チリン、と、どこかでまだ早い夏の知らせを奏でる音がした。
身体を包み込む細い腕はスーツ越しでも冷たくひんやりとしていて、眼前の長い黒髪が静かに揺れていた。
また会えた、その言葉が脳の根まで木霊して止まない。
この人を、僕は知っている。
彼はスーツの胸ポケットから長く細長いエンジ色の櫛を取り出すとあの時のように軽く振り、柔らかく僕の髪の毛をといていく。
ほつれた前髪が横へ流され視界がクリアになると、その人の顔の造形がよく見えた。
繊細で色の抜けたような白い肌に真っ直ぐ伸びた細く高い鼻、整った輪郭。ただ長い前髪が彼の瞳を隠し、薄く淡いピンクの唇だけがほのかに反られて見えるだけだった。
驚いてすぐ身体を離すと体勢が崩れ、また転びそうになったところを今度は後ろからおきさんの手が支える。
その手もどこかひやりとしていて、怖い、その感情だけが頭や胸の中をいっぱいにした。
「百蓮」
ひゃくれん。そうだ、その人だ。
そう呼ばれた彼は口角を僅かに上げて「何もしてないよ」と櫛を胸ポケットへと戻し手を翻した。少しの沈黙の後、彼は僕の胸元に抱きしめられたノートを見る。
「それは?」
肩ごと身体が跳ね、思わずノートとペンが砂利道へ落ちる。先程おきさんへ聞いた文字のページがちょうど開き、僕が拾うより先に細く長い手がそれを制止する。
「…ポエム?」
その言葉に僕は思わずきょとんとして、答えようにも「ポエム」というものが何なのか分からず声は出ないのに言い淀んでしまう。
本当は書いて伝えたいけれど、おきさんを横目で見るともう背中を向けて先へ行ってしまうところだった。僕は焦ってノートとペンをひったくるように取り、小走りでおきさんのもとへ向かう。
「きみは焦らすね」
やっとおきさんと並んだと思いきや頭上から声が降ってきて、驚いて見るとひゃくれんさんが涼しげに横を歩いていた。
じらす?思いがけない言葉とおきさんじゃなく僕ばかりに話しかける意味が分からなくて、頭の中がグルグルしてしまう。
どことなく絡みつくような視線から逃れるように下を向いた瞬間、彼はトントンと僕のノートを指で叩いた。
これは何なのか、そう問われている気がして急いでペンを走らせる。
『ぼくは声がでません』
「そうなんだ。じゃあこれで話してたってこと?」
ブンブンと首を縦にふるとようやく納得したのか、「ふぅん」と声を漏らして微かな笑みを頬に浮かべた。どうやらポエムとやらの誤解は解けたようだった。
声が出ないと伝えても顔色ひとつ変えない。
まるで分かっていたかのように、そんなはずはないのに。
「きみの名前が知りたいんだけど」
意外な問いにまた僕はきょとんとする。
転々とするこの人の言葉ひとつひとつ予測がつかなくて、手のひらの上で遊ばれているようなそんな気持ちになる。
それでも不思議と威圧感も表裏も感じさせないのは多分、淡白だけれど純粋に知りたいという仕草と、容姿とは裏腹な人懐っこさのせいだろうか。
『夕日です』
「…へぇ…あ、そっか。俺の名前」
ひゃくれんさんは胸元のポケットから紺色の万年筆を取り出すと、僕の文字の横に「百連要」と書いた。百連、は読めてもその横の文字が読めずにいると、「カナメ」と付け足して微笑を口角に浮かべた。
「夕日くんはどうしたら声が出るのかなぁ」
ふと伸びてきた指先が僕の頬をなぞる。
先程までの人懐っこい純粋さとはどこか違う、低くて粘りつくような声。
思わず指を引き剥がすように身体を離すと足がもつれ、転びそうになって目を瞑る。と、おきさんが僕の肩ごと力強く身体を引き寄せた。
「こいつに用があるなら俺を通せ。面倒だ」
「…わかった、ってことにする」
すぐにパッと離されても少し痛む肩。その痛みがおきさんの苛立ちや憤りを表しているようで、面倒という言葉が僕の心の奥にモヤを残した。
面倒になるのは、いやだ。
「こんな真昼間から料亭で会合だなんて、帳会はお金があるね」
「さぁな」
百蓮さんとおきさんのやりとりを前に、三人で緑道沿いの石畳を歩く。おきさん、ひゃくれんさん、そして僕。心にモヤが残る中、足並みは揃っていないけれど並んで歩いているのが不思議だった。
そして百連さんの話の端にあったトバリという言葉。
聞き覚えのあるそれにネックウォーマーを握る。
僕の苗字だ。
胸のあたりがざわついて、今度は深く目を瞑る。
「料亭」と呼ばれるそこは近くで見ると余計に大きく、広々とした玄関にはあたたかい淡い橙の光が灯っていた。
お昼でも灯るその明かりは自然の光と違和感なく溶け込み、お屋敷の中から聞こえてくるザワザワとした低い声の威圧感を少し和らげてくれる気がした。
「東と西の会合でもないし、退屈だな」
「喰われるなよ」
どこかで聞いたことのあるおきさんのセリフに耳を傾けながら、品の良い着物を着たお姉さんに革靴を脱がせてもらう。
百蓮さんはおきさんの言葉に「まさか」と返した。
「簡単に落とせると思ったら困るな」
そう嗤う彼の頬には温かさとは正反対、いやそれ以上に冷ややかでツンとした硬さが貼り付けられていた。
おきさんは何も言わない。僕も、身体がガラクタになったように動かなかった。
あのときと同じだ。
あの惨状の中で一人だけ濃く浮き彫りになってぽっかりと浮き、何もかもを引きずりこむ底無しの沼のような存在感。そして、
ーー欲しくなるな
「夕日」
一瞬頭が動かず、遅れて響いた音に驚きおきさんを見る。
おきさんが僕の名前を、呼んだ。
「呼ぶまで待ってろ。30分で戻る」
コクコクと首が取れそうになるほど首を縦に振った。恐怖ともおじ気とも違う。確かにそれは変わらず心の中にはあるけれど、名前を呼ばれたというそれだけでこの人の近くに行けた気がしたのだ。
待っている、それだけでもおきさんのために動けるのなら。
百連さんと少し並びながら黒いスーツの人混みの中へ消えていく背中を、見えなくなるまで見送った。
「八雲先生、どっか行くんすか」
車の助手席に菓子折りと少しの荷物を載せていると、ふと呼ばれた名前に振り返る。
起き抜けとでもいわんばかりの少し跳ねた栗色の髪に少し笑ってしまう。休日だと言うのに急いで自転車を走らせてきたのか、千早くんの健康そうな肌の輪郭には汗が滴っていた。
「ちょっと遠出。休診のお知らせは言ってたよね?」
「っす…」
不自然にキョロキョロと辺りを見回す彼の言いたいことは察するまでもなかった。
「夕日くんなら今朝早くに出て行ったよ」
「…そ、すか」
一歩遅れたみたいだね、と付け足すと彼は軽く頭を掻いて「手伝うことがあれば」と自転車のスタンドを立て、滲んだ汗をシャツで拭った。
たまの休みなのだから少しは自分のために、そう言いかけてやめた。
何かをしていないと、きっと彼の心にあるだろうモヤが晴れないだろうから。
来訪者にはいつでも大歓迎なマルをあしらいながら、緑色のワンボックスカーの車体を二人で拭く。
「…スグルは、起きたんすか」
「起きてるだろうけど、まだ寝ていたいみたいだね」
そうすか、と気の抜けたままの声が返ってくる。
僕の何か含みのある言葉尻に一番慣れているのは千早くんかもしれない。意図しているわけじゃないけれどこうなってしまう口調に、嫌味も言わず随分長いこと付き合ってくれている。
お母さんと一緒に来たときから。
車体にタオルを滑らせる程よく肉付いて筋の通った腕、広くなった胸板といつの間にかできていた喉仏。
随分と大きくなった。
皆、千早くんだけではなく。
「あいつ、戻るんすか」
「戻るって、」
何に。
言い淀んだ言葉を飲み込むと、沈黙が二人の間をつたう。「どこに」という言葉が出なかったのは不思議なことじゃなかった。
きっと彼自身もそのつもりで聞いているだろうから。
「千早くんは、戻って欲しい?」
「…あいつが決めることなんで」
千早くんはそう言うと拭き終わったタオルを絞って庭先へと放り、マルがそれめがけて走ってゆく。
あーあ、と僕は苦笑する。そこまで頻繁に使うわけではないけれど、またクロスを新調しなくては。と、ペーパードライバー並みの自分に足りていない免許証の存在を思い出す。
「千早くん、ダッシュボードのあたり見て欲しいんだけど、免許証…」
「八雲先生ってそういうとこ抜け…」
「言わせないよ。コンソールボックスかな…」
運転席付近にはなく、使い古した財布の中を見る。慣れないことはしないものだなと思いつつ、この先の今日の予定が頭をよぎり小さく息を吐く。
ふと千早くんを見ると動きが止まっていて、その手には今日の行き先を記したメモが取られていた。
別にやましいメモではないのだけど、あまりに動かないものだから「千早くん?」と思わず声をかけてしまった。すると彼はハッとしてメモを落とす。
『Dr.桜庭』
メモにはその名前と診療所の場所が走り書きされている。
何事もなかったかのように千早くんはメモを荷物の上へ、そしてダッシュボードを閉じると「この中にはないっす」と淡々と教えてくれた。
普段通りの顔、けれど先程メモを見たときの彼の一瞬の表情がどこか引っかかっていた。
陰り、それとは違う何かもっと重たく沈み込むような、もっとー
「八雲先生、あったんすか」
免許証。
その言葉に僕もハッとして「ああ」と財布を見る。
分厚く重なったそれぞれのポケットを探ると、一番使うことのない場所の奥底から免許証が顔を出した。
にっこりと笑ってヒラヒラと見せると、千早くんはため息混じりに助手席のドアを閉めた。
「じゃ、行ってくるから。鍵、千早くんだから渡しておくんだからね。虎尾くんと折井くんは夕方には戻るだろうけど患者さんは入れないこと、変なことはしないこと」
「っす」
「あと、」
ハンドルを指の腹で少し叩き、それから千早くんの瞳を真っ直ぐに見る。
変わらない表情。
「スグルに、なにか作ってあげて」
千早くんは少し間を置くと静かに頷いた。
彼には分かるだろうに、頬に貼り付けた笑みをそのままにして僕は車のエンジンをかけた。