「はいケーキでーす」


紅茶の湯気にくすぐられながら辞書をめくっていると、陽気な声が頭の上から降ってきた。
金髪の彼の手にはトレイと、その上には小さなプレートがふたつ、それぞれにケーキがちょこんと乗っていた。

急いでテーブルに場所を確保すると、彼は「どっちがいい?」とケーキを指差した。
確か抹茶のシフォンケーキと、チーズケーキ。どんな味かは分からないけれど、選べないほどどちらも魅力的に見える。


「いい、二人でつっついて食べるから」


答えに詰まっていると千早くんがそう言って皿を受け取った。
その様子を見て金髪の彼は何か口の端をにんまり、耐えようにも耐えきれずといった具合で笑う。それを横目で見たままの千早くんが眉間にシワを寄せた。あ、これは、少し不機嫌な顔。


「…なに」

「いや、お前そんなんだったっけ…ほら、なんだっけあれ…むっつり?」

「いや普通だろ。夕日、調べなくて良い」


二人の距離感ややりとりはなんだか自然で、店内に流れるオルゴールの音色みたいに優しく協和している。お互いがお互いのことを受け入れて、心の裏を探り合うような視線もない。
友達。
さっき彼が言っていた言葉を思い出した。


『二人はともだちですか?』

「うーんそうだなぁ、幼馴染ってやつかなぁ。団地が一緒でさ」


おさななじみ。あとで調べてみよう。
彼の言葉に千早くんは顔色を変えず、否定もしなければ肯定もしない。
小花柄が散りばめられたケーキプレートをテーブルの真ん中に並べて置くと、フォークを「ん」と差し出す。

抹茶のシフォンケーキには真っ白なクリームが添えられていて、チーズケーキは長方形で素朴な佇まいをしていた。
美味しそう、そう書こうとして今更ながらに気づく。
そういえば僕はいつも通りペンやノートで会話をしていたけど、金髪のこの人は不思議がることなく普通に会話をしてくれている。

そのことに気がついて彼の方を見ると、彼は「ん?」という顔をした。


『ぼくは夕日といいます』

「あ、ごめんごめん。俺は純平。書く?漢字の練習ーってね」


「落合純平」、書かれたその名前は丸文字で柔らかい。純平くん。
ケーキを口に運びながら、何気ない会話をする二人の顔を交互に見る。
宙に飛び交う二人の言葉はテンポよくオルゴールの音にのって、僕はただそれを追いかけることしかできなかった。

幼馴染ってなんだろう。
たぶんちょっと特別で、友達というのとは少し違う、家族とか、そんな感じなのかな。
なんだか少し胸のあたりがチクリとして、小さな銀のフォークを握りしめる。


「夕日」


ふと千早くんの手が伸びて、細い指が僕の口の端をぬぐった。


「ついてる」


二人のやりとりに気を取られてぼんやりしてしまっていた。千早くんは指先についた白いクリームを自然に舐めとる。
僕はあたふたしてしまったけど、純平くんはそれでもまたにんまり笑った。


「いやー夕日くん、むっつりって調べたほうが良いと思うなぁ」

「だからいいって」

『わかりました』

「…いいってば…」


二人が幼馴染なら、僕はこの間に挟まれてどんな立場になるのだろう。
友達に、なれるのだろうか。
友達って何をするんだろう。分からないけど、こんなふうに話せたらきっと、
きっと、なんだろう。


「そろそろ行く」


千早くんは大きい口いっぱいに最後のチーズケーキを頬張ると、テーブルに広げていた色々をスクールカバンへしまいこんだ。
行くって、今日の目的はここじゃなかったの。
僕は訳も分からないまま急いで紅茶を飲み干すと、千早くんの真似をして最後の一口を口に放る。


「夕日くん」


アムールの扉に手をかけたとき、背中にかけられた名前に振り返る。
純平くんは淡いオレンジのライトに照らされながら手を振っていた。


「またおいでね」


じわりと滲むような温かさに微笑み返すことはできなかったけれど、僕はしっかりと頷いた。











アムールを出てからすぐの階段を3階まで登りきるまで、たくさんの部屋が見えた。
文化会館というのは不思議なところで、図書館や大きな会議室、広々としたスペースが所々にある。
その割に人気はまばらで、たまに制服姿の学生やお年寄りとすれ違うくらいだった。だけどこれくらいの情報量のほうが、今の僕にはちょうどいい気がした。

3階につくと階段のすぐそばに部屋があって、千早くんは「ここ」とその扉を指差した。

「こども広場」、ガラス扉にはそう印字されていて、可愛らしいパステルカラーの装飾が目一杯施されていた。
千早くんは入り口の消毒液を手に吹きかけて擦る。「ん」と言われたので両手を差し出すと、それを僕の手にも吹きかけてくれた。

扉を開けると入り口にはピンクや青、みどり、たくさんのランドセルが並んでいて、小さな靴がいくつも揃えてあった。


『ここは』


どこ、そう書きかけたとき、奥の方からこちらへ向かってくる騒がしい足音が聞こえた。


「千早おにーちゃんだ!」


キャラクターが描かれたTシャツを着た小さな男の子や、ポニーテールを揺らしながら走ってくる女の子が口々にそう言いながら千早くんの方へ駆け寄ってくる。
僕はなんとなく八雲診療所のマルを思い出して、でもそのときとは違う気持ちに駆られながら一歩引いてしまう。
女の子の一人が千早くんの腕に捕まると千早くんは「おっ」と態勢を崩したけれど、自然な流れで目の前の男の子の頭をぐしゃぐしゃと撫でた。


「お兄ちゃん今日は半そでだ!」

「あー…そろそろ夏だから」

「ねぇねぇ今日はなにするの!」

「ちょっと待って。夕日靴脱いで、中入るから」


圧倒、される。けれど抵抗感とは違う。
千早くんが僕を見ると、彼らの視線はいっせいに僕の方へ流れ込んだ。
分かっていたことだけれど心臓が跳ねて、つい目をそらしてしまう。


「お兄ちゃんだぁれ?」


ポニーテールの女の子が先に言う。エクボを頬につけた、弾けるような笑顔だった。
答えなければ、そう思おうとするだけで自然と僕の手は首元へ伸びてしまう。ネックウォーマーに指先が触れて、それから少しだけ抓る。


「それはまた後で。とりあえず中入らして」


千早くんの言葉に、子供達は素直に返事をしてワラワラと入り口に隙間を作る。僕たちはかろうじて靴を脱ぎ揃えると、ようやく廊下に足をつけることが出来た。
その間にも学校のことや兄弟のこと、色々な言葉が四方八方から飛んでくる。
名前さえ名乗らない僕にまで、彼らは一生懸命に話すのだ。

足元もおぼつかない具合で奥の部屋へ進んでいく。千早くんは人気者のようで、5、6人の子供達に引っ張りだこになりながらようやく奥の扉を開けた。

淡い薄柿色のフローリングは真っ白いクロスの壁と相まって優しく、灯るあかりで部屋の中は調和していた。スンと鼻先をくすぐる子供達の、ミルクのような香りがそれを際立たせている。
並べられた低いテーブルにはドリルやノートが置いてあって、先ほどまで勉強していたのだろう、よく見れば子供達の手には鉛筆の黒が少し滲んでいた。


「みてお兄ちゃん!このあいだの宿題!」


先ほど真っ先に来た男の子はそう言うとノートを自慢げに千早くんに見せる。


「すごい。えらいな達磨」

「シールもらえるかなぁ?」

「あげる」


スクールカバンから取り出された、Tシャツのキャラクターと同じものがプリントされた小さなシール。それをノートの隅にぺたりと貼ると、達磨と呼ばれた少年は元気よく跳ねると周りの子達に見せに行った。


「夕日。びっくりさせてごめん」


大丈夫か?と、千早くんが付け足す。
僕は慌てて頷くと、ノートを引っ張り出してペンを走らせる。


『だいじょうぶ。ここはどこ?』

「児童館…ていうのかな、子供の面倒見てるとこ。学校帰りに寄ったりとか親が帰り遅い子達とか、あと…」


千早くんの説明を待たずして、ポニーテールの女の子がひょこっと僕のノートを盗み見る。さっきのエクボの子だ。
僕は驚いて思わず身を引いてしまった。
ノートに書かれた文字を見て、女の子は不思議そうな顔をしていた。
どうしよう、どう接すればいいのか、そもそも声が出ないのにこんなところでー


「お兄ちゃん字、きれい!」


かけられた言葉は意外なもので、僕は呆気にとられてしまった。
彼女の瞳は曇りなく澄んでいて、僕の目を見ると嬉しくてたまらないのか天真爛漫に笑う。
少し震える手で、探るようにペンを走らせた。


『ぼくの名前は、夕日といいます』

「ゆうひ…夕日お兄ちゃん!みんなみんな聞いて!夕日お兄ちゃん!」


ポニーテールの女の子がそう言うと、彼らはワッと湧いて僕の方へ駆け寄ってくる。
「何歳?」「千早お兄ちゃんのお友達?」「どこに住んでるの?」、矢継ぎ早に投げかけられる言葉はどれもたどたどしくて、だけどどの言葉もトゲなんかなくて、柔らかい。
中には「夕日お兄ちゃんは男の子?」と首をかしげて問いかける子もいたけれど、そのひとつひとつに答えるようペンを走らせるたび、彼らは純粋にキャッキャと喜んだ。

僕が声を発しなくても、誰も気にしない。
気にするのは僕の存在それだけで、それが不思議だったけれど、きっとこの子たちの頭の中にはそれだけで充分なのだと思うと何故だか喉の奥がきゅうと締まった。


「美和にも教えてほしいなぁ、字がね、あんまりうまく書けないの。ほら、」


ポニーテールの女の子がそう言って、「みーわ」、美和。僕のノートにミミズが這ったように名前が記される。
美和ちゃん、と言うのか。
あどけない表情の中に見えるどこか出来かけの美しさは、確かに名前を表しているようだった。


『うまく書けないとだめなの?』

「うん、怒られちゃうから。あっ!千早お兄ちゃんの紙しばいがおわったら、あやとりしたい!」


怒られちゃうから、その言葉尻にはどこか陰があったけれど、彼女、美和ちゃんはすぐにポケットからたくさんの毛糸で作った輪っかを見せてにっこり笑った。
赤い糸。
あやとりという遊びはよく分からなかったけれど、その笑顔を見ると断るに断れなくて僕は頷いた。


「今日は紙しばいじゃなくて絵本だろー」

「そうだぁ!美和と一緒にきて、ここ座ろう」


小さな手に引っ張られるようにして座ると、いつの間にか千早くんを中心に円ができていた。
僕が正座をすると、美和ちゃんはちょこんとその上に座った。「おもくない?」そう心配そうに振り返った彼女へ首を横に振ると、「よかったぁ」とまた笑う。
膝の上と、もうひとつの違う場所、きっと触れ合った部分とは違うもっと胸の奥の方がじんわりとあたたかい。

千早くんは僕の方を少し見て、それから絵本を一冊手にとって子供達に見せる。
「どんなにすきだかあててごらん」、そう書かれた絵本。

一ページずつ、丁寧に丁寧に、抑揚はないけれど柔らかい声が読み上げていく。
さっきまで騒がしかった子供達は食い入るようにそれを見ていて、可愛らしい動物のイラストを指差したり、足をパタパタさせて聴き入っている。


千早くんはいつもここへ来て、こういうことをしているんだろうか。

いつもより眉間にシワのない表情を見ながら、ふとそう思う。ひつとひとつの言葉のあとに、子供達の顔を見ながらページをめくっていく。笑顔なんてなくて、でも優しい声。

まっすぐ僕を見つめて、「大切だと思ったから」と伝えられたことを思い出す。

絵本を見つめる子供達はどの子も真剣で、まっすぐで、千早くんがページをめくるのを急かすでもなくじっと見つめている。
思い出して話の内容なんて入ってこない僕は、その姿を見て少し恥ずかしくなってしまった。


「きみのこと、こーんなにすきだよ」


優しく紡がれる千早くんの言葉に、きゅ、と手に少し力が入った。
その手は僕の手じゃなく、美和ちゃんの小さな手。
握り返してもいいのか、心の中が波打つ。

ポニーテールを縛ったゴムには丸くピンクのリボンが付いていた。その少し乱雑な結び目が、彼女が微かに動くたび揺れる。
僕は気づかれないように、少しだけ強くその小さな手を握り返した。





「はい、おしまい」


千早くんが読み終わった絵本を膝の上に置くと、パチパチと揃わない拍手が部屋の中に響いた。子供達が千早くんの方へ駆け寄って、我先にと口々に感想を述べる。やっぱり千早くんは人気者だ。
むらがる子供達に見せる表情は八雲診療所でも、さっきのアムールという喫茶店でも見せないものだった。

色んな顔があるんだな、千早くん。


「美和もすきっていわれたいなぁ」


膝の上に乗ったままの美和ちゃんが、誰にともなくぽつりと呟く。


『千早くんに?』

「うん!あと、ママに」


ママ。
結び目のリボンが小さく揺れる。
それから振り返った美和ちゃんはまたエクボをつけて笑って、洋服のポケットから先ほどの赤い糸を引っ張り出した。長い長い糸。
ぐいーと手を伸ばして最後まで出すと、「美和が先にお手本をみせるからねぇ」とその糸を細い指に絡ませた。

ちらりと千早くんの方を見ると彼もこちらを見ていた。そっちに行こうにも千早くんの両手は子供で塞がっていて、いっぱいいっぱい、そんな具合だった。
その表情でその状態って。
なんだかちょっと可笑しくて、知らない間に自分の口元が和らいでいるのを感じてハッとした。

僕、いま、笑ってる。


「夕日お兄ちゃん、ここ引っ張ってーっ」


美和ちゃんの声に我に返る。
細い糸は互いに絡み合って、何が何だか分からない。あやとりというのはどうやら複雑な遊びらしい。
言われたところを恐るおそるつまんで引っ張ったり、緩めたりする。それだけで彼女は体をくねらせて笑った。

しばらくそんなやりとりを続けていると、一人、また一人、ランドセルのある玄関の方へ消えていった。それぞれを呼ぶ声は恐らく母親か、たまに父親の声もする。
かけられた時計を見ればもう17時を回るところで、確かに窓の外も薄暗くなってきていた。


「美和、楽しそうだな」


ようやく一人になった千早くんが玩具や絵本を片付けながら言う。先ほどまで笑い声で溢れていた部屋は、少しのオルゴール音に気づくほど静かになっていた。
部屋にはもう、美和ちゃんだけが残っていたから。


「うん!たのしい!」


あやとりの糸はもうすでに複雑に絡み合いすぎて、どこを摘めば良いか分からない程だった。
片付けを終わらせた千早くんが側へ寄ってきて、様子を見るように胡座をかいて座る。
さんざん弄ばれました、とほっぺに書いてある表情は少し疲れていたけれど、美和ちゃんを見る瞳はどこか他の子と見るそれとは違った。


「美和、そろそろ迎えがくるから片付けな」

「えーっ」


この子にもお迎えが来る、そう聞いてどこか安心した僕がいる。
美和ちゃんはあやとりの糸をほどき、ポニーテールを揺らすと机の文房具を収納ボックスの中へと片付け始めた。

千早くんは何も言わず、その後ろ姿を見ている。


「みて夕日お兄ちゃん!きれいになった」


おいでおいでと誘う美和ちゃんの小さな手につられて向かうと、ちゃんと布巾で拭かれた机。


『うん、きれいになった。えらいね』

「いっぱいきれいにして、おてつだいして、良い子になったらママが迎えにくるんだって」


ポニーテールの先が微かに揺れる。
小さな後ろ姿からじゃ表情は分からなくて、それでもその言葉が尾を引いて部屋の中を彷徨っていた。

最初に千早くんが説明をしかけていた言葉を思い出した。違う。この子の帰る場所は、他の子達がランドセルを背負って帰る場所とはきっと違う。

こういうとき、どうすればいいんだろう。

昨日の夜、一人で鍋を作る千早くんの姿がポツリ、霧のかかった頭の中にふと浮かび上がった。

ー相手の言葉を使うっていうのは、相手のことを大事にするのと同じことだと思うから



『良い子になる、おてつだいしたいな』


片付けをしていた美和ちゃんの手が、ふと止まる。それから間を置いて彼女が振り返る。
さっきよりほんの少し無理した笑顔。
あぁ、こうやっていつも笑ってきたんだ。


「どうやって?」

『あやとり、いっぱい教えてほしい』


赤い糸がはみ出したポケットをそっと指差して、僕はノートを恐るおそる見せた。
美和ちゃんはきょとんとして、それからまた薄紅の頬にエクボを作って笑った。


「うん、うん!いっぱい教える!」


夕日お兄ちゃんのお手伝いしたら、美和良い子になれる!そう弾んで言いながら彼女はランドセルを背負う。チリンチリンと横の鈴が笑うように鳴った。










「ありがとな、夕日」


カラカラと自転車を押しながら、千早くんは呟いた。外はほんのり薄暗く、街灯が申し訳程度に点灯し始めていた。

あのあと、初老の女性が美和ちゃんを迎えに来てくれた。聞けば近くにある施設の院長先生で、毎日散歩がてらに彼女を迎えに来てるのだと言っていた。
やっぱり彼女の帰る場所は、あの場所にいた子供達のどの子とも違うところだった。けれど、その先生にポニーテールを結い直される美和ちゃんの頬には僕と話すときのように可愛らしいエクボが添えられていて、なんとなく安心したのを覚えている。

僕はお礼を言われることなんてしていない。


『なにもしてない』

「何も言わずにつれ回してごめん」


交差点の信号が赤く灯って立ち止まる。車や人なんていない田舎道だけど、僕らはそれが変わるのを待った。
少しの沈黙。
重く垂れ込みそうな夕空の雲と、腕時計をチラリと見る千早くん。僕の心が忙しなく何かを伝えようとしていた。
アムールでふと感じたこと。児童館で確信に変わっていったこと。

信号が青になっても僕の足は進まなくて、千早くんが足を止めて僕の方を見る。


『千早くん、僕はしゃべれるようになりたいです』

「…ヤブから棒に、敬語」


少し笑った彼に、僕は急いでページをめくるとペンを走らせる。


『純平くんと、千早くんと、三人ではなせたらいいとおもう。美和ちゃんとも、いろいろはなしたい。そのためには、ことばがひつようだとおもう』

「…夕日、別に俺はそのために連れてきたんじゃないよ」


分かっている。
千早くんはきっと、そんな人じゃない。

だけどもどかしくて、まだまだ伝えたいことがあるのにどうしても次の言葉が出なくて、ついまた喉元に手が伸びてしまう。
どうしてこんなに胸のあたりがチクチクするのか分からない。息が出来るのに、言葉が唇から出てこないだけでこんなにも苦しい。

ぱくぱくと口を開けたり閉じたり、ネックウォーマー越しに喉の皮を抓ろうとした瞬間、その手に温かいものが触れた。
目を開けると重なるように千早くんの手があって、僕は思わず顔を上げる。


「世の中には必然性ってものがある」


ひつぜんせい。
漢字も思いつかなくて、ただ添えられた手の温かさにその言葉の続きを待つしかできなかった。


「夕日のそれは、お前自身を守るためにあるんだろ。そうするしかなかったんだろ。だったら誰にもそれを剥がさせるようなことはできないし、させたくない」


千早くんの真っ直ぐな瞳が僕を見つめている。
僕を守るものが、ひつぜんせい。
こんなものが、僕のことを守っている。
また涙が出てしまいそうで唇を結んだ。


『わからない。わからないことばかりで、くるしい。あんなにたのしかったのに』


紡いだ文字に触れて、また喉元に手をやる。
戻ってきた手を、さっきより少し力のこもった千早くんの手のひらがしっかりと受け止める。


「俺も楽しかった。今はそれだけでいいんじゃない」


あやとりの絡んだ糸が緩く解けるように、今はという言葉が気持ちを掬う。
どんな絵本の話より、辞書の文字より、千早くんの言葉はスルリと頭に入り込んでその空間を満たしていく。
たった一言、二言でも。


「笑った顔も見れたし」


手に添えられていた指が静かに頬へ触れる。親指の腹がそっと頬を撫でて、それから止まった。
まるでなにかを躊躇するように。
吸い込まれそうな瞳だ。昨日の夜に見た、あの瞳。

その瞬間大きなトラックが場違いなスピードで横を通って、その乱暴な風に強く目を瞑る。

次に開けた時には千早くんの顔がすぐ目の前にあって、数秒だけど時間が止まった気がした。

ぱっと手が離れて、しばらくの沈黙。


「また、行こうな」


絵本を読んだ時より柔らかい声が胸に落ちてくる。ぽん、とひとつ頭を撫でて千早くんは自転車のハンドルを握った。
いつか僕も伝えたい。
楽しかったって、言葉で、声できちんと伝えたい。

僕は静かに頷いて、カラカラと音を立てて歩く自転車と千早くんの背中を追いかけた。




































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