おきさんを見送ったあと、着物姿の女性に連れられて僕は庭沿いに続く広く長い廊下に通された。
「吉平」というのは百連さんが言っていたように料亭というところで、美味しいお料理もお菓子もあると女性が話してくれた。心地よく軽やかな彼女の声は先程の大きな黒の群れのおどろおどろしい雰囲気とはかけ離れていて、少しだけ気持ちが凪いだ。

お屋敷、迷路のような長い廊下に出張った縁側に小さな座布団が敷かれ、しばらくそこに居ても良いとお菓子とお茶が添えられた。

大きな庭の前の縁側に僕は座っていた。
庭に植えられたたくさんの木々たちが、明け方の霧の潤みをまだ含んだまま緑の香りをたゆたわせていた。
暖かくて居心地の良い、けれど裏腹に気持ちはどんよりと曇っていた。

ここは、僕には広すぎて。

いつかのように膝を抱く。
慣れないスーツの裾が板敷きの間に引っかかってプチリと音がする。


チュン、チュン。


ふとハッとして前を見る。木々の覆い茂るそこではどこにどんな鳥がいるのか分からなかった。けれど交互に鳴くその声に、きっと番なのだと心が疼く。
この知らない世界に放り込まれ、あの無機質なコンクリートの建物の中で折井さんと虎尾さんをこうして遠目に眺めていたことを思い返す。

そしてもう一人、あの場所にいた彼のことも。


チュン、チュン。


たん、たん、と縁側の床を足の裏で叩いてみる。
スグルくんはいないはずなのに。
あの薄暗い診療所の一室のベッドで横になったままの彼を思い浮かべる。


いま何をしているんだろう。
なにを考えて、なにを感じているんだろう。

ねぇスグルくん、僕の選択は間違っていたのかな。


『なんで俺じゃ…なかったんだよ』


震えるような声とボロボロになった彼の姿が脳裏から噴き出し、膝を抱えた腕をぎゅうと握った。



「抜けてきちゃった」


ふわり、微かに香るのは品の良い花々の胸をすくような香り。だけど庭からの香りではない。
その香りに鼻をくすぐられ頭上からの声に驚いて上を見やれば、百蓮さん、その人がちょうど僕の顔を覗き込んでいるところだった。

ああ、初めて彼の瞳を見た。

髪の色と比例して青黒い、冷たく冴えたその瞳が細い髪の隙間から見えたのだ。
胸の奥を撲たずにはいられないような、生き生きとして美しいはずなのにどこか細枝をつたう雫のような瞳。
その二つがせめぎ合う瞳の奥の色は葛藤に鬼火を刺すようで、ぞくりと背中が粟立つ。


「泣いてるの?」


言われたことに驚いて頬を触る。まだほのかな熱を持った涙が、確かに目元から頬へ溢れていた。
慌ててスーツの裾で拭こうとすると、「待って」と言われ顎に手を添えられる。先程の絡みつくような指先の感覚を思い出し咄嗟に身体が硬くなったけれど、触れたのは白いハンカチだった。
丁寧に、落ち着いた仕草で僕の涙をポンポンと拭き取っていく。
その数秒が、数分がとてつもなく長く感じた。湧き上がる安心感に抗うような恐怖感、それらが混じり合って心の奥を掻き毟る。
これで元どおり、そう言うと百連さんは僕の隣に座って長い脚を組んだ。

この人は一体、なんなんだろう。


「そのネックウォーマー、昨日もしてた」


指差された首元のネックウォーマーをパッと隠すように握る。触れられたくない大切なものが曝されてしまった気がして嫌だった。


「その中には何があるの?」


ドクリと心臓が強く波打つ。
チュン、チュン、鳥たちの声が響き渡り、同時にあのときスグルくんの放った言葉が靄がかったように聞こえてきそうだった。
あの縁側の下でスグルくんが言った言葉。

「これ」を見た彼が、なんと言ったか。

思い出したいけれど思い出したくはない、そう俯いたまま動けずにいるとふわりと後ろ髪を柔く触れられる感覚。


「顔や手のひらみたいに真っ白い肌が続いてるのかな。それとも何か違うものがあるのかな。見られちゃいけないような」


思わずその手から離れるように身をよじると横の湯のみが音を立ててひっくり返り、中のお茶が床へ溢れてしまった。
けれどそんなことはどうでもよくて僕はノートに必死で走り書く。


『ぼくにはあなたが何を考えているかわかりません』


少し震えた手で勢いよくそれを見せると彼は意外そうに唇を結び、それから少しの沈黙。
まるで僕の文字や行動全てを味わうように、髪の隙間から微かに見える瞳がなんの情緒も捉えさせず見つめている。


「…俺は単純だと思うけど。その言葉で俺を精一杯責めたつもりなら、可愛くて優しいね」


やっと口を開いたその言葉に思わず僕は溜息が出そうになる。なんにも通じない、そんな気がした。そしてそんな人へ感情的にぶつけた文字も恥ずかしくてそっとノートを閉じる。
どこが可愛くて優しいのか、横目で彼を見るとどこか適当で希薄な笑みを頬に浮かべている。
僕でさえ遊ばれていると感じるのだから、この人の言うとおり中身は単純なのだろうか。


「ねぇ、そのノート借りて良いかな」


容姿とは裏腹に力の抜けるような声色。
違和感だ。
先程までは恐怖や不快感でいっぱいにされたというのに、今度はどこか人懐っこい。
無邪気、と昨日辞書で見た言葉と似たようなもの、けれどそれとも違うような、彼が何者なのか定まらないもどかしさを抱えつつノートを手渡す。
彼は胸ポケットからまた万年筆を取り出すとそれを走らせて見せた。

『きらい』『すき』

その二つの文字の間には長い線が引いてあった。訳がわからなくて百蓮さんの顔を恐るおそる見る。


「俺は今、君の中でどのあたりなのかな」


丸をつけてみて、とペンを手渡される。
分からないことが多すぎる。
まだ会ったばかり、初対面も良いところなのにここまでされる意味が分からなかった。


『お前は思考する人間だ』


おきさんの言葉が頭の中で反芻される。
そうだ、考えなきゃ。振り回されちゃだめだ。
僕が今考えるべきことはこの問いにどう答えたらこの人が満足するかではなく、どうしたらおきさんが納得するかだ。

そしてそのヒントは多分、この人の容姿、口調、おきさんとのやりとり。


『簡単に落とせると思ったら困るな』


恐るおそる、ただ少しの確信を持ってペンを走らせ、丸をつける。
『きらい』でも『すき』でもない、けれど少し『きらい』に寄せ、敢えて控えめに小さく描いた丸。
この人が求めているものはきっと相手の無垢、純真さと自分のスリル。


「やっぱり、欲しくなっちゃったな」











空っぽになった診療所は耳が痛むほどの静寂が溜まり込み、廊下沿いにある部屋の時計の秒針たちが控えめにそれを和らげていた。
八雲先生のいないここは無機質で、人間味はあるはずなのにどこか重苦しかった。
場所が場所だからそう感じるだけか。

「スグルに、なにか作ってあげて」。そう言われてもあいつがなにが好きなのか、そういえば聞いたこともなかった。
夕日の好きなものも。ふと自然に浮かぶ顔に心が緩む反面、今頃なにをしているのか、させられているのか、考えると止まりそうになかった。

それとーー



『Dr.桜庭』



あのメモ書きが俺の胸の奥にじわりと膿を作っている気がした。
時計の秒針に耳を澄ませ、診察室へ向かいかけた足を台所へと戻す。


病人だからとりあえず粥か。
使い慣れた台所の棚から小ぶりの土鍋を取り出して白米を注ぎ、適量の水を浸す。吸水させる時間などはないから仕方ない。
強火にしたまま待ち、立ちのぼり始めた湯気とクツクツという鍋の中の音に息を漏らす。そして何度目か、再びポケットの携帯を取り出して開く。

連絡はない。

電話でも、そう思った瞬間すぐにパチンと携帯を閉じる。

何をするにもこの感情が邪魔だった。
けどこの胸の奥にある膿みたいなものを、あいつなら取り除いてくれるんじゃないかと思った。
俺の気づかないうちに、知らないうちに、さりげなくあいつだけの存在だけを残して。


「夕日」


そう呟いて、湿気が雫になって落ちそうな出窓に指先で触れる。「末期だな」、純平がそうからかいそうで思わず眉間にしわを寄せた。

湯が吹きこぼれないよう土鍋の蓋をずらし、とろみのついたそれを確認する。
卵か、梅干しか。
“昨日まで”のあいつならなんでも喜ぶだろうと冷蔵庫を開き、奥の方に鎮座したままの小鉢を取り出す。
ラップを引き剥がし梅干しへ菜箸を伸ばしかけ、その赤々と艶めく色に手が止まった。

手のひらにじっとり吸い付く小鉢の湿り気が雨上がりのアスファルトの感覚へ。

そして、赤いサルビアの花のーー



俺は火を止めると、先程足を踏み入れかけて止めた診察室へ走っていた。







シンと静まり返った診察室は容易に入ることができた。鍵の束からこの部屋の鍵を探し出しドアノブの鍵穴に差し込むまで、微かな震えを感じていたのが馬鹿らしいほどだった。

アンティーク調の部屋に敷き詰められたエンジ色の柄絨毯を踏み込む。
中央に置かれたカウチは薄汚れ、それでもこの部屋の雰囲気と喧嘩することなく自然と溶け込んでいた。
紙カルテが入ったカルテ棚の鍵の場所さえ俺は知っていた。いや、知り尽くしていた。
それなのに手を出そうなんて微塵も思わなかった。

母さんにとって、八雲先生は神様だったから。
もちろん俺にとってもそれは変わらない。


木彫りの机、二番目の棚を引き出して隅にある小さな鍵の束を手に取る。
パーテーションを引きずってずらすと、奥のカルテ棚の前へと進んでいく。あたりの空気が途端に重さをもって足元へ溜まる。
俺の知らない世界がまるでひとつになって目の前にあるような、カルテ棚の構えが頭を冴え切らせた。

ゆっくり、確実に目的の棚の鍵穴へと鍵を差し込んでゆく。
震える息に目を瞑る。


「夕日…俺は」


間違ってるか、そう呟いてカルテ棚を開いた。














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