雨粒がコンクリートを叩いていた。
正確には五、六ほどの赤錆びたドラム缶に敷き詰められたコンクリートの上を。
高さはなく、皆一様に小さなドラム缶だった。

それらを覆い隠すように張り巡らされた青いビニールの中を何人もの警部や鑑識が忙しなく走り回り、水しぶきの泥が頬を汚した。

それでもかまわなかった。

ゆっくりと近づき、転がった一つのそばへしゃがみ込んだ。青いビニールを引きずってたぐり寄せ、それだけは誰にも見られないようにと抱え込んで。罵声が聞こえても肩を掴まれてもかまわなかった。
固まったコンクリートからはみ出た指は細く短く、爪の根元には見慣れたホクロが水滴に濡れ小さく瞬いていた。


ーーゆびきりげんまん、うそついたら…


無邪気な声が頭の中で木霊する。
必死で伸ばしたであろうその指先へ触れようとして止め、名前のつかない感情に震える己の掌をきつく握り締めた。


こんなはずじゃなかったと言ったら、許してもらえるのか。


雨粒か何か分からない雫が引きつった頬をとめどなく濡らしていく。

ドラム缶に刻印された赤い蓮の柄が、遠のきそうな意識の奥で不確かに揺れていた。






「おい起きろ新入り、もう着くぞ」


くたびれたスーツごと勢いよく小突かれ目が覚めた。数秒額に手の甲を当て、強く噛み締めていたであろう顎の痛みに頭を軽く振る。
投げかけられた言葉に「はい」と気だるい瞼を開け、前方を見れば砂利道の続く細い路地。
まだ数十分はかかりそうなのに「着くぞ」と先走るのは歳のせいなのか。運転席の上司の顔を覗き見、胸ポケットからシガレットケースを取り出す。


「禁煙だ馬鹿野郎」

「あ、すみません…でもこの車そんなに使ってなさそうだし、ヴィンテージになりませんか」

「一課降ろされてソタイに入れられた嫌がらせか?」

「ああ…なるほど確かに」

「冗談だよ。本当、わかんねぇ奴だなお前は」


それでも一課の元キャリアかよ、そんな小言を肩に受け流しながらぼんやりする。

窓を降ろして肘をつき、ゆっくり口元へ煙草を持っていく。吐いた煙が風と共に眼球をかすめ、ジリリと滲みるその感覚に思わず目をしぼませた。
サイドミラーに写ったゆるい渦巻状の黒髪を適当にかきあげると垂れ気味の目、起き抜けにしても精が無さすぎて、なるほど確かにキャリアとは言い難い。
試しにキュッと眉を潜めてみる。微妙だ。

組織犯罪対策部、ソタイ。

国内外問わない犯罪組織、暴力団、密売、ありとあらゆるマックロクロスケ達を相手にする部隊。
隣に座るガタイの良い男の方がいかにもそっち方面の輩に見えるが、段ボールを携え入ってみればそんな人達ばかりだった。
元いた部署と雰囲気も人柄も、果ては言葉遣いも全く違う、ただ粗暴な言葉の影にも人間味のある彼らのことはなんとなく好きだった。

こんな自分を受け入れてくれているのも。


「今日は帳の会合だからな」

「トバリとは?」

「おま…ヤクに腰道具の密売だけじゃなく最近は人身売買に手ェ染めてるって話だ…ま、内部でガヤがあったらしいから今日は動向を見るだけだな」


なるほど、と間の抜けた返事を窓の外へ放る。


人身売買。


脳裏にはあの赤々と刻印された蓮の花。


新調されたばかりなのかそれとも使われてないのか、しっくりこないほど張った助手席のシートに腰を深く沈めた。


「鶴見さん、殺したいほど憎い奴っていますか?」


赤信号で停まった車内、ウィンカーがチカチカと灯る対向車を見ながらふと呟く。
無線とノイズが絶えず鳴り響くそこに乾いた笑いが落ちた。投げ出したままの腕の先、煙草を挟んだ指に微かな熱の感覚。

ヘッドレストに後頭部を押しつけるように伸びをして眼球だけ横へ向ける。
皺の入り込み年期の入った男の目は「いるに決まってる」、そう言わんばかりの笑みを含んでいた。


「それに負けたら人間終わりだぞ、青海」


吐き捨てられた鶴見さんの言葉に口角を少しだけ上げて見せ、煙草を飲みかけのペットボトルに押し付ける。


『…トバリ会、会合場所、えー…キッペイ、吉平』


無線の音が車内の静寂を震わせていた。
















「八雲さんからの電話ですか?」


都内の奥まったビルの地下、無機質なコンクリート張りの一室、未だビニールが乱雑に敷かれた床へ煙草の灰が落ちる。
通話ボタンを切った後に声の方を見やると、眼鏡の奥で心配そうに歪む瞳と目が合った。
スーツの胸ポケットに携帯をしまって煙草を深く吸う。
耳に残るのは小さく震えた八雲の声だった。


「そ、八雲」

「珍しいですね。何の用だったんですか?」

「んー…決意表明…違うか、まぁいいから俺のプレゼントの感想を頼むよ」


はぁ、と折井が気の抜けた声を漏らして部屋の隅々に目を通してゆく。
時折触れるズボンのポケットには恐らく携帯、頭に浮かぶのは当然ただひとり。昨日の今日だ、八雲から連絡があったと聞けばあの惨状を思い返すだろう。
こいつもこいつでこじれてる、気付かれない程度にひとり嗤う。


「これだけ地下でも電波障害は無さそうですし…無線も入れられますか?」

「あぁ、受信機に合わせねぇとそれ…」


思いのほか早く我に返った折井の声に指を差す。何台ものパソコン、塗装の剥げ落ちたスピーカー、繋がれたケーブルまみれの床へ折井がしゃがみ込んで見入る。
数秒の沈黙の後、雑音だらけだった消防の無線がクリアになった。


「器用なもんだな。帳がお前を手放したくねぇのも分かるわ」

「やめて下さいよ…虎尾さんこそ手放されたくない人なんじゃないですか」

「さぁ…いつ見限られんだか」


笑えないです、そう返しながらテキパキと折井は目下のケーブルや機材の調子を整えていく。
薄灰色に見えるラジオのディスプレイがチカチカと瞬きするように光っては消え、すぐさま煌々と光る。
見限られる、そのときが何を意味しているのか。
何本目かの煙草に火をつけた。


「決意表明って八雲さん、そういうことも虎尾さんには言うんですね。そういえばどれくらい長い付き合いなんですか?」


振り向きもせず薄っぺらい背中が問う。
何気ない言葉の端をよくもまぁ覚えてるものだ。そんなに喋って頭の回路は絡まねぇのか、言いかけて止める。

どれくらいかなんて指折り数えるより先に、初めてあいつと出会ったときのことが閃光のように駆け巡る。けど同時に消したい記憶でもあった。
俺を変えてしまったから。

ずっと泥の中にいたかった。
できれば深く、ずっと深い混沌の中で。
そこが俺の居てもいい場所だと思っていた。


「お前、首元に熱くなった銃口突きつけられて笑えるか?」


蛍光灯がジジジと音を鳴らし、点滅したかと思えば不安定に部屋を照らす。突然の投げかけに動きを止める折井の背中も。
煙草の煙を肺いっぱい吸い込み、わざとらしく溜息交じりに吐き出す。湿っぽいのは好きじゃない。

折井が話していた記憶の点と点があるとするなら、もし俺の中にもあるとするなら、結ばれなくても確かに在るのはその一点だけでいい。


「虎尾さん?」


返答のない俺を訝しげな目が見る。ワンテンポ遅れて笑った。
やっぱり湿っぽいのは好きじゃない。
どういうことですか、と聞きかけた折井の声をシッと遮る。
茶化しや冷やかしではなかった。
折井の言葉の奥で微かに聞こえ始めていた警察無線が、聞き覚えのある名前を呼んでいたからだ。

折井も気付いたのか、チューナーを合わせるようにゆっくりと機材を捻っていく。
ノイズの奥で微かに復唱されるその声に目を閉じて耳を澄ませる。


『キッペイ…にて、ト…の…かいご…』


折井がその言葉を聞くや否や勢いよく振り返る。やけに青ざめて冷静さを失っているのは恐らく、


「吉平って…虎尾さん、そこって」

「分かってる」


携帯を取り出しプッシュする。
ワンコール、ツーコール、煙草を深く吸いながら電話先の奴が出る時間まで頭を回す。
内部で抗争があった隙を狙うか?考えそうだが性急過ぎる。今入ったとしても何も無ければ手は出せない。

何回目かのコールのあとようやく出た奴の声に息を吐いてから言う。


「クロ、そっちにソタイが向かってる」








カイゴウというものが半ばに入ったのかそれとも終わったのか、黒々しいスーツに身をまとった男の人たちが塊になって襖の奥から出てきている。遠目で見てもおどろおどろしい、薄気味悪い感じだけれど、あの中におきさんもいるのだ。
百蓮さんと言えば何も気にかけることなく僕の隣で櫛の調子を整えたり、お茶菓子を広げては食べたりを繰り返していた。
僕の視線に気が付いたのか首を傾げる。


『かいごうが、おわったようです』

「ああ…そんな仕事みたいなこと言うんだね」


仕事みたいなって、仕事なのに。
僕が返答に困りペンを手持ちぶたさにしていると、百蓮さんの視線が奥へと外れた。
ギ、と後ろの縁側の板が軋む音。
振り返るとスーツのポケットに手を入れ、もう片方の手で携帯を持ったままのおきさんが立っていた。
反射的に飛び上がるとまた湯のみが倒れ、慌てて元に戻すとノートとペンをひったくり立ち上がった。
その様子を見て百蓮さんが後ろで「すごい慌てよう」と笑った。そんなことを言われても、僕は今日、おきさんに迷惑はかけないと決めたのだから。
お茶菓子の殻が散らかった床をおきさんの切れ長の目が見る。


『おかしはたべてません』

「そんなことはどうでもいい。次に行く」


お咎めがなかったことに胸を撫で下ろしていると、ふと黒いスーツの人達が再び違う部屋へ入って行くのが見えた。
まだカイゴウは終わってないのだろうか。
けれど、おきさんは次へ行くと言っていたような気がする。


「次へ行く、というよりここを離れるってことかな」


百蓮さんが立ち上がりながら言う。
違う?と櫛を胸ポケットに入れるとおきさんの方を、正確には手に持たれた携帯をじっと見た。
その瞳がどんな言葉を語っているかは分からないけれど、ピンと張りつめた空気に身体が強張ってしまう。

何か良くないことが起きているようで。

おきさんの顔を恐るおそる見ると、顔色ひとつ変えず百蓮さんに視線を返すだけだった。


「まぁ、夕日くんがいなくなっちゃうなら俺も出るよ」


しばらくの沈黙のあと薄雲った空気を百蓮さんの呑気な声が遮り、最後にポンポンと頭を撫でられる。
思わずびくっとしてしまったけれど、それを見てもいつも通り曖昧な笑みを浮かべるだけだった。

おきさんは携帯をポケットに入れるとなにも言わず歩き出し、僕は急いでその後を追った。





おきさんの後をついて「吉平」の垂れ幕を押し外へ出ると、空は暗雲が立ち込めていた。もうすぐ雨が降ってくるのだろうか。
ただ、じめじめとした空気もどことなく「吉平」の中よりは澄んでいるように感じてほっと息をついてしまう。
入り口を少し歩いたところで、中から出てきた男の人におきさんが声をかけらる。渡された紫の風呂敷におきさんは会釈すると何か話していた。どうやらカイゴウの人のようだった。

僕はどうしたら良いのだろう。

とりあえずおきさんの見える範囲で、ちょっとずつ垣根沿いにもと来た道を歩く。

邪魔にならないようにソロソロと後ろ歩きをしつつ、適当な距離を保ってしゃがみこむ。
少し離れて見ても均等の取れたその容姿や佇まいは、隣の人と見比べてもやっぱり綺麗だった。
ふと初めて会ったときの光景、襖を開け彼と目を合わせたときのことを思い出す。
おきさんはどうして僕を拾ったのだろう。

どうして、こんな仕事をしているのだろう。


思いを巡らせているとふと足元に柔らかい感覚がし、驚いて飛び上がると真っ黒な猫が擦り寄っていた。
おきさんの方を見るとまだ捕まっていて、身体はこちらに向いているが顔は離せないような状態で。
少しだけなら、そう思い再びしゃがみこむと黒色の背中を恐るおそる触ってみる。
マルとは違う、その青黒い色と反して柔らかくてしなやかな毛並み。どこを触って良いのか分からずただ撫でていると、黒猫が頬を僕の手の甲に押し付ける。

ああ、あったかい。

思わず頬が緩む。



「可愛い黒猫さんだね」


かけられた声に見上げると、そこには見慣れない男性が立っていた。ハッとしている間も無くその人は僕の隣にしゃがみこむと、「猫さんは喉元がいいらしいよ」と一緒に黒猫を撫でた。

白い肌を際立たせるようなふわりとウェーブのかかった黒髪と、人の良さそうな垂れ気味の目尻にどこか緊張感の抜けた口元。よれよれのくたびれたスーツに砕けた口調と、何よりその穏やかな言葉尻から一瞬張りつめた身体の糸はすぐに引っ込んでしまった。


「このあたりの子?僕ちょっと分からなくて」


しゃがんだその膝に頬杖をつき、猫を撫でながらその人は問う。なんだかこの人が猫みたいだ。
僕の手が自然とポケットのノートを探り、そこでふと気づく。そういえば僕は頷くか首を振るか、それでしか答えられないのだと。

こんな優しそうな人にでさえ、声が出ない。

千早くんの電話にするりと出てしまった百蓮さんへのあのときの気持ちだ。

思わず首元のネックウォーマーへ手を伸ばしかけ首を横に振ると、


「ここにいたのか」


ハッとして声のした方を見る。
おきさんはジャケットを脱ぎ腕にかけていて、先程の男性から貰っていた紫の風呂敷はその中なのか見えなくなっていた。
おきさんを見ると一瞬男性の手は止まり、同時に目尻こそ変わらないものの瞳に隙のなさと鋭さが射した。

まるでなにかを見定めるような。


「知り合いか?」


おきさんが僕に問いかけ、そんなはずはないことを分かっているはずなのにと思いつつ首を横に振る。
その様子に男性はひとつ間を置くと「ああ、ごめんなさい」と立ち上がり髪をかいた。


「微笑ましい組み合わせだったのでつい…弟さんですか?」

「…いえ、甥っ子なもので」

「なるほど。このあたりにお住まいなんですか?」


柔らかいのにどこか奥に棘のある声色。男性の問いは僕にかけた言葉と同じだった。瞬間、ハッとして僕は冷や汗をかく。
彼と僕の会話を、おきさんは知らない。

けれどおきさんは僕を一瞬見ただけで「いいえ、遊びに来てただけです」と瞬時に答えた。
冷静に、ただ淡々と。
悪いことをしているわけじゃないのに、なぜか心臓が脈を激しく打っている。

少しの沈黙に、にゃあと黒猫が鳴いた。


「…お邪魔してすみません、良い時間を」

「いえ、こちらこそ。行こう」


また掴まれるかと思いきやおきさんはくいっと手招きをするだけで、ぼくは最後に黒猫を撫でた。
ぱたぱたとおきさんの後を追いながら振り返ると「じゃあね、ぼく」と彼は手を振った。






控えめに振り返された小さな白い手にまた大きく手を振り返し、少年とカジュアルスーツの男性の姿が見えなくなるまでぼんやり見届ける。

遠くの空でゴロゴロと雷が呻き、垂れ込みそうな曇り空に目を細める。
あの日もちょうど、こんな空の後で。


「はぁ、青海おまえ…どこ行ったかと思えば、一人で行動すんなよ」


少し間を置いて息を切らした鶴見さんがネクタイを緩めながら歩いてくる。相当探したのか褐色の広い額には大粒の汗。
そういえばそうでした…と我に返って謝りつつ、先程の二人の方を見やる。
もう見えなくなったそこはただの道で、撫でていた黒猫が駆け抜けてゆく。


「ソタイは大変ですね…」


ぽつりと呟いたその言葉が、しとしと振り始めた雨粒とともにアスファルトへ落ちた。














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