あれは確か中学二年の八月の終わり、じっとりとした蒸し暑さが残る夏の夕暮れだった。
たいよう文化会館からの帰り、流れ落ちる汗をぬぐいながら団地の駐輪所へと向かう途中で俺は足を止めた。

白いシャツに紺色のスーツ、痩身の男がポケットに手を入れて立つ後ろ姿。
そしてその足元には、すでに事切れて動かない女の死体が転がっていた。
蝉の鳴き声も後ろを走る車の騒音も聞こえていたはずなのに、やけにくっきりとその光景だけが切り取られて見えた。
蜃気楼に揺れる空気の膜が、二人だけの空間を覆っていたから。


男の姿には見覚えがあった。
団地に時折足を運んでいるのを見たことがあったからだ。連れみたいな赤い髪の男が口悪く騒ぎ立てていたのも覚えている。

見覚えがあると言っても純平が「取り立て屋」と言っていた奴、そんな曖昧な情報だけ。
あの頃の俺は善悪でしか人間を見ていなかったから、あぁ、女を殺したのはあいつで、悪い奴なんだな、それくらいの浅い考えしか浮かばなかった。

奴は死体のそばにしゃがむとそのまましばらく動かなかった。
その不自然さに自転車を歩かせ少しだけ近づき、遠目にちらりと横顔を見た。死体をじっと見つめるその瞳には動揺も慈悲の色も無かった。

奴の腕が伸び、そこから続く白く細い指が二本、女の見開かれた瞼にそっと触れる。
あの瞬間のことは鮮明に、今でもありありと思い出せる。
その手つきは男の容姿とは裏腹に驚くほど柔らかくて繊細だったから。

なにより瞳が閉じられた女の顔はどこか安らかで美しく見えた。身体の関節のあちこちは不自然に曲がり、頭など割れて原型などない、決して綺麗なはずはないのに。

あぁ、この男が殺したんじゃない。

俺は確信して団地を見上げた。
五階の一室のベランダ、その奥の窓が開き、レース生地のカーテンが生温い風に押されてはためいていた。

偶然見つけたのかこの男の「取り立て」にあっていたのか分からないが、見ず知らずの女の最期にこんなことをする義理というのも無いはずだった。少なくとも、俺の中では。


男の方を向き直るとそいつは静かに手を合わせ、女と同じように目を深く閉じていた。









小さな豆電球の灯りを頼りにペンを走らせる中、夕日と別れ際に出会ったあの男を思い出していた。黒塗りの車の助手席に乗って夕日と言葉を交わしていたあの男。

同時に思い浮かぶのはあの夏の夕暮れのこと。


『おきさんと、知り合いなの?』


夕日からの問いかけに虎尾の名前を出して適当にあしらってしまったが、本当はあれ以来会ったこともなかった。
だけど確かにあいつはあのときの男だ。

ペンを握る手に力がこもる。
妙な胸騒ぎだった。夕日とあいつが仕事をするなんてことが。

鳴るはずもない携帯に目を落とす。
この胸騒ぎを夕日に伝えたところで混乱させるだけだ。それに、あいつ自身が乗り越えて行くものを私情だけで先走って邪魔することはしたくはなかった。

窓の網戸からは微かに蒸し暑い風が吹き込んでいる。灯りに寄ってきた長細い虫が網戸の外側にくっついて頭を傾げていた。


『千早くんへ』


不意に携帯の細いサブディスプレイが光り、そこへ文字が浮かび上がる。
ショートメールだった。
柄にもなく急いで携帯を手に取りボタンを押してしまう。送信相手は夕日だった。


『今日はありがとう。いま、折井さんに教えてもらいながら、文章を打っています。携帯だと、漢字がたくさん書けるから、便利。でも辞書をひいて、ちゃんと勉強したいと思います。たくさん気持ちが伝えられるのは、嬉しいです。千早くんにもらった問題を少しやってみたから、今度間違い探しおねがいします』


「…メールだと多弁だな」


誰にともなく思わず一人ごちる。
それにしても間違い探しって。折井さんのことだから特別突っ込みはしなかったんだろうけど。

カタコトで句読点の多いそれに目を通していると、ふと自分の張り詰めていた頬が緩んでいるのに気付きハッとする。

いつぶりにこの家で、この部屋で、こんな顔をしているんだろう。

画面いっぱいに連ねられた文章を見つめながら、携帯を握る手に力が入る。


ーー目的があるなら、教えるけど


自分で言っておきながら、滑稽な言葉だった。


『千早くんは、どうしてべんきょうしているの?』


夕日の言葉を思い返す。



俺は。




そっと後ろを振り返ると椅子の重みで畳が軋む。
吹き抜けのようになってすぐ見渡せるリビングの真ん中で、コクコクと頭を揺らしながら眠りに落ちようとしている母さんの姿が見えた。

どこからでも母さんの姿が見えるように、家中の襖は全部外した。俺の机の引き出しには全部鍵をつけて、ペンもハサミも包丁も押し込んだ。もちろん、処方されてる薬も全て。


俺の人生は、母さんのためだけにある。


煌々と光る携帯の画面に目をやった。
追伸でショートメールの続きが添えられている。


『千早くんの笑顔がみられて、嬉しかったです』


網戸の虫が羽ばたいて消えた。


携帯を机の上に置くとそっと畳に足を下ろし、物音を立てないようにリビングへ向かう。
母さんの肩からずり落ちそうな毛布をかけ直し、起こさないよう老眼用の眼鏡をゆっくり外した。
規則正しく、静かな寝息が静寂を揺らしている。

その寝息を聴くと安心してしまうのは、決して健やかな母さんの姿が見られるからじゃなかった。

何もされない、何もしない。
心のどこかでそれが俺の安心になっていたから。


「母さん」


返事がくるはずもない問いかけがただ宙へ浮く。何度呼んでも返ってこないのは知っているはずなのに。

夜は更けても団地は騒がしい。
公園に残る少年たちが自転車のベルを鳴らす音、階段を登っていくヒールの甲高い音、毎日まいにち聞こえてくる家族の笑い声。


母さん、俺あの夏の夕暮れに、男の足元で横たわった女の死体を見たとき何も感じなかったわけじゃない。

もしかして、って思っただけなんだ。


「バケモノが幸せになっちゃ、だめだよな」


ポツリと呟いたそれは、滑稽なほど震えていた。












か、い、ご、う。

千早くんから借りた辞書にその言葉は見つからなかった。
折井さんが言っていた。明日のおきさんとの仕事は、会合というものがあると。
どんなものなのか知りたかったけれど、辞書にも分からないことがあるらしい。

ピロリ、机の上に置いてあった携帯が音を出して震えた。僕は飛び上がって、それから慌てて携帯を開く。


『夕日へ』


千早くんだった。
折井さんから習ったやり方で、さっそくメールを開く。読む前にふぅ、と少し深呼吸。


『メール、ありがとう。漢字わからなかったら、折井さんにきいて。明日しごとだと思うけど、なにかあったら電話してくれていいから』


なんてことのない千早くんらしい淡々とした文章で、今にもあのどこかやる気のない声が聞こえてきそうだった。
少し気を遣ってひらがなが多いのも、やっぱり千早くんらしかった。


『俺も、久しぶりにわらった気がする。ありがとう』


最後の言葉に、思わず目が止まる。



「千早くんからお返事きたかな?」


柔らかい声に振り返ると、お風呂から上がった折井さんが眼鏡を拭きつつ部屋へ入ってくるところだった。
僕はコクコクと頷く。よかったねぇ、と添えられた言葉は内容を聞くような催促も含まず、ただひたすらに柔らかかった。

折りたたんだ携帯を、なんとなく胸に押し付ける。


「どうしたの?」


ベッドに腰をかけ、タオルで髪を乾かしながら折井さんが問う。
僕は少し迷って、ベッド脇のテーブルからノートとペンを取り走り書いた。


『千早くんは、いつからここに来てるのでしょうか?』


それを覗き込むと折井さんは少し考えて、それからウーンと唸った。


「マリーおばさんは三十過ぎくらいから来てるみたいだけど、彼と初めて会ったときは…」


ふと、折井さんの言葉が止まる。
その続きを心待ちにしても、折井さんは形の良い顎に指を添えたまま何かを思い返しているようだった。
分からないけど、たぶん大切なこと。


「僕も記憶があやふやだから、今度本人に聞いてみたらいいよ」


考えた挙句か、折井さんが微笑んでそう言う。
煮え切らない答えに折井さんを思わずじっと見ていると、「そんな顔しても教えないよ」と頬を軽くつねられてしまった。

この場所は安心で満ち溢れているはずなのにどこかちぐはぐで、まるで美和ちゃんと遊んだあやとりの糸みたいに絡まり合ってもどかしい。


スグルくんも、千早くんも、折井さんだってそう。


出窓の向こうを見ると、中途半端に欠けた月が藍色に濡れた空を淡く照らしていた。



いつか全部、分かるときがくるのだろうか。











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