緑道には長細い影がひとつ伸び、その後を追うように僕は早足で駆けていく。
なんだか少し、胸がチクリとしていた。
許可なくおきさんから離れてしまったこと、そのうえ知らない人と話してしまったこと。
怒ってるんじゃないか、この沈黙が何も言わずとも語っているようで怖かった。
しばらくその薄い背中を追いかけ緑道を抜けると先程の駐車場へと着く。
黒いバンが何食わぬ顔で元の場所に鎮座していて、焦りながらバンの取っ手に触れると熱を持っていたので思わず手を離した。
さっきまでは晴れだったから、そう思いつつドアを開けようとしても開かない。
ふとおきさんを見ると、ジャケットと紫の風呂敷をボンネットに置き車の周りを一周、そして下を覗いている。
診療所から出るときはこんなことしなかったのに。
数秒そうした後、おきさんはようやく車のキーを刺そうとして一瞬止まる。
恐るおそる傍に駆け寄りメモを取り出そうとしたとき、おきさんが何も言わず手をかざしてそれを制止する。
やっぱり怒ってるのかもしれない、そう思いノートを抱くとおきさんはキーを差し込み、「乗れ」と助手席を指差した。
車に乗り込むと陽に照らされていたシートはほんのり暖かく、シートベルトに手を伸ばすと金具は熱を持っていてまた反射的に手を離してしまう。
おきさんはジャケットと風呂敷を後ろへ放り、そのままシートに深く座り目線だけ動かして車の中、おそらく前方あたりを目視していた。
様子がおかしい。
なにか彼の周りだけ時間が止まってしまっているみたいだ。
そういえば先程会った男性と会話してるときもいつもと違う声色だった。
まるで僕と親しい人を装うかのように。
しばらくするとようやくエンジンが轟き、ドシンと足元に振動が響く。
おきさんは目を瞑り、トン、トンと長い人差し指で握ったハンドルの頭を叩く。それからしばらくして「ああ」と静かに声を漏らした。
「そのジャケット、猫の毛だらけになってる」
ふいにかけられた声にビクリと肩を跳ねさせてしまう。ジャケット…確かめるように見ても毛はそこまでついていない。
ノートを取り出そうとした瞬間、一瞬で間をつめられておきさんの手が僕のジャケットのポケットへ入れられる。
何が起きたのか分からず心臓が止まるほどだった。
取り出された彼の掌には小さな機械、オレンジのランプが点滅している。
こんなもの入っていたっけ…そう思いハッとする。
僕の顔を見ておきさんはその機械をダッシュボードへ置くと、よくやくハンドルを切った。
「コンビニに寄る」
「あ…かかった」
「あぁ?なんか言ったか」
「いえあの、こっちの話で」
怪訝そうにこちらを見る鶴見さんにすみませんと頭を軽く下げ、左耳にはめ込んだ盗聴無線のワイヤレスイヤホンの音量を少しばかり上げる。
かかった、というよりはバレた…多分。
エンジンがかかった直後のノイズと違和感しかないこの間、あの二人の関係性は謎だけど恐らく音のクリアさで言えば盗聴器なんてとっくに放られている。
けれど先程から聞こえるのは男性の声のみ。
なぜ少年はなにも話さない?
病的なほど真白い肌にポツリと置かれた朱色瞳。アルビノ…ではない。あの赤の端々、微かに見えた黄の色はまるで鬱血したかのようなそれだった。
けれど鬱血しただけでああも赤々と瞳が灯るものなのか。
そう、赤々とーー
「いねぇなあ」
いつかの錆びついたドラム缶に印されたあの蓮の花弁が海馬の奥深くから忌々しく浮かび上がろうとしたのを、鶴見さんの低い声が納めた。
「誰がですか?」
「トバリのわけぇのだよ。沖龍一」
沖龍一。
そう呟くやいなや、鶴見さんから双眼鏡を投げられたので慌てて受け取る。顎で指されとりあえずすみませんと一礼、双眼鏡を覗くと黒い集団が渦を巻くように塊になりながら一人ずつを見送っている様子が見えた。
みんな同じような背格好、高価そうなスーツや着物を身に纏い次々に長細い車へと入り込んでは細い路地へ消えてゆく。
「沖龍一とは?」
「今回の内部抗争の中心人物だよ。頭が切れるって噂だが暗躍し損ねて人が三人死んでる…けど相当トバリが惚れ込んでるのか殺されてるわけじゃねぇらしいし、今回の会合は沖の謝罪行脚だと思ったんだがなぁ」
「はぁ、謝罪ですか…そんな顔してなかったですけど」
「はぁ!?お前見たのか?」
鶴見さんの怒号に思わずイヤホンを落としそうになり肩をすくめる。
さすがソタイ、いやもうこの人の性分なのか。
「あっ、いやどうでしょう…黒髪でほっそりした美青年って感じですか?」
「曖昧すぎてわかんねぇよ。そんな奴いくらでもいんだろ…一緒にいた男の髪色は分かるか?」
「えっ…と…男というか少年でしたけど、白かったですね、真っ白」
「ハッハー!ハズレだな、沖が連れてんのは赤い髪の万里って奴って話だ。仲のいい兄弟にでも油売ってたのか?」
鶴見さんが豪快に笑うとわずかに車が揺れる。
バシバシと分厚い掌で背中を叩かれながらなるほど、とまた間の抜けた返事だけを浮かべ双眼鏡を返した。
仲の良い兄弟。
ーーいえ、甥っ子なもので
黒髪の彼が声色ひとつ変えずそう返したとき、僕は次の問いを間違えた。否、怯んだ。
どこに住んでいるかなんて、この地域に住んでいるのが彼かあの白髪の子かを主語にしなければどうとでも言い逃れができた。
動物が敵を敵と認識するとき、そして闘争か逃走かという判断を下すとき
それは相手の圧倒的な力を感じた瞬間だ
そこには経験も合理的な思考も通用しない、所謂遺伝子レベルの本能を突き刺すような圧。
嫌悪感や不快感とは違うあの原始的な感覚を、僕は知っている。
再び黒い塊がうごめく方へ目をやる。
カラスのような青黒い髪色と僕を見たとき一瞬垣間見せた冷ややかで隙のない目。
料亭の入り口から泥のように吐き出てくる黒の塊を見ていても、こめかみから何か閃光が弾けるような感覚は一度も感じなかった。
彼のあの眼を見たとき以外は。
「彼はなぜ暗躍なんて遠回りなことを?」
トバリに気に入られているなら、そのまま普通に過ごしていたって極道の道を昇り詰められただろうに。反芻してやまない思考を紛らわすように問う。
鶴見さんは野太い声でウゥンと唸り「わかんねぇんだよなぁ」と一言。
「三人も亡くなったんですよね?何か大きいメリットがなきゃやらないじゃないですか。そもそも暗躍が先なのか内部抗争が先なのか、彼の目的が…」
「オメェうるっせぇよ!だから沖を探して聴かなきゃなんねぇんだよ!!」
痺れを切らした鶴見さんが勢いに任せてコーヒーの入った紙コップをフロントガラスへぶち当てる。
や、やってしまった。
自分の悪い癖を掌握しているのに止められないのが悪い癖だ。
左耳から聴こえる「向こう側」で流れているラジオのポップミュージックがこの場に不釣り合いだった。
粗暴とは分かっていたけどこんなにコントロールできないものか。半分恐ろしさに腰が引けるのと、同時にぽつりと頭に浮かぶ疑問。
「鶴見さん…なんでそんなに聴きたいんですか」
理由、と、付け加えて問う。
鶴見さんは向こうの黒い塊を睨みつけるだけで、問いかけは宙に浮いたまま消えていった。
まだそこまでの信頼を得ているわけではない。
むしろ信頼を得るなんて高尚な望みは僕には不釣り合いなのだから仕方ない。そんなおセンチな思いとともにぼんやり窓に額をくっつけると、
「殺された三人の中に俺の同期がいた」
鶴見さんの言葉がぽつりと右耳を掠めた。
「まぁお前も老いぼれの昔話なんて聞きたくねぇだろうからな、理由なんてそれだけで充分だろ」
鶴見さんの言葉の端が歪んで空気へ溶ける。
どうして、そんな話を。
「どうして僕なんかに話したんですか」
一課の元キャリア。
どこにたらい回されてもついてくるその名前。いつしか本名など自分でも忘れてしまうくらいだった。
一課なら、一課だったんだから
誰も責めたりはしないし責める気もない。その通りだったからだ。
ただその「名前」はもはや名誉ある刻印ではなくまるで罪人に課せられる烙印のようだった。
どうせこの人もその色眼鏡で僕を見ているのだろう、墜ちたキャリアを藁にすがる思いでも使いたいのだろう。
ずっとそう思っていた。
だから次の答えは分かりきっていたと、
「俺はお前を殺させねぇぞ、青海」
そう思っていたのに。
「約束だ」
ゆびきりげんまん、うそついたら…
あどけない少年の声が、耳の奥から噴き出してくる。
靄でかすみがかった心の奥底にある赤々としたそれが、まるでゴーサインを得たように音を鳴らし首をもたげた気がした。
無尽蔵と言えるほどの選択肢が彼、沖龍一の周りに渦巻いている。
湧き上がる感情に口の端を噛み締める。
「お願いします、鶴見さん」
「面倒な奴に捕まった」
コンビニへ寄るまでの道中、おきさんが携帯のメールでやりとりをしていた相手は虎尾さんのようだった。
駐車場に降りて開口一番、虎尾さんと折井さんにそう一言。
同時に車を指し、「ダッシュボードの上、声は出すな」と折井さんに言う。
本当は折井さんのそばに行きたかったけれど、仕事中なのでノートを抱いたまま立ちんぼするしかなかった。
折井さんは車のフロントガラスから中を覗くと、驚きの表情とともにすぐこちらへ戻ってきた。
「あんな小さいのよく見つけて…型番調べますか?見たところ多分ソタイのものでしょうけど…あんなことしましたっけ?」
「しない。面倒の理由が分かるか」
「今までの粗暴なソタイさんとは毛色の違う奴が入り込んだ可能性があるから、ってか?」
揺れる白い煙と同時にポツリ、虎尾さんがこぼす。どこか楽しそうに。
おきさんはひとつ息を吐くと頷いた。
「アレを仕込んだのは一人だ」
「組んでる奴と共有してるかはわかんねぇし、単独で突っ走るようなら…確かに面倒な野郎だな。クロったら気に入られちゃって」
「穴はある。この性急さは捜査とは考えにくい」
「…知的好奇心ですね、だったらソタイの人じゃないのかもしれません。考えにくいのは一般人か、じゃなければ新人、ソタイであっても異動してきたような…僕、内部を調べてみます」
折井さんの言葉にただ一言、おきさんは「頼む」と付け加えた。
流れるように話が進んでいる。ほんの数秒、数分の間に阿吽の呼吸のようにそれぞれが役割を担う。
僕に分かることはただ、おきさんが誰かに狙われているということだけ。
そしてその人は多分、あの猫のような…
だとしたら何ができるのだろう。
ペンとノートだけのこの僕に、この人達のなんの役に立てるというのだろう。
ーーお前は思考する人間だ
おきさんの言葉が頭の中に響く。
「せいぜいあがけばいい」
静寂を切るような、けれど淡々として色のない声にハッとする。
おきさんを見上げると、その表情は形を崩すことなくただどこか一点だけを見つめていた。
それがあの人に向けての言葉なのか、それとも僕に向けられたものなのか。
「俺は止まらない」
そう呟いたおきさんの表情は見えなかった。