ただ、生きているだけでいい。

それはある雨の日のことだった。
絶え間なく続く無数の斜線の景色の向こうに、芥川は愛しい人の姿を発見した。
傘をさして歩く芥川とは対照的に、その人は傘もささずに横浜の海を眺めていた。海沿いの公園の柵に凭れ掛かって、ぼやけた水平線をまっすぐに眺めていた。
芥川は少しだけ躊躇した。太宰に声を掛けるべきか否か。そっと近寄って傘を差し出してやるべきなのか。
しかし、もし近寄ったところで拒絶されたら――というよりは拒絶の言葉しか芥川の頭には浮かんでこなかった。太宰がああやって求めているのは芥川ではないのだろう。おそらく――
(人虎……)
その名前を胸で唱えた途端、芥川の中に沸々とした殺意のようなものが芽生える。殺意と同時に不安や焦燥に駆られる。悔しいながら、嫉妬してしまったのだ。
人虎にだけは負けたくない、といった妙なライバル心のもと芥川は足を踏み出した。水たまりがバシャバシャと音を立てる。太宰はこちらを振り向かなかった。
ザーッという雨の音。そんな雨から遮るように、芥川は太宰の頭上に傘を差し出した。そこまできてようやく太宰は芥川を見た。
目が合うと芥川は気まずそうに視線を逸らした。それからもう一度、太宰を見上げた。
「奇遇ですね……こんなところでお会いできるなんて」
「芥川君か……」
その声には何の感情も込められていなかった。この調子なら傘を差し出してきたのが誰であっても同じような反応をしたに違いない。
「ここからね、飛び降りたらどうなるんだろうかって考えていたよ」
太宰が目を伏せる。視線の先を追っていくと黒々とした横浜の海が足元で波打っていた。それは海というよりは重油か何かの塊のように見えた。
「また、死ぬことを考えていたのですか?」
「そうだね……どうしてだろうね」
太宰の口元に小さく笑みが浮かぶ。対する芥川は笑えなかった。
「芥川君は私が死を希求する理由は何だと思う?」
そんなこと、芥川に訊かれたって分かる筈なんてないのに。太宰は時にこうした残酷な質問を芥川へ課すのだ。
「愚鈍な僕には其の様な質問の答えなど心得ておりません」
「よく分かっているじゃないか」
馬鹿にしたような返答だった。少しだけ芥川は腹が立った。
「芥川君、確か君の家はこの近くだったよね」
「そうですが」
「銀ちゃんは?」
「銀は長期の出張任務の為、しばらく家を空けている」
「なら丁度いい」
これまでの暗い雰囲気が嘘だったみたいに、太宰はパッと花開くように笑った。
「泊めてよ」
急にそんなことを言われても困ってしまう。芥川は困惑した。
無表情のまま考え込む芥川に対して、太宰は訝しげに顔を覗き込んできた。
「駄目なの?」
「い、いえ……そういう訳では」
雨がますます強くなっていく。
いつの間にか、芥川は傘の柄を強く握り締めていた。


「うひゃあ、びしょびしょになってしまったよ」
玄関に上がるなり、太宰はおちゃらけた様子でそう言った。芥川は傘を畳むと玄関の適当な位置に立て掛けた。そのまま我が物顔で部屋へ上がる。
「今タオルを取ってきます。少し待っていて下さい」
そうしてそそくさとタオルを取りに向かう。訓練された犬のように、芥川はタオルを手にして戻ってきた。そっとタオルを太宰へと差し出す。
「…………」
タオルを見詰める太宰の目元は濡れた前髪によって隠されていた。ぽたぽたと水滴が垂れ落ちる。まるで泣いているようにも見えた。
「……太宰さん」
思わず芥川は声を掛けてしまった。それから太宰はタオルを受け取ると、すぐにそれを左右に広げた。広げたタオルを芥川の背にまわす。そのままグイッとタオルを引くと、芥川の体が太宰の元へ引き寄せられた。
一瞬のことに芥川の心臓が止まりそうになる。近寄ってくる太宰の顔と、水分を含んだシャツの感触を腹部に感じて我に返った。
「だ、太宰さん……!」
逃れようとしても手遅れだった。太宰はタオルを使って芥川の体を引き上げるような形で、身を寄せていた。芥川は身動きが取れなかった。
「あ、あの……」
体が熱くなる。呼吸が苦しくなる。大好きな太宰がこんなに近くにいる。それだけで芥川の心臓は早鐘を刻んだ。
「芥川君……」
鼻先が触れ合いそうな至近距離で太宰が囁く。
「どうして私は死ねないんだろう?」
「其の様なこと、僕に訊かれても……」
「そうだよね。分かる筈がない」
太宰の手がタオルを離す。白いタオルが宙を螺旋状に舞ってから床に落ちる。太宰の手が芥川の頬に触れた。そのまま芥川の顔を包むようにして挟み込むと、真っ直ぐに目を覗き込まれた。
「君は私を殺せるか?」
思わず芥川は息を飲んだ。そしてすぐに首を左右に振った。
「……どうして?」
なんて残酷な問い掛けだろう。芥川は視線を逸らした。
「僕は、貴方に死んで欲しくないからです」
「何故だ?」
「…………貴方が死んだら」
芥川は唾を飲み込んだ。それから意を決したように太宰を仰ぎ見た。
「僕にとっての生きる希望が失われてしまうから」
太宰はこれといってリアクションを取ることはなかった。ただ黙って、涼しい顔で芥川を見ていた。
「その『生きる希望』とは何だ?」
「それは……」
芥川は目を逸らすことなく太宰へ向けて告げた。
「貴方が生き続ける限り、僕は生きる意味を見出せる」
「その『意味』について私は問い掛けているのだけれど」
太宰の顔に影がかかった。前髪から滴り落ちてきた水滴が芥川の頬を濡らした。
「貴方が死んだら、僕も死にます」
一瞬だけ太宰が目を見開いた気がした。それから太宰は微笑を浮かべると、芥川の頬から手を離した。
「じゃあこんなのはどうだい?」
わざとらしく太宰は人差し指を立ててみせた。
「君が私を殺してその後に君も死ぬ。それで問題ないだろう」
「貴方が居ない世界に僕は未練はありません。しかし、そうなると誰が僕を殺すのでしょう?」
太宰は真面目な顔で人差し指を芥川へと向けた。
「君だよ。それしか居ないだろう」
「僕が僕を……」
芥川は頭を巡らせた。少しだけ考えてから、小さく首を振った。
「それは出来ません」
「どうして?」
「それは……」
芥川には分からなかった。何故、自分が太宰を殺して死ななければならないのか。
確かに太宰が居ない世界に未練なんてない。
この世に自分が生きていることに対しても、さほど未練なんてないけれど。
それでもまだ生きていたかった。
太宰がいる世界で。
太宰が笑って、太宰が喋って、太宰が触れてくれる。それだけが芥川を生へと執着させる。
太宰のことを考えているだけで「生きていたい」と思えるのだ。それなのに、そんなささやかな希望を自らの手で断ち切るなんて。想像したくも無かった。
「……逆、ならば」
「ん?」
「貴方が僕を殺して、そして自らの命を断てばいい」
「あのねぇ、芥川君」
呆れたように太宰が溜息を吐いた。
「私は自分で死ぬことが出来ないから、君に殺してくれと言っているんだよ。君を殺して私が死ぬなんて、そんな面倒なことができるくらいならとうの昔に私は命を絶っているよ」
「しかし――」
太宰の指が芥川の唇に触れる。ツーっと撫でられるとまるでチャックをされたみたいに、芥川は黙り込んだ。
「相変わらず、君は変わらないねぇ」
本当に、と呟いて唇が重なった。
冷たくて柔らかい感触がした。
ちゅっ、と一度だけ啄んでから角度を変えて吸い付かれる。ちゅっちゅっと啄ばまれていくうちに、次第に冷たさが熱を帯びてきた。
なんだかもどかしくなってきて、芥川は両手を太宰の背にまわした。体がぴったりと密着する。次第に口付けが熱っぽいものへと変わっていった。

太宰が何故、死にたがっているのか――その闇はとても深くて芥川では覗き込んでも何も見ることは出来ない。
太宰が行方をくらましていた空白の四年――その間に何があったのか芥川は知らない。四年ぶりに再会した太宰は過去よりも明るくなった印象を受けたが、明るく振る舞う反面、その足元にこびりつく影はよりいっそう濃さを増した気がした。

「……芥川君、頼むから」
口付けの最中で太宰が告げる。
「いつか君の手で、私を殺してくれ」
何も返せなかった。かわりに芥川は強く強く太宰に抱き着いた。
雨の匂いと香水の香り。
きっとこの香りを忘れることはないだろう。

太宰はとても寂しがり屋な人間だ。
寂しいからこそ死を望む。死にたいと言う。
けれどその反面で「生きていてもいいんだよ」という言葉を望んでいるのかもしれない。
おそらく太宰には死ねない理由があるのだ。
まだ、芥川はそれを知らないけれど。
その理由の為に生きている。
けれど、果たしてそれが、この酸化した世界の中で生きていくに足りる理由であるのかが分からない。
だから太宰は自分の生を求める人間との接触をはかるのだ。
こうして、雨の日に芥川と出会ったみたいに。

「僕は、貴方に生きていて欲しいです」
もう一度だけ、噛みしめるように告げる。
まだ、雨は止みそうになかった。




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