「千早!見てごらん、ほら、なんとキノコにお星様がついたよ」


たどたどしく、けれど今にも歌い出しそうな明るく弾んだ声が湿っぽい台所へ響いていたのを覚えている。
まだ10才にもならない姉さんは細枝みたいな腰に三角筋をエプロンのように巻き、俺を椅子に座らせながら毎日色々な料理を見せてくれた。
その日の晩飯は鍋だった。
人参はねじり梅型に、しいたけには「お星様」と切り込みを入れ、底の見えそうな味噌を溶かして作った鍋。味噌汁のようなものでも、土鍋に入っているとそれなりには鍋だった。


もうすぐあの男と母さんが帰ってくる。


コツコツという高いヒールの音と下品な笑い声が聞こえてきそうで、俺は古びて重心の取れない椅子の上で両膝を抱えてブルブルと震えていた。姉さんは変わらず洗い物をしている。

本当に怖いのは姉さんのはずなのに。

ホロリと熱い涙が頬をつたって、俺は姉さんのテキパキとよく動く手元を見るしかできなかった。
と、姉さんの手元から大きな皿が落っこちそうになる。


「おっと!」


不穏な雰囲気には不釣り合いなほど張りのある快活な声が響き、落ちずキャッチされたその皿と共に姉さんがこちらを振り返る。


「わざとだよ千早、涙、引っ込んだかな?」


グニグニと俺の頬をもみくちゃにする姉さんの目元はパッチリと澄んだ目で、どこまでも無垢で、なんの邪心も恐れも感じさせはしなかった。俺はつられて笑った。
だけど声は、声だけは出なかった。
パチンパチンと消えては灯る頼りない照明の下、不意に姉さんが俺の身体をそっと包み込む。
温かくて柔らかい感覚。
何度も何度も、俺の小さい頭を撫でて。







「感心するよお前、そんなことすんだ」


スグルの声が現実へ引き戻す。
ハッとして見れば床へ落ちたガジュマルの木と鉢の破片、そして二人分のカルテ。
柄にもなく取り乱した自分に軽蔑しながら、状況を把握するのに酷く時間が要った。

こいつはなんて言った?


「感心…するほどじゃないだろ」


平静を保つには根拠が足りなさすぎる現状に奴が嗤う。診察室のドアに寄りかかったまま首元を掻き毟り、血の滲んだガーゼが剥がれていく。
脱色されたブロンドは寝起きで乱れ、整った顔面の瞳には不気味に濁った鈍光が携えられていた。

ああ、こいつは“昨日まで”のスグルじゃない。

この癖のある言い草、人の心を弄ぶような言葉の選び方とヒエラルキの頂点にでも立ったかのような態度、表情。


「あのクッソ馬鹿力の銀髪野郎…次会ったらただじゃおかねぇクソ…いってぇなァ」


昨日夕日を迎えに行ったとき、玄関先で八雲先生が氷水入りのボウルと救急箱を持っていたのを横目に、ああこいつは無事ではなかったんだなと薄々感じていた。

そしてそのことへの違和感も。

三メートル程先にいる奴の顔やら手は真新しい包帯とガーゼで覆われていてなんというか痛々しい、というか、夕日が無事だったのが不思議に思えるくらいだった。
そう、不思議だった。

診察室のドアに寄りかかった身体をおもむろに起こすと、スグルはガーゼや包帯を気怠そうに一つ一つちぎり取りながら床に落ちた二つのカルテを手に取る。
慣れた手つきでカルテをめくって、それから俺の方を見やると笑う。


「物好きだな、自分のカルテ見るなんて」

「もう脱いだんだな」


スグルの挑発するような言葉を遮るように言葉を放った。
沈黙とも言えない短い静寂のあと、スグルはその空気に白けた笑いを浮かべた。カルテからゆっくりと目を離した奴の眼には微かに鈍光が射し、その表情はやはり歪んでいる。


「脱いだってナニをだよ」


こちらを振り向くと短いブロンドが揺れ、鈍色の眼光には光も刺さずただ放たれた言葉が宙に浮く。


「“夕日”を脱いだってこと」

「千早クン。学校は?」

「今日土曜。はぐらかすなよ」


ちゃんと「お前」と話すことができるようになったんだから。そう付け加えようと思って辞めた。もともとのこいつは、いま身体がこんなんでも相手の一挙一動に衝動的に動く。

そういう奴だ。そういう奴、だった。

それでも体力の消耗なのだろう、スグルはわざとらしい溜息を着いたあとカウチへ横たわり額へ手の甲を押し付ける。
「意味わかんねェんだよなあ」、雛枯れたような声が虚勢を張ろうとする意思とは裏腹で俺は言葉のタイミングを見失いそうになる。
ただ不自然なほど頭だけが冷静に、淡々と言葉を抽出し取捨選択していた。


「俺にはお前のいる世界は分からない」

「…俺のいる世界?よく言う」


意地の悪い笑みを口元に掘ったままスグルは手元のカルテを弾く。
奴が言いたいことは大抵想像はついても、不思議とさっきのように感情が吹き出すことはなかった。
どことなくピンと張り詰めてどちらかが一手でも力を入れればたちまち弾けてしまいそうな空気。奴も察しているはずだった。


「スグルゥ〜…スグル〜…お前もどうだ…オンナっていうのはなァ…いいもんだぞー…」


そんなピンと意図が張った空気に、わざとドスの効かせた声が響く。奴はカウチに身体を沈めたまま顔に二人分のカルテを置き、言い終わるとハハッと空っぽな笑いで喉仏だけを揺らした。
傷だらけでツギハギになった手の甲がぬるりと宙へ、その先の長い指がカルテを少しだけずらすとその青黒い瞳が天井を見つめていた。


「正座して…昨日今日会ったばっかの知らねぇオンナと親父がヤッてんのを見せられんだよ…愛人、ああ愛人って奴だったのか…あーいうのは…」


先程真似た声は父親のものか、聞かずとも天を仰ぐ奴の目が気怠そうに嗤うのを見れば分かる。

19XX年17歳時 覚醒剤を始め、暴力団幹部の愛人となり妊娠

カルテに記された八雲先生の筆跡とその内容を思い出す。目を背けたらいけない気がして、ただぼんやりと天井を仰いだままのスグルを見ていた。



「おい、オマエも挿れてみろスグル…あー…なんだっけ…ああそうだ、お前もそろそろソツギョウだ、羨ましいぞォこんな…ジョウモノ…」

「スグル」


俺の声に言葉は止まり、気が抜けた目玉は少し正気を取り戻すと途端に血の気を含みカルテを壁に向かって放り投げる。

「病人」とは思えない力だったが、恐らく頭の中はまだ昨日の怪我の名残があるのか思考や言葉はコントロールを失っているようだった。
ただ奴の中に込み上げる炎のような怒りだけが行き先をなくしたかのように部屋中にはびこり、薄気味悪く這いずり回っている。


「この世界なんてこんなもんなんだよ…お前もヘンテコに産まれてさんざんだよなぁ?分かるも分からねぇも…お前らの心臓から脈々と流れてる血は永遠に汚ねぇこの世界のクッソ野郎の血だろうが…ああこの第一子ってヤツぁ死んでんだっけ」

「スグル頼む」


唇の端が微かに揺れる。
乱暴な言葉も内容もどんなものだって耐えられるはずだった。
馬鹿にされるのが、俺だけであれば。


『千早』

愛おしそうに俺を呼ぶ声。


「姉さんを二回も殺さないでくれ」


焼けるような喉の熱さに押し出された精一杯を、スグルの目を見て真っ直ぐ放つ。
瞬間スグルの目の奥に窪んだ二重が見る間に鋭い線を引いた。
カウチから消えたと思った奴が机上から俺の身体を引っ張り出し、あっという間に床へ背中を叩きつけていた。
とっさにスグルの胸倉を掴むと冷たく硬い何かが首筋へ当てられている感覚。さっき俺が床へ落としたガジュマルの鉢の欠片だった。

一瞬伸びかけたどちらの手も止まる。


「どいつもこいつもうるせぇんだよチクショウ、頭がまわんねぇ…綺麗事ばっか抜かしやがって…勝手に死んで勝手にいなくなったんだろうが!!」


俺から目を逸らさず放った奴の声は異様に熱を持ち低く押しこもっていた。
こいつが何を、誰を思い浮かべて言い放っているのかは何となく想像がつく。


「死んだ奴のことなんて知らねぇんだよ…」

「そうだな。勝手に死んで、良い人になっちまうからな」


思い出だけを残して。
ギラついた瞳に少しの戸惑いの色と、首筋に当てられた鉢の欠片が微かに揺れる。


「スグル」

「あ?」

「疲れただろ、なんか飯作り直す」


ちょっとどいて、と、俺の言葉にどこか気の抜けたスグルの手を無理矢理剥がし起き上がる。
チクリと掠った破片が微かに首筋を傷つけたようだったが、もうそんなことはどうでも良かった。

粥はとっくに冷めているだろう。何かスープでも作るかと考えながら床に放られた二人分のカルテを拾う。


「テメェが疲れただけだろーが…」


はぁ、と釈然としないような溜息を背中で聞き流し、俺はカルテを棚の元あった場所へと深く差し込んだ。









時間がすごく長く感じる。
きっとこの庭を目の前に縁側で百連さんと話してまだ数分、数十分にも満たないはずなのに、心の針は数秒しか刻んでいないような気がした。

この二日で幾度となく見た長細い柄の櫛を取り出すと、百連さんはそれをまた軽く振り、僕の後ろへ回り髪をとかし始めた。

どうしてこの人はこんなことをするんだろう。

分からないことばかりで必死に情報をかき集めようとするけれど、目線、仕草、僕の全てがふわりふわりとかわされてしまうようだった。
諦めて身をまかせることにも最初こそ身体を硬くしていたが、飽きもせずのんびりと髪を解されていく感覚にいつしか慣れそうになっていた。
けれど。


チュンチュン、チチチ…


ぼんやりとした頭に響き渡る鳥の謳う声。

心細い。

ぷかりと浮かんだ胸の奥の言葉に俯いた瞬間、僕のスーツポケットの中で携帯が震えた。
「あれ」と百連さんが手を止める。急いで携帯を取り出して開くと、ディスプレイには「いちのせ ちはや」という文字。
通話ボタンを押すと携帯は細い指と共にあっという間に百連さんの手へ渡ってしまった。


「もしもし」


百連さんの細い喉元からいとも簡単に流れ出るその言葉に僕は何故か固まってしまった。

僕もこんなふうに声が出たのなら。


「…誰って、夕日くんのお友達だけど」


ハッと引き戻されてノートを引っ張り出す。『かわってください』、走り書いたそれに顔を向けて彼は少し考えている。いや、考えているのか千早くんの言葉を聞いているのか。
ただ僕には庭先の緑が風にそよぐ音だけしか聞こえなかった。


「悪いことしちゃったね」


千早くんになのか僕になのか、どっちに言ったのかは分からなかったけれど、「はい」と渡された携帯をひったくるように手に取り耳へ押し付ける。


「夕日」


電話口からは千早くんの声。
胸の奥から温かく柔らかい感情が込み上げてくる。「もしもし」、その言葉も言えずにどうすればいいか分からず電話口でパクパクと口を動かすしかできなかった。

『イエスなら一回、ノーなら二回、爪で受話器を叩いて』

ふとあのときの言葉が頭の中に噴き出し、僕は一回指先で携帯をタップする。


「無事か?」


そんな他愛もない言葉の端がどこか震えているようで、僕は戸惑いながらももう一度一回だけ携帯をタップした。「良かった」とそう一言、やっぱりいつもの声。
突然知らない人が電話に出たのだ、さすがの千早くんだって驚いたのだろう。


「夕日、お願いがあるんだけど」


見えないと分かりつつブンブンと首を縦に振りながら指先で携帯をタップする。
少しの沈黙と、風に揺れる木々の音。


「お前に会いたい。どうしようもなく、会いたい」


目の前にひらりと小さな花びらが舞った。

庭先に植えられたなにか、色とりどりの花々のどれかから。
あまりに不意な言葉にそれがスローモーションのように感じるほどだった。

ぎゅうと携帯を両手で握り、一回タップする。

どうしたのか、なにかあったのか、聞きたいことなら山ほどあった。今ここで聞けることではないとしても、少しなら聞けるはずだった。

声さえ、出ていれば。

ネックウォーマーに手を伸ばしかけた途端、「ありがと」とぶっきらぼうな声。


「仕事の邪魔してごめん。ほどほどにな」


待って、待って。
本当は伝えたい言葉に、口と目だけが右往左往してしまう。


「あと、さっきの人にごめんって言っといて」


少し間を置いて一回タップすると千早くんは変わらず「じゃあ」と残し、電話はすぐに切れた。
無音になった電話口がなんとなく淋しさを漂わせ、僕は光るディスプレイをただ見つめる。


「話、できた?」


百連さんの声が聞こえてもペンに手を伸ばせなかった。
ただ携帯を握りしめて、僕は舞い上がった花びらの赤々としたそれを眺めていた。
















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