「クロが菓子折りなんてなぁ」


診療所へ入って奥のキッチン、虎尾さんと八雲さん、そして折井さんと一緒に、おきさんから預かったものを広げていた。
丁寧に梱包された木箱の中には、クリーム色のカステラがひとつ敷き詰められていた。上品な焦げ目の部分の中央には金箔が申し訳程度に添えられている。


「なんだか気を遣わせてしまったかな」


困ったように笑う八雲さんを見ながら、「迷惑をかけた」と口にしたおきさんの顔を思い出す。
同時に、明日彼と仕事をすることも。
はっとして折井さんの方を見ると、僕の頭を撫でて「カステラには紅茶が合うよ」と笑った。
キッチンに立って棚からティーポットやカップを取り出すその背中を見て、気を遣わせているのは僕だと俯向く。
折井さんは分かっている。だけど、きっと僕が怖がらないように振舞おうとしているのだ。


「クロと明日仕事なんだって?」


静寂を切った虎尾さんの言葉に、分かっていたけれど体がこわばる。
同じくして折井さんもこちらを振り向いて、「ちょっと!」と制止をかける。だけど僕は深く頷いた。
虎尾さんは木箱から器用にカステラを取り出して、小花柄のプレートに移し替える。


「あいつはお前より怖がりだから大丈夫」


柄も刃も細いナイフを手に、カステラだけを見つめて彼は呟いた。ステンレスの刃に僕の顔が歪んで写る。不安げで、硬くて、張り詰めた顔。

怖がり?おきさんが?

どういうことですかとペンを走らせようとした瞬間、有無を言わせず差し出されたカステラ。
ペンを置いてカステラの側に添えられた小さなフォークを手に取ると、彼は頬杖をついてニマニマと頬を緩ませた。


「人より愛想と言葉が足りないだけだしな!」


豪快に笑う虎尾さんの声に、キッチンの空気が少しだけ緩んだ気がした。
おきさんも、こんな風に笑ったりするんだろうか。いくら想像してもその絵が浮かばなくて、代わりに紅茶の茶色を見つめていた。

口の中で静かに水分を吸い込んでいくカステラは甘さを感じる前に消えていく。


『とらおさんは、おきさんのわらったところをみたことがありますか?』

「んー、どうかなぁ…ちいせぇ頃から知ってるけど…」


そう言って虎尾さんは考えるように右上を仰ぐと、手に持ったフォークをクルクル回す。
骨ばった大きな手にはそのフォークはあまりにも華奢で、少しでも彼が力を入れればぐにゃりと首をもたげてしまいそうだった。

小さい頃から。ふと純平くんと千早くんの顔が頭に浮かぶ。
そういうのをなんというんだっけ、友達とも違う、なにか特別なものだった気がする。


「もう忘れたなぁ」


何かをかき消すかのように口元を緩ませて虎尾さんは言う。
今日は沢山の小さな子達を見てきた。みんな笑顔がきらきらしていて、声も表情も弾けるようだった。
けれど、そのどの姿も彼とは重なり合わない。
おきさんはどんな子供だったのだろう。
虎尾さんの整った褐色の顔を見つめながら考えていると、「早く食べないと取っちゃうぞ」と言われ慌ててカステラを口へと放った。


「夕日くん」


隣から聞こえた声に振り向くと、何か口ごもって曖昧な笑みを浮かべる折井さん。
「詳しくは折井に」、おきさんの言葉をまた思い出す。眼鏡の奥の丸い瞳が少し揺れている。


「明日は会合っていう…沖さんのお仕事についていくのと、夜はお店に行くんだって」


かいごうと、お店。
コクコクと頷いてメモをとる。
一番目のやつは、あとで千早くんからもらった辞書で調べてみよう。お店というのはよく分からない。分からないものは、やっぱり怖い。

折井さんはどこか落ち着かない様子でティーカップを掌で包む。


「無理しなくていいんだよ」


振り絞るような声色が湯気とともに弱々しくくゆる。

僕はそんなに、弱く見えるのだろうか。

折井さんのシャツを少し引っ張って、もう一度声が出ないかとお腹に力を入れたり口をパクパクさせた。けれど出るのはカスカスと枯れた息だけで、千早くんではないけれどつい眉間にしわを寄せてしまう。

もう一度、声が出たのなら。

そんな様子を見て折井さんは僕の頭を撫でた。

もう一度声が出たのなら、大丈夫なんだと一言、それだけでいいから伝えたい。


「ありがとう、そうだね」


ふわりと撫でられた頭はティーカップの熱のおかげか、いつもの折井さんの体温より少し熱かった。


「千早くんにどこ連れ回されたの?」


少し悪戯っぽく八雲さんが言う。
あの場所は、なんて名前だったっけ。
思い返されるのは子供達の顔と、千早くんの声と、頬に残る微かな温かさ。
最後のは余計かもしれない。折井さんをチラリと見てからペンを走らせる。


『たいようの、こどもたちがたくさんいるところに』

「太陽?!なんだそれ?」

「あぁ、あそこね」


僕のつたない記憶を辿れたのか、八雲さんは「千早くんらしいね」と笑った。


「どうだった?」

『みんなかわいくて、きらきらしてました』

「うんうん、すごいよねぇ。僕もよく遊びに行くんだけど」


一口紅茶を飲んだあと、カップの淵をなぞりながら八雲さんは言う。
八雲さんも行くんだ。
子供に揉みくちゃにされながらいつもみたいに笑う彼を想像するとそれはごく自然なようで、千早くんがあの場にいるよりは空気に合うようで少し納得してしまう。


「元気づけに行くつもりが、いつのまにかこっちが元気づけられちゃうんだもん」


ね、と、彼は頬杖をついて微笑んだ。
一呼吸おいて頷く。
ほんの数分、数十分足を踏み入れて彼らと戯れて僕は「元気」とやらになったのだろうか。

ー笑った顔も見れたし

千早くんの言葉が頭のどこか大事な部分を掠める。

ああ、僕、笑ったんだ。


「それで、それは千早くんのお土産かな?」


八雲さんがテーブルの端に置かれた紙袋を指差す。辞書やドリル、千早くんノートが入った紙袋だ。
思わずガタガタっと音を立てて立ち上がり、コクコクと頷く。見せたい、見てほしい。
驚いた三人をそのままに、紙袋の中をテーブルの上へ丁寧に出していく。


「わぁ手書きの問題集?千早くんノートって…あは、かわいい」

「これ全部千早くんが…すごい」

「やるなぁ千早、よっしゃ俺もやってみるか!」


口々に言う三人の言葉に、自分のことではないのに胸の奥がホクホクとする。
折井さんや八雲さんが関心して千早くんノートをめくる中、虎尾さんは分厚い辞書へ手を伸ばしその中身を見ていた。
使い込まれて所々のページがシワになっている辞書。薄い紙をめくる指をじっと見ていると虎尾さんと目が合って、また彼が二マリとする。


「ユウヒ、男の子は辞書をたま〜に面白いことに使ったりするんだよ。お気に入りのコトバに線を…」

「変なこと教えないの」


八雲さんに手をはたかれると、虎尾さんは少ししょげてからカステラを口へ放った。
そんな使い方があるんだ、でも男の子だけに?
色々聞きたかったけれど、僕まではたかれてはたまらないので頷くだけで止めておいた。


『わからないところはおしえてください』

「任せろ〜」


自分でできるところは頑張って、答え合わせは千早くんにしてもらおう。
今度は俺から連絡する、そう残した彼の言葉や掌の温もりを思い出して唇をきゅっと噛みしめる。
また会える。僕にはそれだけで充分だった。


「食べ終わったら、スグルくんの部屋にお見舞い行く?」


折井さんはふいにそう言うと、二階へ続く階段の方を指差した。どく、と控えめに心臓が脈打つ。
そういえば自分のことばかりで、あれからスグルくんがどうしているかなんて全然考えていなかった。

生と死の本能を無理やり掻き込んだあの瞳が脳裏に浮かんで、振り払うように身震いする。
少しの沈黙の後、僕は静かに頷いた。










診療所の一室は月明かりがたっぷり満ちていて、その隅へ置かれた少し高いベッドにスグルくんは横になっていた。
包帯で巻かれた手には厚ぼったい黄ばんだ紙の束が添えられている。見ればそれは数字と読めない文字だらけで、暗号か何かよく分からなかった。

お見舞いなんてどうしていいのか。

身の置き場が分からず、僕は立ったままノートを胸に抱きしめていた。

青白い光に照らされた形の良い顔の要所に影が落ち、規則正しい寝息と共に薄い胸がゆっくりと上下していた。
その動きが、微かに聞こえる寝息が、人形のように整った造形に人間味を吹き込んでいるようだった。

ベッドの横に置いてある一人用のソファに座り、その顔を見ながら膝を抱いた。



スグルくん、僕は今日、たくさんの感情を知った気がするんだよ。



くぼんだ瞼がピクリと動いた。
同時に僕も一瞬ビクリとしてしまう。薄く開けられた瞼の隙間で、スグルくんの瞳が震える。


『おはよう』


そう書いた手元のノートを見もせず、その瞳はじっと僕を見つめていた。薄目でも垣間見える混沌とした仄暗い瞳。
だけど昼間見たあの瞳ではなかった。
たくさんの感情を知ったけれど、この瞳はなにを語っているのだろう。


『なにをもってるの?』


今度は文字が見えやすいように少しだけ大きく書いて、椅子から身を乗り出すと顔の近くへノートを持ってみせる。
僕の目線を追うように、ゆっくりとスグルくんの目が動く。それから手元の紙を持つ指先が微かに揺れて、スグルくんはその目を細めた。


「アセンブリ、言語」


喉から絞り出したような掠れた声は、聞きなれない言葉をなぞった。
ペンを握ったまま答えに迷っていると、ガーゼが覆った口元が無理に開く。


「人間のための、機械の言葉」


その手はまるで愛おしそうにその紙の束をさする。
機械。それを聞いて思い浮かぶのは、時折スグルくんが気まぐれに口にしていた数字とアルファベット。
あれはこの紙に書かれていたものだったのだ。
だけどなんのために。


『だいじなもの?』


ゆっくりと文字をなぞるように瞳が動いて、それからそっと瞼が閉じられた。
返事はない。
こんなに傷だらけなのだ、まだ話すには負担が大きいのかもしれない。
乱れたタオルケットを掛け直そうと手を伸ばすと、弱々しく彼の手がそれに重ねられる。


「ずっと…友達だった」


語尾が微かに震えたその一言はぽつりと月明かりに浮かんで、僕の鼓膜を波打たせた。
何を聞こうとしても、瞼を閉じたスグルくんには僕の文字なんて見えない。だからただ耳と心をそばだてて、彼が紡ぐ言葉を追うしかなかった。その意味が分からなくとも。


「おれが、あいつになったら…消えないから」


だから、と消え入りそうな声で言う。


「だいじ、なんだよ」


口元のガーゼを覆う半透明のテープが、少し音を立ててズレる。
彼が笑ったから。
深く閉じられた瞳はそのままひとつ瞬きのように震えると、静かな寝息とともに意識を手放したようだった。

物音を立てないように、その寝顔を見ながらまた椅子の上で膝を抱いた。
月明かりが雲に隠れ、部屋が深い青に染まっていく。混ざることのない光と暗闇が、しばらく交互に部屋の中を満たし続けた。



スグルくん、君は誰を想っているの?





















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