「蜂が襲ってくるのです」


八雲の本日最後の診療は長引いていた。
見たところ三十代半ばの女、やたら顔がむくんでいて腫れぼったい面持ち、その割に身体は痩せ細りこけたような、ちぐはぐなそれが診察室に入って20分は経とうとしていた。
スグルが目を覚ましたから処置を頼もうと思ったがその様子に足を止め、何の気なしに誰もいなくなった静かな廊下で暇つぶしがてら聞いていた。


「そいつを殺そうと思うのですが殺せなくて、でも蜂は私を刺そうとしてくる…何度も何度も、そのお尻から毒針が…そこから汁が垂れていて」


八雲の言葉を待たずして女はとうとうと語り、時折その息を荒立てた。
蜂と毒針。女はそれに追いかけ回され、挙句の果てには命まで狙われると言う。
妙にリアルなようでどこか現実味の欠けたその話は所謂幻視なんてものではなく、夢の中のものだった。
煙草のお供にしては胸糞の悪い話だ、と、中は禁煙だとうるさく言われたことを思い出してジッポをしまう。


「どうして蜂を殺そうと思うの」


沈黙を数分咀嚼して、ようやく八雲が口を開く。
奴の沈黙の味は苦味も酸味も圧もない、患者の堰を切ったようなそれとは裏腹にゆったりとしたものだった。


「それはあいつが、…蜂が襲ってくるから」


そりゃそうだ。
誰に見られているわけでもなく頷く。
もっともな理由だ。誰だって攻撃されそうになれば自分を守る。それが生きる手段だ。生き抜くために必要な術だ。
そうして再び沈黙。その空気には時計の秒針だけが息づいていた。


「じゃあどうして蜂はキミを襲うの」


女の動きが、息が止まる。
八雲の一言が長く細く尾をひくように空気の中をたゆたう。それは恐らく空気の中だけでなく、女の心にも。

そ…れ…は、と、途切れ途切れに一つずつ、容姿と同様ちぐはぐな声が点になって紡がれる。


「私が…蜂を…殺そうとしたから」


その言葉を皮切りに、静寂は女の啜り泣く声で波打った。まるで何かを思い出したかのような途端だった。
嗚咽の混ざるその声、息、全てを聞き終わる前に俺は隣の部屋へと移った。

窓の外は午後を夜に染め、18時には戻ると言い残した彼らをふと思い出す。
こんなときにあいつら、寄り道でもしてんのか。

しばらくすると隣の診察室から鼻を啜りながら出て行く女の気配がして、俺はゆっくり扉へと足を向けた。
足音は弱々しく、今にもその廊下の暗闇に消え入ってしまいそうだった。

寄り道しねぇとわかんないもんが、この世界には腐るほどある。







「蜂は自分自身でした、ってか」

「…聞いてたの」


部屋に入ると八雲が机の上の紙カルテを整理していた。俺の姿を見た途端、奴はそう呟いて小さくため息をつく。
丸い眼鏡の向こうには珍しく疲労が見え、とてもじゃないがすぐにスグルの世話など頼めそうにはなかった。

俺はさっきまで女が座っていただろうカウチに腰を落とし、そこから見える景色を眺める。
半分閉じられたパーテーションの奥にはカルテ棚が並んでいて、八雲は手前の机の上を片付けていた。少し開けられた出窓からの風に、植木鉢の花が揺れている。

掛けたカウチの斜め横には一脚だけ置かれた一人掛けソファ。
床に敷き詰められたカーペットには、視線を外した際に目で線を追うには丁度いい柄がこしらえられていた。
あの女は夢の中を彷徨い言葉を紡ぎながら、この線を目で追ったのだろうか。

なぁ、と八雲の背中に声をかける。


「あの女、シャブしてたろ」

「…それには答えられない」

「手首みりゃ丸わかりだって」


カルテ棚に手を伸ばした八雲がこちらを振り返る。それに合わせて俺は右手をパッと広げ、それから力を落とした。
手首の喉元を境に、死んだような掌がぶらりとただ繋がっているのが見える。


「神経がイッて力が入らねぇんだろ。蜂の針ってーのは象徴っぽくてうまいもんだな」


ぷらぷら、手首を宙で揺らして見せた。
右手首。いや恐らく両方、ドアノブを捻ったときの独特なあの動きを思い返す。
覚醒剤を常習した後遺症。顔のむくみは別のもんだろうが、それも大体見当がつく。手首より先、ぷっくり膨れて歪なマメになった人差し指の付け根を見れば。

一瞬八雲の動きが止まって、それから最後の紙カルテを引き出しにしまった。再び振り返った八雲はようやく俺と目を合わせる。


「じゃあ君たちが流しているのは蜂の毒だね」


形の良いその頬にぺったりと笑みをのせながらも、いつもより少し低い声。
まずった。
あー、と目を逸らしながらなんとなく笑う。
昔からそうだ。患者のこととなると人が変わる。いや、変えさせるのはいつも俺なんだけど。

まどろっこしいのも暗いのも好きじゃない。
俺は重く垂れ込みそうな空気を払いたくて八雲の眼鏡の奥に置かれた真っ直ぐな瞳を見る。


「目の前に出されたもんの何かを選ぶのはそいつ自身だ。いつだって決断するのは自分だろ」

「そう。その通りだね虎尾くん。でもひとつ言う」


木製の机に手を置き、八雲は俺を見つめ返す。細い髪の毛の先が少し前かがみになって浮き出た鎖骨へ落ち、結ばれていた唇がゆっくり開く。


「彼女のした行動を否定するのは構わない。ただあの子の人格まで否定するなら、僕は君を深く軽蔑する」


その言葉の端はすでにその軽蔑とやらを含んでいた。有無を言わせない、言う気も起こさせないその力に俺は「わかったよ」と一言添えて頷くと立ち上がった。
「分かればいいです」と、まだ医者熱が冷めやらない声。こいつ、ひとつもいいと思ってねぇな。


「わりぃ。そんな嫌がるなって」

「ひどい投影だね。嫌がってるのはきみでしょう」

「なぁ〜もうお医者さんごっこはやめようぜ。はい!おしまい〜」


な?と顔を覗き込むと八雲は一瞬目を合わせただけで逸らし、カルテ棚の一つ一つに鍵をそれぞれ掛けながら小さくため息をつく。
またしばらくの静寂が耳につく。
ガシャンと掛けられる鍵はまるでこいつの心のようで。


「柊二郎」


久しぶりに喉元を通るその名前の響きに自分でも違和感を覚える。
俺がそうなのだからこいつもそうなんだろう、また一瞬、だけど先程よりほんの数秒長くこちらを見て、何かを言いかけて机に身を翻した。
いつもそうだ。俺といるとこいつは肝心な時に逃げる。
俺は机に片手をついて、奴の耳から落ちた髪の毛に触れる。と、すぐ大袈裟にパッと離れる。


「そういうの、嫌だって前にも言ったよね」

「どういうの」


八雲は自分の手でそそくさと髪を耳にかけ、煮え切らない顔つきで鍵を机の棚にしまう。
それと代わりにペンケースを取り出して、放られたままの万年筆を一本ずつ入れていく。
その指先に触れようとするとまたパッと振り払われ、奴は珍しく眉間にしわを寄せてこちらを見た。


「名前で呼ばれるのも、触れられるのも嫌だ」

「ばっちぇー嫌われてんのな俺」

「そういう意味じゃ…」


ないけど、と、言葉の最後が微かに震える。
暗く黙りこくった奴の俯いた先で、花の葉が小さく揺れた。
触れるのは百歩譲ってしなくていいとして、俺に喋るなというのは無理な話だ。
それにしてもこいつのいつもとは違う易怒感、これには引っかかるものがあった。


「なんかお前、ユウヒと会ってから顔つきが前と違う気がすんだけど」


その言葉にまた奴の手つきがまた止まって、何かを考えるように指先が机上に置かれたペンケースをなぞる。
やっぱり気のせいじゃなかった。
確信に変わったのはいいものの、腑に落ちないのはこいつの何に触れて図星になったのか分からないからだ。


「会いに行かなきゃならない人がいる」

「…あ?」


会いに行かなきゃならない人。
その言葉にどこか、必要以上に引っ張られそうになる。一体全体どこのどいつに。
聞く前に八雲は手元のペンケースをゆっくりと閉めた。


「ずっと…ずっと見ないようにフタを閉めて川底に沈めていたものが浮かんできたんだ」


ペンケースの木目をなぞる指先に僅かだが力がこもり、「あの子を見たときにね」と付け加え、八雲は唇を噛む。
こいつの中だけに起こるざわめきで満たされた静寂。そいつが分厚く壁を作っては俺を遠ざける。俺だけじゃない。こいつ以外の全てを遠ざける。
白けた気まずさを振り払うように言葉をかけようとした途端、八雲はこちらを見た。


「僕は逃げてきた」

「逃げてちゃだめなのかよ」

「だめなんだ。どんなふうに汚れているか、どう整理すればいいか、そのためにはフタを開けてちゃんと見なきゃいけないんだ」


決意のつもりか。そのくせに言葉尻が震えてやがる。少しでも蹴飛ばしてやれば途端に崩れ落ちるような具合だ。
裏腹に瞳だけは俺を離さない。

噴き出した動揺に耐えるその瞳が。


「だから、会いに行く。あの人に」


俺を見据えるその瞳はまつ毛と共に揺れていて、あぁなんだ、お前、泣きそうなのか。
少し溜息をついて見せると、奴の指がぴくりと動いた。


「あんたは人より半分できないんだから、普通の人の二倍頑張りなさい」


俺の言葉に八雲は顔を上げた。


「俺がちっせー頃よく言われてたやつ」

「…いきなり、」

「でもそれってただの二倍じゃねぇ。普通の奴らが俺の倍頑張ってたとしたら、俺は二倍どころか四倍も六倍も頑張んなきゃなんねぇわけだ。たった一人で」


指折り数えて、それから奴の目を見る。
八雲は頷きもしなければ何も言わなかった。
ただ俺の言葉を待つ。それだけなのに瞳の膜が薄く溶けて、耐えるように唇が微かに動くだけだった。


「それなら誰か一人の半分くらいもらったっていいじゃねぇかと思った。あんときの俺には誰もいなかったから六倍やってやったけど。でも俺の考えてたことって間違ってねぇと思う」

「…どうして」

「しんどかったからだよ。一人はしんどいんだよ、分かるだろ柊二郎。お前がいつも患者に言ってやることを、なんでお前自身に言ってやれねぇんだよ」


俺にはそれがどれだけ重たい荷物なのか想像もできねぇし、できたところで手を貸すつもりもない。
手を貸すのが嫌なんじゃなく、こいつはきっとそれを断るだろうから。

一度でも瞬きをすれば奴の色々が溢れそうな、そんな精一杯な目で俺を見つめる。


「だめなんだ…一人で会いに行かないと、僕の…僕の命が終わらない」


だから、お願いだよ。そう絞り出す語尾が揺れて、ようやくその頬へひとつ雫が滑り落ちた。
それが精神科医としての命なのか、八雲自身の命なのかは分からなかった。
そっと雫を追いかけるように触れた指が払いのけられることはなく、温かいそれが次から次へと流れては指先を濡らした。

ここに来る人たちはみんな声を殺して泣くんだと、五年前こいつは俺に言った。それが必然性だと。そうやって生きてくるしかなかったんだと。
こいつは与えることしか知らない。その影には耐えることしかできないことも、抱えることしかできないことも分からない癖に。

「でも」、涙で濡れた唇が控えめに開き、消え入りそうな声が小さく空気を震わせる。


「でももし僕が折れそうになったら…そのときは半分、もらってもいいかな」


触れた頬の手の甲に、冷えた八雲の指先が弱々しく重ねられた。嗚咽も啜り泣く声も全て押し殺して、その華奢な肩だけが何かに耐えるように震える。


「あぁ、全身だってくれてやる」


俺の言葉を噛みしめるようにして、八雲は何度か頷いた。
なくなったってくれてやる。だからそんな風に泣くな。
耳だけじゃわかんねぇもんを、このモノクロみたいな世界からこれ以上奪わないでくれよ。

震えるまつ毛へ顔を寄せそうになって止めた。
俺はまた細く長く息を吐き、それから「よし!」と一呼吸。


「とりあえずそいつが女か男かだけ教えろ」

「………何それ」


ふふ、とようやく八雲が笑う。
ぺったり貼り付けたような笑みとは違う、緊張の糸がほつれて柔らかくなったいつものやつだ。
あぁそうだな、お前はそれでいい。
こいつがこんなふうに笑うとき、限って俺はどこか安心する。それは何故かはわからねぇけど、その安心が俺は好きだ。


「男の人だよ」

「はぁ〜〜?何歳?」

「しつこいなぁ、もう」


いつも通りに戻った八雲は、少し間を空けてから机の棚にペンケースをそっとしまった。













八雲診療所の門の前へ到着する頃にはチラホラと街灯が灯り始めていて、空はすっかり暗くなっていた。
「ちょっと時間過ぎたな」と腕時計を見て千早くんは自転車を止めると、スクールカバンからノートや辞書、ドリルを紙袋に入れて渡してくれた。

今日はたくさんの出会いがあった。
本をめくるようにひとつひとつの顔を思い出して、それからぽつり、最後に浮かんだ顔に胸の奥が重くなる。
振り払うようにペンを握りしめ、ノートに素早く書き紡ぐ。


『きょうは、ありがとう』

「ん。今度、俺から連絡する」


スクールカバンを背負いながら彼は言う。
行ってしまう。
昨日と同じ感覚に、やっぱり胸の奥がざわめいてしまう。まだ何か伝えきれていない気がして、僕は思わず彼のシャツを握った。
千早くんは振り向くと、わかっているというような顔つきで僕の頭をくしゃくしゃと撫でた。


「折井さんのことな」


いきなり的を射られて身体が強張る。
さっき最後に浮かんだ顔は、彼の言う通り折井さんの顔だった。
ここを出るとき、僕は折井さんに何も伝えられなかった。行ってきますの一言も、そればかりか目を合わせることさえも。


「夕日がされて嬉しいことをすればいい」


僕がされて嬉しいこと。
どれだけ想像力を膨らませても、折井さんに見合う「嬉しいこと」が思い浮かばなかった。
僕の嬉しいは、きっと人の半分くらいの価値しかない。

千早くんはハテナを浮かばせた僕の頭を無表情でまたくしゃくしゃと撫でると、「考えすぎ」とボヤいた。僕は撫でられた頭に触れ、とりあえずコクリと頷いてみる。
千早くんが自転車にまたがったとき、診療所の奥から一台の黒い車が頭を出した。

患者さんの車にしては大きく、何よりその真っ黒なシルエットには見覚えがあった。
ゆっくりとドアのウィンドウが下がっていき、見えた顔に思わず身体が強張った。

おきさんだ。


「…あんた、」


千早くんが言うより先に、奥でハンドルを握ったままの万里さんが僕を見るなり「あっ、てめぇ!」と叫んだ。
そうか、二人は僕があの仕事の後どこへ行っていたのか分からなかったんだ。

探しに来た?何をするために?
首元のネックウォーマーへ自然と手が伸びる。


「おっまえこんなときに今まで…」

「万里」


おきさんが万里さんの言葉を遮るように言う。
それから相変わらず混沌とした瞳が僕を見る。
さっきまで温められていた心臓の奥まで冷やされていくような、そんな瞳。
見たくないー
そう思い目を逸らしかけた瞬間、目の前に紙袋がぶら下げられた。


「これをあの医者に渡してほしい」


医者…とは、恐らく八雲さんのことだ。
ウィンドウから細く伸びた手が持つそれを恐るおそる受け取ると少し重くて、中にはシンプルな濃い緑の和紙に赤い紐でくくられた箱が入っていた。
そして、茶色の封筒。
どうして。


「迷惑をかけた。まだ患者がいるようだから中へは入れない」


おきさんの視線の先を追うと確かに診療所の扉には灯りがついていて、ちょうど開いたそこから三十代半ばの女性が出てくるところだった。
その足取りはどこか宙に浮くような不安定さで、僕は自分のこの状況より先に彼女が心配になってしまう。

我に返っておきさんの方を見やり、コクコクと何度も頷いた。


「明日は俺が仕事に連れて行く」


淡々と落とされた言葉に胸の奥が揺れ動く。
おきさんと僕が、仕事?
渡された紙袋と千早くんから受け取った紙袋とを胸に抱きしめ、その手に力が入る。
首を振ることはできない。けれど頷くこともできなかった。
この人と長く同じ空間にいることなんて想像もつかない。ましてや仕事なんて、…今日よりひどいことが、起こるかもしれない。
濃い影が心を覆って、暑くもないのに嫌な汗がこめかみに滲むのを感じた。


「詳しいことは折井に聞け」


言葉が頭に降ってくるだけで、僕は俯いてつま先を見ることしかできなかった。
ウィンドウが上がっていく音がして、途中で止まる。ふと顔を上げるとおきさんが千早くんの方を見ていて、その視線を追うように千早くんを見れば彼もまたおきさんを見ている。


「面倒をかけた」

「…いえ」


一言ずつ交わされた言葉を最後にウィンドウは閉められ、車はゆっくりと門を出て街灯の灯る狭い路地を滑って行った。

その背中を見て、僕たちはしばらく黙り込んでいた。
その間に、先ほどの女性が門をくぐって出て行く。夜でも蒸し暑くなり始めたのに紺色のセーターを着こみ、それでも細く痩せた身体のシルエットからは憔悴しきった様子が見受けられた。
最後の患者さんだったのかもしれない。それでもおきさんが終わるのを待たなかったのは次の仕事があったから…だろうか。


『おきさんと、知り合いなの?』


静寂を切るように、街灯と月明かりの光を借りて千早くんに話しかける。


「いや、特に。虎尾さんと一緒にいるところ見たくらい」


その言葉にどこか安心する。この安心がどこからくるものなのかは分からないけれど、彼にはあまり接触して欲しくない、それに近い気持ちだった。
そんな気持ちをよそに千早くんはペダルに足をかけながら「ん」、と何かを顎でさす。その方向を見ると、診療所の入り口に立つ人影。

折井さんだ。

おきさんのときとは違う、心臓に刺さっていたものがどこかに引っかかるような痛み。
僕はたまらず千早くんの方を見る。彼は一瞬何を考えているのか眉間にしわを寄せ、それからまたくしゃくしゃと頭を撫でて「またな」とペダルを踏んだ。
自転車に取り付けられたランプの音だけが響いて、千早くんの背中が小さくなっていく。

診療所の門をくぐり、俯いたまま入り口へ向かう。砂利を踏みしめる音がするたびに心の中が淀んで足が重い。
万里さん、すごく怒ってた。折井さんもそうかもしれない。
何を言われるんだろう。もしかしたら何も言ってくれないかもしれない。
柔らかい笑顔も、一緒に眠るあたたかさも、朝のまどろみも、何もかもなくなってしまうかもしれない。


それは、いやだ。


視界は霞んで暗闇と混じり転びそうになった瞬間、余裕のない足音が駆け寄ったかと思えばあたたかい温度が僕を抱き締めた。
一瞬何が起こったか分からなくて紙袋を落としてしまう。
少し震えたため息が、耳元で聞こえた。


「もう帰ってこないかと思った」


肩や腕に回された腕はすっぽりと僕を覆って、その言葉と一緒にぎゅうと強く抱き締められる。
行き場がない両手をどうすればいいか、だけど僕もぎゅうっとしたくて、薄い背中にたどたどしく腕を回す。

帰ってこない、わけがない。
本当は誰より折井さんの笑顔が見たい。今日あったことを、楽しかったことを全部伝えて、そしたらまた一緒に眠りたい。

どうしたら伝わるんだろう。


ー美和もすきっていわれたいなぁ


あどけない少女の言葉が、ぽつりと頭に浮かぶ。


「………あ」


ぱくぱくと動かしていた口から、声、らしきものが出た。
僕が驚くよりも早く、バッと顔を上げた折井さんと目があう。眼鏡のレンズの奥にある大きな瞳が、瞬きも忘れたように僕の瞳をじっと見つめている。


「…う、……う……い」


なんの言葉にもならない声が、空気と一緒に何度も喉を行ったり来たりする。唇や舌が麻痺したように硬くなって思うように動かない。折井さんの腕をぎゅうっと握りしめた手が震える。

こんなに想っていることを、ちゃんと伝えたい。

最後まで言い終わらないうちに、折井さんはさっきより優しく僕を抱き締めた。
柔らかい匂いと身体のぬくもりが、空気で冷えかけた喉をじわりと温めていく。
僕の言葉は伝わったのだろうか。
分からないけど、今はこのまま何時間でもこうしていたかった。


「ありがとう」


そう呟いた折井さんの声は、少しだけ震えていた。























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