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「今年の桜」





肌寒い日が続くと不安になる。もう春だというのに、どうしてこんなに寒いのだろう。
ぼんやりとそんなことを考えながら、太宰は肩を窄めた。ひゅうっと吹き抜けた風が、ボタンダウンのシャツの襟から入り込んできてスースーした。
シャツの下の肉体には包帯が巻き付けられている。つい先日、階段から落ちて打撲したのだ。階段から落ちるのは痛い。
「……やっぱり死ぬなら痛くない方がいいよなぁ」
ぽつりと呟く。その声は風によって拾われ、どこか遠くへ飛ばされていった。別に誰かに届けたい訳ではないのに。
遅咲きの桜の花びらと共に、風はどこかへ去って行く。見送りながら、太宰は「やれやれ」と首を振った。
今年の桜はいつもと違った。
例年なら、桜の花というのはある時点でフラッグを挙げられたみたいに開花スタートをするように感じられた。勿論、東北と九州ではスタートダッシュが異なるのは当たり前ではあるが。関東圏内であれば、おおよそ同じタイミングで開花するものだと思っていた。
それなのに今年の桜ときたら……3月の中旬を過ぎたあたりで東京でフライングスタートがあってから、他の県で開花するまでのスパンが非常に長く感じられた。
太宰は桜の木を見上げた。ほとんど緑の葉の色のなかに、まばらに淡いピンク色が伺える。風に揺られると葉がサワサワと音を立てた。
ひらり、と一枚の桜の花びらが舞い降りてきた。それは太宰の癖っ毛の髪へ着地して、そこに落ち着いた。太宰はおもむろに頭に触れると、用心深く花びらを摘んだ。
そして、それを観察した。
ピンクというよりはほとんど白に近い色だった。それは太宰に、健康的な女性の肌を連想させた。美しい女性の首筋。花びらの形は耳のようでもあった。
ちょうどタイミング良く、太宰の横を女の二人組が通り過ぎていった。桜の木の下に佇む太宰を見て、彼女達は何やらコソコソと言葉を交わしていた。
新緑が眩しい桜の木の下で、木漏れ日を浴びて風に揺られる太宰の姿はそれなりに様になっているようだ。ゆっくりと太宰は女の子達を見た。
パステルカラーの春らしい服に身を包んだ愛らしい女性達。つい、いつもの癖で太宰は口を開きかけた。
――『美しい人……どうか私と一緒に桜の木の下で永遠の眠りにつきませんか?』
しかし、太宰は何も言わなかった。
女の子達へ向けて軽く微笑むと、再び桜を見上げた。緑の葉の隙間から零れ落ちてくる陽射しが眩しい。



その日、太宰と芥川は真っ暗な道を真っ直ぐに歩いていた。どこへ向かうのか――目的地はひとつである。任務を終えて帰宅する途中のことだった。ぴたっと芥川が足を止めたのだ。
『どうした?』
訝しげな顔をして太宰が振り返る。
芥川は太宰へ視線を向けることなく、ただ一点を見上げていた。
『桜です』
その言葉につられて太宰も同じ箇所を見上げた。街灯の鈍い灯りに照らされた桜の木がそこにあった。
『本当だ。桜だね』
それだけ返して太宰は踵を返そうとした。再び歩き出そうとしたが、芥川はいっこうにそこから動く気配を見せなかった。仕方なく太宰は溜め息を吐くと、爪先を背後へ向けた。そのまま芥川のもとへと歩み寄った。
『別に珍しいものではないだろ?』
『…………』
芥川は黙って顎を引いた。それが頷きだったのかどうかは微妙なラインだった。だから太宰は何も言わずにその横顔を見詰めていた。
『……桜は好き?』
太宰が尋ねる。芥川はチラッと太宰へ視線を送ると、再び桜を見上げて小さく頷いた。
この頃の芥川は酷く無口だった。貧民街から拾い上げてきたばかりだったから、普通の言葉遣いというのをまだ良く理解していなかったのかもしれない。
だから芥川は言葉を発するより、些細なジェスチャーや仕草で感情を表現することが多かった。
これには太宰は些か骨が折れた。曖昧な態度を取られると、何を考えているか分からないから困る。もっぱら、言葉にされてもそれが真実か否かは判断しかねるのだが。
『貧民街にも桜がありました……』
静寂のなかで芥川が呟いた。
その小さな声は夜の闇の中で不思議と木霊して響いたように感じられた。
『似ているような気がしました』
あくまで桜と向かい合って告げられる言葉。煽られて太宰も桜を見上げた。
水銀燈の鈍い灯りに照らされる桜は、夜桜なんていうロマンチックなものとは程遠いような気がした。この辺りは昼間は人通りが多く、賑やかで明るい。それなのに、夜の帳が下りた途端にこんなふうに不気味な様相に様変わりしてしまう。
『私の故郷にも桜があってね』
ふわりと小さな風が吹いた。さわっと葉音を立てて桜が揺れる。舞い降りてきた花びらが芥川の前髪の付け根あたりに落下した。
『これよりももっともっと大きい。見上げる空の遥か彼方まで聳える枝が壮観だったね。あんなに大きな桜は横浜では目にしたことがないよ』
『……太宰さんは桜が好きなのですか?』
『別に』
短く切り捨てて、太宰はそっと手を伸ばした。芥川の前髪に乗っていた桜の花びらを摘むと、それを芥川の顔と比較するみたいに眺めた。
桜色が白い肌に吸い込まれてしまいそうな錯覚を覚えた。
『ただ思い出しただけだよ。君が貧民街の桜を思い出したように。私も故郷の桜を思い出しただけだ。今年の桜はもう咲いただろうか……』
ふぅっと息を吹き掛けて花びらを飛ばす。くるくると円を描いて飛び去っていく花びらを芥川は目で追っていた。
沈黙。花びらが去った後には、しんとした静けさだけが残された。
芥川の大きな目は去っていった桜の花びらを追っていた。太宰は変わらず芥川の顔を見詰めていた。
今、芥川は一体何を考えているのか。当然、太宰には分からない。この小さな少年が、小さな頭の中で考えていることくらい、どうして理解出来ないのかと歯痒かった。
こういう時、太宰は自分の未熟さを知った。そして頭を過ぎったのは歳上の部下のこと――織田だった。
織田と太宰は年齢的にはほんの数歳しか違わない。それでもやはり間に立ち塞がる壁は大きい。普段は何を考えているのか分からない織田であるが、その中心には一貫した信念のようなものが感じ取られた。
口数が少なく、余計なことは口にしない。それなのにあの一対の柔らかな眼差しに見据えられると心を見透かされてしまうような気がして居心地が悪くなる。
大人と子供。そんな時に嫌でも太宰はそんなことを思ってしまうのだ。
『芥川君……』
ゆっくりと芥川は大きな眼球を動かした。太宰を見上げるその目には水銀燈が反射して、不思議な光を孕んでいた。
『いつか見に行こうか?』
芥川は小さく首を傾げた。
『桜だよ。私の故郷の桜』
芥川の瞳の奥で、別の光が煌めいた。
そして、今までに見たことのないような顔で芥川は大きく頷いた。
その時、太宰の胸で何かが弾けた。甘酸っぱくてもどかしい。それが何であったのか、その時の太宰には理解出来なかった。



「……そうだ」
そんな過去を思い出して、太宰は意味もなく呟いた。この桜はあの時の桜だったのだ。
周囲が明るいから気が付かなかった。
太宰が覚えている故郷の桜よりも、ずっと小さくて儚い桜だ。
「今年はもう満開かな……」
何せ今年の桜は天邪鬼だから。

まるで私みたいだ。

ふいに芥川に会いたくなった。
太宰は小さく笑みを浮かべると、外套のポケットに手を突っ込んだ。そして歩き出す。
歩く歩幅がリズムを刻む。気付くと上機嫌に鼻歌を歌っていた。
今ならまだ間に合う。
――『いつか見に行こうか?』

芥川君。
あの時、頷いた君の顔を私は忘れてはいないから。
たとえあれから数年が経ったとしても、私はちゃんと覚えている。今では君もだいぶ良く喋るようになったし、私だって色々と知った。
だからこそ、今だから向き合えるような気がしたんだ。
今年の桜に背中を押されて。
今、すぐに君に会いたい。

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