※やや暴力表現あり




あの白い髪、透き通るような白い柔肌に赤く乱れ咲いた血の色、それよりも鮮明に朱に染まった瞳。
昼間のたった一瞬出会ったあの子の全てが、いまだに俺の頭から離れなかった。

スーツの胸ポケットから櫛を取り出し、漆で覆われたその長い柄を人差し指でなぞる。髪の毛の一本でも絡まっていればと思ったけど、さすがにそれはないか。
確かあそこにいたのは帳の分家、総会屋の虎尾と情報屋の折井だった。二人とも会合でたまに顔を合わせるくらいで声なんか掛けなかったな。

会合。

ふと携帯を手に取る。

ワンコール、ツーコール、退屈な音に耳を澄ませながら櫛を手入れしていると、しばらくして重たい声が響いた。


「何の用だ、百蓮」

「ああ…沖、久しぶり」


コップの中の氷が音を立てて崩れ、中のスコッチウィスキーが波打つ。
虎尾、折井、そして帰りがけに見かけたあの赤髪とくれば関係してくるのはこの電話口のただ一人。
その声色は冷ややかで一切の情緒も入り込む隙がない。


「怒らないでよ、まだ何も言ってない」

「前置きは良い、用事だけ言え」


相変わらず…と付け足そうとして止めた。俺だってダラダラと話したいわけじゃない。


「明日の会合に、白い髪の子はくるのかな」


流れるような会話の息が一瞬だけ止まる。
興味本位のつもりだった。いや違う、確かに俺は願っていた。

もう一度あの子の姿を見たいと。

沈黙は時として言葉より雄弁に語るものだ。
電話の向こうで沖がどんな顔をしているのかは分からないが、いまこの瞬間奴の頭の中で駆け巡る色々な詮索が静寂を許さないようだった。
俺が何を考え、何を思って問うたかを。


「連れて行く。ただし会合には入れない」

「…そっか」


楽しみにしてる、そう残して電話を切った。






「か、い、ご、う」


診療所のシングルベッドに二人、折井とユウヒがすっぽりと身体を寄せ合って寝ているのを横目に、サイドテーブルへ置かれた紙切れの文字をそのまま呟く。
不恰好な字で書かれたそれは辞書の上に置いてあり、そりゃあさすがの辞書先輩だって教えちゃくれねぇだろうと一人笑う。


「任侠漫画でも貸すかぁ?」


静かに寝息を立てる白いまつ毛にクツクツと独りごちた。
ど真面目で勤勉なこいつのことだから、血眼で読むに違いない。そしてそれを心配そうに見守る折井の青白い顔も易々と想像できるもんだから笑えて仕方ねぇ。
緩む口元を抑えながら横の「千早くんノート」をめくっていると、チリっと指先に痛みが走った。
冗談交じりのバチか、紙で横に切り傷から微かに血が滲む。


「やっぱ、黒いな」


このモノクロの世界で唯一はっきり、くっきりと認識できる色。
同時に噴き出す光景はいつも同じだった。


薄暗さが重なり合う部屋の真ん中で女の上にまたがり、息絶えたそれより俺を見やったあいつの顔。
幼いながらも人形のように整ったその顔面に、暗闇のなか一際真っ黒く飛び散ったそれが、俺が一番最初に認識した色だった。

真っ黒い血。

奴の表情は薄暗がりと真っ黒に染まりきった血でよく見えなかった。いや見たくもなかった。
見えたとして、あの時のちっぽけな俺では。




なぁクロ
お前、あのときなに考えてた?
なにを思って、なにを感じてー




「虎尾さん」


声のした方を見ると、身体を半分起こした折井が眼鏡をかけるところだった。
寝起きだというのに気味の悪いほど冷静な声。狸寝入りってやつか。
切り傷から滲む血をひと舐めし、紙袋を放って渡した。


「今日のユウヒは作業着とはいかねぇからな、持ってきた」

「…ありがとう、ございます」


しっかり着せてやれよ、そう残して重い腰を上げる。下に降りたら八雲がコーヒーを淹れてるはずだ。その前に煙草でも吸おう。


「八雲さんが、」


細く伸びたその声が後ろ髪を引いた。
手をかけたドアノブは冷たく、手の甲まで染みていく。


「…夕日くんは、記憶の点と点を繋ぐんじゃないかって言ってました」

「お前さ、朝っぱらから難しいこと言うなよ」

「虎尾さんも」


俺の声を遮る折井の声は心なしかいつも以上に頼りなく、でもどこかすがるような声だった。


「なにか思い出してるんじゃないですか、その…忘れたい記憶」


重なった薄暗いあのシルエット、真っ黒く染まった幼い顔、女、その腹から胸元へ深く突き刺さった包丁と抉られた贓物。
折井の言葉がどこか腹の奥で引っ掛かった。

忘れたいか?


『とらおさんは、おきさんのわらったところをみたことがありますか?』


ユウヒのあの目、真っ黒な目。

でもあれを見たからじゃねぇ、脳裏にはいつだってあの光景が離れなくて止まない。
離れる離れない、忘れたいなんて高尚な意志なんて意味がねぇんだ。
俺の意志とは関係なく何百何千回と、このモノクロの世界で黒を見るたびに噴き出してくるんだから。


「俺には繋げたいもんなんてねぇよ」


折井がどんな顔をしてるのかなんて分からない。ただ次の言葉が出ないように半分笑いながら、冷えたドアノブを握り返し静かに扉を閉めた。







ピタリと身体に張り付くようなカジュアルスーツと、真新しい革靴のずっしりとした重みに骨まで持っていかれそうだった。
虎尾さんが用意してくれたという服は昨日の作業着とは裏腹で、僕は戸惑いながらも折井さんに手取り足取り袖を通してもらった。

今朝は折井さんの方が早く目覚めていたけれど、おはようと口にしたその声色はどこか寂しげで少しだけ気がかりだった。
今も恐らく万里さんと電話をしているのか、それでも僕を見る瞳は陰っているように見える。


今日は、おきさんとの仕事。


「夕日くん」


緊張の糸が張り詰めた頭に、ぽんと柔らかい手が落とされる。
見上げた先には八雲さんが微笑んでいて、その手には千早くんからもらったネックウォーマーが畳まれていた。

僕がノートにペンを走らせる前に、八雲さんは優しくそれを僕の頭から喉元へと着ける。
この服には似合わないからという折井さんの言葉に、ベッドの枕元へ置いたままだったネックウォーマー。
僕は小さく首を横に振りながら八雲さんに目で訴えると、彼はシー、と僕の唇に人差し指を当てた。


「新しいことをするときは、全てを変えてしまわないように。お守りだよ」


おまもり。

千早くんの顔を思い出し、ネックウォーマーを静かに握りしめる。
昨日は折井さんや虎尾さん、そしてスグルくんがいた。でも今日は確かに慣れない、新しいことだらけだった。

折井さんが電話を切り僕たちが診療所を出てすぐ、見慣れた黒いバンがぬるりと静かに入り口へ身体を滑らせ、目の前で腰を下ろした。

万里さんと沖さんがそれぞれ車から降りると、マルが一目散に二人めがけて走り寄る。
僕は心臓がドキリとして思わず目を背けた。
マルが、酷いことをされるんじゃないかと。


「おおマル、ハーレムってやつだなぁ」


虎尾さんのからかうような言葉に薄目を開けて見ると、マルは万里さんに何度も飛び掛かっている最中で、おきさんが軽くその頭に触れているところだった。

マルを撫でやるその態度とは裏腹に表情は変わらずロウのような、冷ややかでただただ整ったままだ。
おきさんは、やっぱりよく分からない。
分からないものは、怖い。
ただ、恐怖とは少し違う心臓のざわめきにノートを胸元へ押し付けた。


「じゃあ夕日くん、行ってらっしゃい」


おきさんと虎尾さん、そして八雲さんが何か話をしている間、僕は先に車へと乗り込んだ。
半分だけ開けたドアガラスから折井さんが手を伸ばし、僕の頭を二度ほど撫でる。
心配そうな瞳が、眼鏡の奥で揺れていた。
昨日あんなことがあったばかりだ、もう心配も迷惑もかけたくはない。

僕はブンブンと首を縦に振り、シートベルトをぎゅうと握り締めた。
お腹は熱く、きりきりと胸の下のあたりが痛む。隣のドアが開き、乗り込んだおきさんが車のエンジンをかけた。


「なにも沖さんが運転しねぇでも…」


折井さんの後ろで万里さんが呟き、それを遮るようにドアガラスがゆっくりと閉まっていく。


「行く」


そう一言放られた言葉に肩が跳ね、同時に車が動き出した。
おまもり、ネックウォーマーに恐るおそる触れてからもう一度ドアガラスを見る。
診療所の入り口まで車がバックしても折井さんが手を振っていて、僕も小さく手を振り返す。
少しだけ、彼の表情が和らいだ気がした。








車は大通りの緑道沿いを走っていた。
ドアガラスがいくつも電柱や人々を追い越し、細い道をも躊躇なくするりと通り抜けてゆく。
車の中は小さなクラシック音楽が流れているだけで、それでも僕にとっては無音と同じだった。
足を動かそうにも動かせないほどに身体は強張り切っていた。

初めて信号が赤になり、静かに車が停まる。
折井さんの心配そうな表情が脳裏に浮かび上がる。
もう、心配はかけたくない。
なら僕がすることは、怖がることではないはずだ。
ぎゅうと唇を噛み締める。


『ぼくは、何をすればいいですか』


恐るおそる綴ったノートのそれを沖さんへ向ける。
彼は一瞬だけこちらをみて、それからまた前を向いた。車内には沈黙が流れ、それが僕の心にとっぷりとした暗雲を立ち込めさせる。
先程までの小さな決意がみるみるしぼんでいく。

僕のできることなんてないのかもしれない。
ただ横にいて、邪魔をしないように静かにそこにいればー


「お前は思考する人間だ」


沈黙を破った言葉に驚いて、沖さんの方を見る。言葉の余韻もなくただ佇まうその横顔はいつも通り、いつも以上にいつも通りで聞き間違いかと思った。
ただ確かに発せられただろうその言葉の意味を噛み砕こうとしたその前に、彼の薄い唇が再度動いた。


「本能や直感で動くような奴じゃない。もちろんそれが悪いわけじゃないが…限界がある」


本能、直感…ふと思い浮かぶのはスグルくんの姿だった。あの高層マンションでの仕事のとき、スグルくんがしようとしていたことと僕がしようとしていたことは確かに対局にあった。
そして沖さんの言う限界というのは、あの事後の惨状のことなのだろう。

信号が赤から青へ灯りを移す。


「考えろ。聞くんじゃなく読み取る、見るんじゃなく観察する、お前にはそういう力がある」


車は再び静かに走り出した。




二十分ほど経っただろうか。
黒いバンは住宅街へ入り、大通りから狭い一本道へとその身体を滑り込ませていた。

会合というのはどういうものなのだろう。
辞書を引いても分からなかった。
辞書にでも分からないことはあるんだと、分厚いガラスの向こうにうつる空の青を見ながらぼんやり思う。

千早くんは今日もあの子供達のところへ行くんだろうか。
目を閉じてネックウォーマーに触れ、彼の読む絵本の心地よい声色を思い返す。
おまもりのように、何度も何度も。


「着いた」


冷たい声にハッとして目を開ける。

車が停められたのは砂利が敷かれた駐車場で、すぐ横の緑道をコンクリートの小道が伸びていた。
小道の先に視線を動かせば、広々とした敷地をぐるりと包み込む淡い白の長い塀。この間連れて行かれたところとは全く違う、どこか温かみのある建物、というよりはお屋敷だった。
その中央のこじんまりとした入口には「吉平」と書かれた幕のような、あれは、なんというんだろう。
中までは見えないけれど、黒のスーツを纏った人々の側や入口には質素な色の着物を着込んだ女性が深々と、ふんわりとした笑みを浮かべてお辞儀をしている。

ただのお屋敷じゃない、ホテルでもない、お店…というほど軽々しいものでもないような。


「降りろ」


おきさんの言葉にまたハッとして、急いでドアに手をかける。
けれど重たいそれは目一杯押してもなかなか開かず、そういえば乗るときは折井さんが閉めてくれたのだとふと思い返した。
このままではまたおきさんがー


「こんにちは」


ふっと突然ドアが開いて転びそうになった身体を、どこか聞き覚えのある言葉と細い腕が抱き込んだ。
驚いて上を見やれば青みがかった黒髪と、その隙間から微かに見えそうで見えない瞳。
一瞬耳鳴りがしてあの惨状が頭の中を走り抜ける。
僕は、この人を知っている。


「また会えた」


『百蓮』、虎尾さんの言葉が、脳裏に走った欠片の最後にこだました。













「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -