横浜の中華街を抜け大きな公園を横切り、広がる海の深い青を見ても心はどこか落ち着かなかった。気がつくと肩に力が入っていて、首の根がジリジリと熱を伴いながら微かに痛み始めていた。

桜庭仁志。

僕が大学病院の内科医として外来勤務をしていた頃、彼は精神科病棟を束ねる医師だった。
彼は多くの実績と豊富な実務経験をもってしてもその肩書きにあぐらをかく事はなく、朗らかな笑顔と人柄で誰からも慕われるような存在だった。研修医時代からその病院で学んでいた僕が彼と接触することはなかったけれど、圧倒的なその存在感に憧れを抱いていたのを覚えている。


そして、彼はあの少女の主治医だった。


『先生、私全部思い出したの!』


12年経っても脳裏に焼き付いて離れないあのあどけない少女の弾けるような表情、声色。
ハンドルを握る手に力がこもり、手のひらにじっとりと汗が滲むのを感じる。
途中で寄ったカフェで落ち着きを保とうと買ったコーヒーはやはり苦く、脳と身体の緊張を際立たせるだけだった。


ーー会いに行かなきゃならない人がいる


そうだ。どうにか正気を、この決断を揺らがないものにしなければ。
深く息を吸って、ワンボックスを横道へ停める。窓を下げると微かな潮風が鼻をくすぐった。客観的に見れば何の変哲もない平穏な休日だったけれど、胸の中に沈殿した重苦しいモヤは深く濃く泥になっていきそうだった。
思い立つまま助手席に放っておいた携帯を手に取る。


「はいよーどうした?」


電話口から聞こえる間の抜けた声にほんの少し安堵する。僕はコーヒーを口に含み喉へ流し込むと、ふぅとひとつ息を吐いた。


「虎尾くん、やっぱりコーヒーにはミルクがいると思う」

「突然変なボケぶっこむなよ。どうした?お前から電話なんて珍しいじゃん。恋しくなっちゃった?」


なーんて、と彼はケラケラと笑う。
いつもならこんな軽口、上手くかわして彼に皮肉のひとつやふたつ返すのだけど。
コーヒーの入った紙コップを強く握ると中の黒が歪む。


「そうかもしれない」


力なく笑って呟いた声は潮風に掻き消されてしまいそうだった。
僕らしくもない。でも果たして僕らしいとは一体全体なんなのか。この場所は、今から向かう場所はそんな気持ちにまでさせる。


「…やっと甘えた、って言ってやりてぇけど、今のお前には違う言葉が必要なんだろうな」


トーンの落ちた声色は真剣で、いつもの彼とはまるで別人だった。虎尾くんは多分わかっている。僕が今、おそらくあの夜に言ったことを実行しようとしていることを。
そして、そのことに手が震えていることも。


「お前の命がかかってることなんだろ。思い出せ柊二郎。全部吐き出したら、そのあとは俺が全部受け止めっから」


一人はしんどいって言っただろ、その言葉にああ、やっぱり分かっていたのかと笑う。
丸くなった背中を押されたようで唇を強く結ぶ。これでもかと広がる青空を、背伸びをしてから見つめた。
ありがとう、そう言って静かに電話を切った。




海沿いの国道から抜け、道は舗装されていない奥まった細道へと変わる。
濃く青々とした樹々の影を踏み込み進んでいくと、目的地が頭を見せ始めた。冷たくなる指先としきりに速く脈打つ心臓にまた深く息を吸う。
ゆっくりと速度を落とし辺りを見回す。
閑静な住宅地。家々の塀からのぞく色とりどりの花を携えた木。見渡す限り目一杯の平穏な世界だった。
もしかしたらもうここには…そう思った瞬間、ひとつの表札が目に止まる。


『桜庭』


目から脳へそれを認識した途端、意識とは関係なく身体が強張るのを感じた。
同時に胸の内側を破りそうなほど鼓動は激しく打ち始め、呼吸が浅くなっていく。照りつける陽の光以上にチカチカと眼前は白く、胃液が迫り上がるような腹部の痛みに思わず背を丸くする。
情けないと嘲笑うように膝が笑っていた。

引き返すかーー


「おや、具合でも悪いですか?」


開け放したドアウィンドウの向こうから、低くおっとりとした安定感のある声が聞こえた。
この、声は。

重たい頭を上げその人を見る。
目尻の皺こそ目立つようになったがどこか慈しみと母性を感じさせる優しい瞳、陽の光にくまどられても成熟した品のある輪郭や大きめの鼻の形。


桜庭仁志先生、その人だった。


「桜庭…先生」


その姿を眼前に、掠れて喉に引っかかるような声しか出なかった。
僕の言葉、おそらく自分の名前が出てきたのに驚いたのか彼は一瞬目を丸くさせたが、すぐに血色の良い両頬に柔らかな笑みを添え「そろそろ、いらっしゃるかと思いました」と静かに目を閉じた。


「どうぞ、中へお入りください」







空いている車庫へ車を停めさせてもらい、最中の会話は正直頭に全く入ってこないまま僕は桜庭邸へお邪魔させてもらっていた。
ご夫人も桜庭先生とどこか表情や仕草が似ていて品のある、けれど心地よい幼さを残した女性だった。

適度に広い書斎…なのだろうか。ダークブラウンの乾いたフローリングには北欧風のアイボリーラグが敷かれていて陽の当たる部屋に程よく調和していた。
ご夫人がテーブルへ出してくださった西洋菓子とティーカップを目の前に、「苦手でしたら申し訳ない」と先生は言う。僕は力なく「とんでもないです」と精一杯呟くだけだった。

出窓の丈の短いレースカーテンが風に揺れ、その微かな音だけが沈黙を波打たせていた。


「貴方が八雲くん…いや八雲先生、でしたか」


沈黙を切るように言葉を発したのは桜庭先生だった。「先生」、そう呼ばれることに違和感を覚える。この人の前では自分がいかにちっぽけかまざまざと見せつけられるようで。


「産婦人科のところへ頻繁にいらしたのを覚えていますよ。僕も夜勤明け、いつも仮眠室から出るとすぐに向かうところはあの場所でしたから」

「どうして僕がここへ来るとお思いになったのですか」


場を和ませようと取り繕った先生の言葉を覆うように堰を切る。
聞きたいことなら山ほどあった。
けれど最初に僕を見たとき彼が発した言葉が心の弁のようなところに引っ掛かって取れなかったのだ。
桜庭先生は書斎のチェアに腰を深く落とし、ティーカップを見つめた後に出窓を覗く。何か言い淀むような返答を、知っていても僕は待つしかなかった。


「もうすぐ、サルビアの季節ですからね」


風が強く吹き込み髪を乱す。
その言葉に噴き出すのは少女のあどけない笑顔と湿ったアスファルト、そして赤々と咲き誇ったサルビアの花。
考えるより先に身体は動き、ソファから崩れ落ちるようにして僕は頭を下げ土下座をしていた。深くふかくラグに額を強く押し付けて、ただひたすらに彼の12年間の月日を想った。


「申し訳ありませんでした」


この季節がくるたび彼は何を想ったろう。

見ず知らずの研修医あがりの、しかも精神科医でもない人間に、かけがえのない彼女の最期を、最期の言葉を交わされるなど。
喉元に熱い熱がこみあげ、身体中は震え、出る資格もない涙が溢れ出して止まらなかった。
この涙すら出すのが惜しい。けれど悔しいほど留まることのないそれに顔の両脇へ押し付けた拳を強く握る。


「お願いです八雲先生、どうかお顔を上げてください」


感情的になるのをやっとの思いで抑えようとするようなそんな声が頭上から注がれ、同時に丸くした背中を温かい手のひらがさすった。
僕は顔を上げられず身体を震わせたまま嗚咽を漏らした。
こんな姿を見たら僕自身の患者はどれほど落胆することだろう。けれど今は自分自身が過去に懺悔する患者であるようだった。


「僕は千尋を救いたいと思ってしまった」


千尋、とは彼女の名前だった。
彼女が自死したのち、病院を去る前にカルテを見た。亡くなるまでの桜庭先生と彼女とのやりとりは日常の他愛のないささやかな話、診察室の中だけでなく廊下や仮眠室で交わされた自然の花々や空の色の移り変わり、他の看護師と医師達とのやりとりが細やかに記録されていて、カルテ越しでも賑やかな笑い声が聞こえてきそうだったのを覚えている。

救いたい、それは医師として必要な感情でもあったが、反面抱いてはいけないものでもあった。「彼女はね」、桜庭先生は続ける。


「天真爛漫というのかな…年齢は皆より少し上だったしお姉さんのような印象もあった。症状や生育歴の負荷に優劣はつけられないけれど、あんなものを背負わされたのにいつも明るく笑っていたよ。痛々しいほどに」


彼が今どんな表情で語っているかは分かりもしなかったけれど、寂しい自嘲のような声色が全てを語り語尾を震わせているのを頭上に感じていた。


「あの夜のことが起きたのは決して君のせいではない。救いたい、その感情だけで抱え切れもしない彼女を他にリファーもせず手元に置いてしまった。そんな僕のエゴが全ての原因なんだよ」

「違います」


先生の言葉を遮るように顔をあげて言う。


「先生、千尋さん最後にありがとうございましたって言ったんです。あの仮眠室で」


一瞬の沈黙の後言葉は途切れ、それまで流れるようだった会話は部屋の静けさへと落ちた。
僕のその言葉に桜庭先生が何を感じたのかは分からない。
ただ、震えるまつ毛の影にようやく潤みを含んだ瞳と、くぼんだ目の奥から心待ち溢れた涙が先生の言葉を待たずとも全てを語るようだった。

最初にあの仮眠室へ飛び込んだとき、千尋さんは僕と桜庭先生を間違えたのだろう。いつも彼が眠っていたあの場所へ、彼女は迷わず一目散に駆け込んできたのだ。
今なら思える。
あの言葉は僕ではなく貴方に向けられたものだったと。




それからようやく少し落ち着いた僕を見て、桜庭先生は彼女、千尋さんとの思い出を交えて色々な話をしてくれた。
「いつか先生が開業したら通うからね」という彼女の言葉どおり診療所自体は12年前に開いたが、心と身体がもたなくなってきた数年前に閉じたこと、今は数人の患者のみを相手に臨床を続けていること。
いま僕が診療所を開いていることも知っていて、何度か足を運ぶつもりであったことも。

今度は臨床以外のことも話そう、そう微笑んで彼はティーカップのコーヒーを飲み終えた。


「彼女はこの横浜の沿岸、ちょっと先に眠っているから会いに行ってほしい」


桜庭先生はそう言うと使い込まれた万年筆をスケッチブックへ走らせた。
そう言えばこの人は絵も描くのだと、ふと思いながらその皺の入り込んだ大きな手の甲を見つめる。
彼女が眠る場所。
安らかにいてくれているのだろうか。
こみ上げる喉元の熱に唇を噛み締める。


「天国はよほど良いところなんだろう。でなきゃ彼女は戻ってくるはずだから」


先生、あのねーー
そんな彼女のはつらつとした明るい声が今にも聞こえてきそうだった。

桜庭先生は微笑みを頬に浮かべ、僕に紙を手渡した。事細かに記された地図と要所要所に店や建物の名前が整った輪郭で文字になっている。
その温かみのある文字に頬が緩みそうになった瞬間、最後に描かれた名前にドクリと心臓が止まる。
脂汗が背中を流れ、再び呼吸が浅くなっていくのを感じる。
「どうかしたかい」、そう心配そうに問う桜庭先生へ返す言葉を必死でかき集める。


「桜庭先生…彼女の、千尋さんの苗字は確か、斎藤ではなかったでしょうか」


絞り出した声はあまりにも小さく震えていた。


「ああ…それは里親さんの苗字だね。暴行を受けてから引き取られて斎藤になった。もとは暴力団の愛人の子だから…本当の苗字はその生みの母親の苗字だよ」


暴力団の、愛人。

どこかで聞いたことがある。あれは確か診療所を開いてほどなく来院した二人の母子の初診だった。
母親はすでに統合失調症を患っていて、まともな診察とは思えなかったのを覚えている。彼女の言葉を半信半疑で聴いていたのも確かだ。
ただ彼女ははっきりそう言っていた。
真偽を図ろうと連れられてきた子に聞こうにも、ああ、頭が回らない。

僕はなにを聴いた?


「ちなみに…千尋さんにご兄妹は…」


心の奥底で願っていた。
違うと、この点と点だけは結ばれないでくれと。


「いるよ。歳こそ離れてはいたけどたしか…弟が一人」


今はどうしているか…そう続ける桜庭先生の声が遠のいてゆく。


『一ノ瀬千尋』


記された地図の右下に描かれた青色の万年筆の跡に、僕の意識は一人の少年の面影を彼女へ重ねていた。









カラカラとカルテ棚は開いた。
染み付いた診療所独特の香りが埃っぽさと同時にどこか心地よく鼻をくすぐった。今していること、これからしようとしていることの重さと裏腹に。


No.42 一ノ瀬万理江 イチノセ マリエ

No.43 一ノ瀬千早 イチノセ チハヤ


二人分のカルテを引っ張り出す。
今も通院している母さんのカルテは厚ぼったく、俺のカルテだけがやけに薄っぺらく感じた。
なんとなく両手で扱わなければならない気がして、カルテ棚はそのままに八雲先生がいつも腰を下ろしている書斎のチェアに座った。

机の上に二冊を置き、しばらく見つめたあと深呼吸してまずは母さんのカルテを開く。

出生、生育共に東京都
同胞二名、第二子長女
出生時の問題なし

その書き出しから始まった母さんの生育歴に目を通していく。踏み込んではいけない聖域に無理やり足を食い込ませている罪悪感に、溜息を深くついて頭を抱える。
目を伏せたくなる生育歴だった。

それでも読み進めていくと、異変が起き始めたのは17の頃だった。

19XX年17歳時 覚醒剤を始め、暴力団幹部の愛人となり妊娠
19XX年18歳時 第一子(と思われる)出産、中絶か?
Kr.支離滅裂、感情失禁となり聞き取り困難
妄想の可能性あり、第一子の存在については詳細不明とする


気がつくとカルテが皺になるほど強く握りしめていた。
心の奥底に沈殿していた仄暗い靄に火花が散り、黒煙が溜まってゆくのを感じる。

母さんは伝えようとしていた。
あのときここに座った八雲先生に向かって必死で、掻き集められるだけの思い出の断片を苦しみと一緒に吐き出していたはずだった。

いや、違う。俺が引っ掛かっているのはもっと、もっとーー


俺は冷え切った指先で自分のカルテを引き寄せる。当時8歳と記されたままのそれを、ゆっくり開く。


診断名 場面性緘黙

出生、生育共に東京都
同胞 無し 第一子長男



「違う」


閃光が頭に走り、考えるよりずっと先に言葉が口から出ていた。

違う、違う、違う。

統制できない感情に思わずカルテを机から投げ落としていた。
引っ掛かって落ちたガジュマルの鉢がけたたましく音を立て割れる。机にしがみつくようにして重心の失いそうな自分自身の身体を必死で支える。それだけで精一杯だった。


『千早』


明るくはつらつとした声が頭の中で呼応しハッとする。
同時に薄暗い部屋、カーテンの締め切られたボロボロのシングルベッドの上で、痣をしこたまこしらえ震えていた薄い背中が脳裏に噴き出す。


『なにも言っちゃダメだよ』


振り返った彼女の顔を、涙の粒を目一杯溜めながら気丈に微笑む彼女の顔を、





姉さん。







「えらく暴れてんなァ、千早クン」


憐憫と哀れみを混じり合わせたような嘲笑が診察室の入り口から放られた。
残穢が抜けきれない頭をゆっくり動かして声のした方を見る。

乱れたブロンド、頬や目元を隠すほどのガーゼと包帯をこしらえ少し痩せたその姿。


「…スグル」














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