ……」
「あっ、あうう……人がいらっしゃるだなんてドビーは気がつきませんでした! ドビーはホグワーツへ行きたかったのです! 此処はどなた様のお宅でいらっしゃるのでしょう!」
「怖いよぉ……此処はみょうじさんのお宅です……」
「みょうじ様! みょうじ様のお宅! みょうじ様は生きていらっしゃる!」
「私が生きてるなら……」

 どうしてエイリアンと会話が成立するのか、どうして今私はエイリアンと会話しているのか。パニックになった脳ではさっぱりわからないことだらけだけれど、エイリアンは信じられないというように大きく驚き、近づいてきて私の周りをせかせかと動いて私を観察する。私はそれにびくびくと怯えるだけだ。猫は一向に机の下から出てきてくれない。見捨てられたのか。

「ドビーはドビーと申します! ドビーはホグワーツに行きたかったのです! みょうじ様! ドビーめにプルーパウダーをお貸しください! ドビーはホグワーツにお願いをしに行くところだったのです!」
「は、はいぃ……?」
「ドビーめにプルーパウダーをお貸しください!」
「うっ、家にはベビーパウダーくらいしかないです!」
「ベビーパウダー……?」

 エイリアンは達者な言語ですごく丁寧に私に話しかける。その高音さに聞き取るのがやっとだ。それに、とても丁寧に何を要求されているのかわからない。プルーパウダーってなんだろう。洗面所に駆け込み、ベビーパウダーの缶を持ってきて中身を見せる。ベビーパウダーで帰っていくエイリアンなんてどの映画でも見たことないけれど、これで殺されずに済むならキロ単位でベビーパウダーを買う所存だ。
 しかし、ベビーパウダーは違ったらしい。ドビーさんは泣き始めてしまった。

「ドビーは暖炉飛行をしてみたかったのです! ドビーは暖炉飛行に失敗してしまった!」
「ううっ……わかんないよぉ……」

 私もついつられて涙が出てきた。ベビーパウダーの白い粉がぷわりと空気に舞う。

 ひとしきり泣いた頃、ぐずぐずと鼻を鳴らしながら私のお腹が鳴った。ドビーさんが充血した真っ赤な瞳でキョロりと私を見てきょとんとする。その仕草に、心がキュンと高鳴った。よく見ると、かわいい…かも……。
 共に泣いたこの数時間で、私の心はドビーさんに仲間意識を持っていた。

「……ドビーさん、ご飯食べませんか」
「ご飯……? みょうじ様はドビーめにご飯を恵んでくださる!」
「恵むだなんてそんな…一緒に食べましょう」
「みょうじ様はお優しい! みょうじ様はドビーと一緒にお食事をなさる!」

 ドビーさんは感極まったようにまた泣いてしまった。ハンカチで涙を拭いてやると、ドビーさんは私の渡したハンカチを握りしめて更に感動する。も、もしかしてドビーさんは虐待でもされていたんだろうか。それともそういう星の生まれなのかな。なんて辛い育ちだ、じわりと私も涙が出てくる。そっと袖で涙を拭う。
 にゃーん、とすっかり私のことなど忘れて机の下でお昼寝をしていたであろう猫が外に出たいと窓をカリカリ引っかきはじめた。

「こらこらだめだよ、網戸が壊れてるから虫が来ちゃうの」
「網戸がお壊れになっている! ドビーは知っています、親切にしていただいたらお礼をしなければなりません! ドビーはみょうじ様にお礼をいたします!」

 ドビーさんに、そんな気を遣わずに、と声をかけようとしたときだった。トタン、と音がして、倒れていた網戸が元に戻っていく。猫がひっかいて緩くなった網目も、まるで新品のように引き締まっていた。

「……え?」