「スグルくん!こいつ、マル!1歳、オス!柴犬だけど白い!だけど土に体擦ったりするから黄色く見える!」
耳に痛いほどツンと響く音、どこか抑揚のない機械みたいな話し方。
懐かしい声だった。
まだ小さいマルを抱きかかえて飛び回るその姿は、顔こそモヤがかかって見えなかったが、紛れもなく奴だった。
夕日。
俺はあのあと、どうしたんだっけ。
あいつの話し方や回りくどい言い方にどうしようもなく苛々して、足にまとわりつくマルを思い切り蹴飛ばしたような気がする。
それを見てあいつ血相変えて俺に飛び掛ってきて、それからは殴り合いで結局八雲が仲裁に入ったんだ。虎尾はマルを抱きかかえながらその様子を見て「やりすぎだろ」って笑ってたっけ。
案外、覚えてるもんだなぁ。
なんでこんなこと、今になって思い出すんだ。
頭をよぎるのはあいつだけじゃない、白い髪で、赤い目をしてぼろぼろ泣きやがったあいつも。
「起きたか?」
薄眼を開けてぼんやりしているスグルに声をかける。夢から覚めた後みたいに起き抜けの薄い瞼は重そうで、眼球を動かすのがやっと、という具合だ。まぁまだ脳が動かねぇんだろう。
万里の運転する車は都心を少し離れ、再び八雲の診療所へとその足を走らせていた。
「あんたさぁ」
万里がウィンカーを乱暴に切りながらため息をつく。
「わざとだろ」
「なにがよ」
「バンダナ二人、入ってったの知ってただろ」
ジッポをポケットから取り出して、まぁよく見てんなぁとチラリ、万里を見るとふと目が合った。
折井が弁当をしまって携帯を見つめている間、バンダナの奴らがマンションに吸い込まれるのを横目で見てたのは事実だ。
そんでその折井は今、シートを倒した奥でユウヒを抱え込むようにしてぼうっとスモークガラスの向こうを眺めている。
『八雲さんのところにいきたいです』
ひと騒動終わって百蓮と話していた最中、腰へ押し付けられたノートにはそう力なく書かれていた。その顔はひどく憔悴したような色で、だけどどこか焦っているようにも見えた。
だから今こうして向かっているわけだ。
いや、そうじゃなくても今は八雲に頼るしかない。
しかしユウヒを見るあの百蓮の雰囲気はどこか違和感というか、気持ち悪さを感じさせた。
心臓が粟立つ気持ち悪さ、とでも言うのか。
俺たちが部屋に入る前、何があったのかなんてわからねぇ。
後ろのシートで焦点も合わず目を開けたり閉じたりしてるスグルを見て、それから煙草をゆっくり咥える。
「なんであんな小細工みてぇなこと」
お得意の舌打ちをしながら万里はハンドルを握る。小細工ねぇ。言われてみればそうかもなぁ、なんて笑ってしまう。ジッポの蓋を弾いて、ホイールを擦る。黒い炎が揺れてくゆる。
横を通り抜けていく対向車のナンバーを適当に足し算していく。156、172。こんなこと、誰かさんもよくやってたっけな。
なぁスグル。
「俺はあいつの目ぇ覚まさせたいだけだよ」
吐いた息は細く白い尾を引いて、それからフロントガラスへぶつかった。
半日ぶりの八雲診療所は昼の顔で、入り口の垣根には寄りかかって煙草を吸う患者が何名か出迎えてくれた。
診療所を取り囲む色とりどり、であろう花たちとは対照的な真っ黒いバンが禍々しいのだろう。いぶかしげな顔をして肩をすくめる奴もいれば、こちらを様子見ながら談笑している奴もいる。
平日の昼間だというのに、皮肉にも随分と賑やかなもんだ。
粗い砂利の上をゆっくりと進む車の揺れで、吸いきった煙草の灰がエチケットケースから零れ落ちる。
同時にちょうど入口から顔を出した八雲は少し驚いた顔をして、それからこちらに手を振った。ゆるり、手を振り返して止まった車から降りる。
「わりぃな八雲、急患だ」
「早めのご帰還だったね。二人は?」
二人、というのはきっとスグルとユウヒのことだ。
車の中を指差しても外からじゃ見えないだろう、バンの扉を開けるとスグルは相変わらずぐったりとシートに身を沈めていた。そして後ろのシートには、折井に抱きかかえられたユウヒ。
「なんだかずいぶんと痛々しいね」
「スグルは脳震盪と、手がけっこうやられてんな。縫えたら縫ってくれ」
「簡単に言うんだから」
呆れたように笑いながらも八雲は腕まくりをすると、処置道具を取りに行くと言って診療所へ入って行った。
車の外へ降りた折井とユウヒはくっついているはずなのに互いにどこか距離感があって、見ているこっちが溜め息を吐きたくなる。
百蓮が落とした言葉、電話の件はどうも二人の間に濃い影を落としているようだった。
俺にはよくわからねぇが辛気臭いのはごめんだ、なにか冗談のひとつやふたつでもー
「こんちは」
突然声がした方を見ると、サビだらけの自転車を押してこっちに近づいてくる千早の姿。珍しく息を切らして、形の良い額はいつもより見える分うっすら汗ばんでいた。
見計らってはいないだろうが思わぬタイミングだ。制服姿でスクールカバンを背負った姿を見るとどうやら学校はあったが途中で切り上げてきた、そんなところか。
でもどうして。
こっちが声をかける前に何かを探すようにきょろきょろとし、それからユウヒを見つけてどこか安堵した表情をしている。それから一呼吸置いて、千早は折井を見る。
「夕日、借りていいっすか」
その言葉に拍子抜けしたのは俺だけじゃない。
折井のほうを見ると目を丸くして、だけどその瞳は微かに震えていた。
予想外だった、という顔色ではない。分かっていたことだが心が波打つような、そんな顔色だ。
数秒かの沈黙の後、折井は静かにユウヒの手をそっと離した。
「…うん、いいよ。だいぶ落ち着いたから」
落ち着いたって。
それはユウヒなのか、お前のことなのか。
吟味する間もなく「あざす」と一言、千早は軽くお辞儀をする。
それから自転車の錆び付いたスタンドを立てると、背負っていたスクールカバンからジャージを取り出した。そしてもう一つは、買ったばかりで値札のついた黒いネックウォーマー。
「ん。着替えたら行くから」
相変わらず淡々とした口調でユウヒに手渡す。
まぁ確かに、今のままじゃ街へ繰り出すには目立つか。いつもなら折井の顔色を伺うはずのユウヒはそれをせず、差し出されたそれをおずおずと手に取った。
「中で着替えておいで」と折井がユウヒの背中をそっと押し、それに促されるようにして奴が診療所の入り口へ歩いていく。
制服の半袖で横顔に垂れる汗をぬぐいながら、千早はそれについて行った。
「千早くん」
ふと横からかけられた言葉は少しだけ震えていたように思う。
折井は千早のほうを真っ直ぐ見つめ、何か言いかける。あたりの空気がどこか重さを含み、なんともおさまりの悪い雰囲気だった。一方で千早はと言うと明け透けとしていて緊張感などなく、「はい」と静かに返事をする。
「…ごめん、なんでもない」
そんな千早を見たからか、なにか言葉を飲み込むようにして折井は無理矢理に口元を上げた。
診療所の入り口では、ユウヒ達と交互にしてボウルと処置箱を抱えた八雲が出てくるところだった。
八雲は千早の姿に驚いたが、一言二言話すとにっこり笑って中を指差した。恐らく着替える場所だろう。こんなに患者がいたんじゃ、部屋だって確保できねぇだろうに。
「千早くん、夕日くんとお出かけだってね」
扉の開けられた車に乗り込んだ八雲は、ボウルに入れた氷水へ布巾を浸しながら言う。しばらく間をおいて、「そうですね」と折井が呟いた。
氷がステンレスのボウルにぶつかる音が涼しげだが、その間に八雲はスグルの脈拍をとり、手の甲や掌の傷口をテキパキと視診していく。
「ここだけ縫おうかな。それにしても千早くんが早退だなんて珍しいかも」
「へぇ〜、そんなに真面目っ子なのかアイツ」
俺の言葉に八雲はふふ、と笑う。
「千早くん、自分のことあまり言わないからね。頑張り屋さんだよ、彼は」
手際よく処置をしていく八雲の手先を見ながら、ふぅんと適当に相槌を打つ。千早のことはだいぶ前から見ているつもりだけど、まぁ自分のことに限らずあまり言わないっつーか無口なだけだ、と思う。
八雲はスグルの首、そして頭部に濡れた布巾を押し当て、手首ごと持ち上げて傷の状態を確認する。
「でも…千早くんだけじゃないかな、頑張り屋さんなのは」
呆れたような声色で八雲がそう呟く。
刺さったままのガラスの破片をピンセットで引き抜く。つられるように皮が伸びて、固まりかけた血液が粘り気を持ちながら滴った。
頑張り屋さんねぇ。
八雲が言えばそりゃ魔法みたいな言葉に聞こえる。こいつの言葉には力がある。重みがあって、説得力がある。
だけど頑張るなんてのはたぶん美学でしかない。俺に言わせればただの「やりすぎ」だ。
頑張るのとやりすぎるのは違う。
足元を見ればマルが座っていて、クゥンと鼻を鳴らしながら車内の様子を見ている。
俺は思わずマルを抱っこして、スグルの様子を見せては「やりすぎだろ」と笑った。
その瞬間八雲の動作が一瞬止まって、俺も思わず笑っていたはずの頬の筋肉が硬く張った。
ボロボロのスグルがいて、それを慰める八雲がいて、マルを抱きかかえながら俺が笑って全てを見ていて。
「じゃあ行ってくるんで」
かけられた言葉にハッとしてマルを離す。
振り返るとブカブカのジャージを腕まくりして着込んだユウヒの姿。ネックウォーマーは首筋の痣をうまく隠していて、なんだ、髪こそ白いもののどこかにいそうな気弱な不良少年くらいにはなったか。
千早はスタンドを立てたままの自転車の後ろを指差した。ユウヒが分からずおどおどしていると、その腰を持ち上げてリアキャリアへと乗せる。
「二人乗り、気をつけろよー」
「っす。18時前には戻るんで」
「おー…」
器用に自転車のスタンドを足で弾くと、「捕まって」とユウヒの手を腰へ、千早は一礼すると、よろりとペダルを漕いで診療所を後にした。入り口の連中はそれを見てバラバラにだが手を振っている。
俺もつられるようにしてその後ろ姿に、見えてはいないだろうが手を振った。
「ま、た」
くぐもった声が車内から聞こえる。
見ればスグルがまだ薄ぼんやりとした意識の中で、瞼をチカチカと閉じたり開けたりしている。
意識が戻った奴の様子に八雲は少し安心したようにため息を吐くと、スグルの顔を覗き込む。
「スグルー、気がついた?僕のこと分かるかな?今日は何日か分か…」
「お、れの…おれの、そばから、」
途切れ途切れ、言葉を紡ぐその口は微かに震えていて、浮くような歯が唇を弱々しく噛み締めてはハクハクと息をした。
続く言葉を待ち望むわけでも、急かすでもなく、ただその空気の中に俺たちはいた。
スグルは飲み込めない唾液を口の端から垂れさせて、手探りでもするように手を伸ばした。必死になって、何かを掴みかけてはその手がよろめいてシートへ落ちたり浮いたりする。
「あいつ、が…また、おれから、はな、れ…」
消え入りそうな声だった。
朦朧とする中で伸ばした血まみれの手は宙をまさぐるように動いて、だけどその先には何もなくて。
しばらくその様子を見ていた八雲は、そっとそれを制止した。「ねぇスグル」、そう言うと、少しずれた布を額へまたのせる。
「戻ってくるって、言ってたじゃない」
その言葉に、分かっているのか分かっていないのか、定かではない瞳が震えて小さく頷いた。何度も、何度も頷いた。
「君は信じなきゃいけないんだろう」
長いまつ毛は汗か涙か分からない粒を携えて、そのままゆっくり瞼とともに閉ざされる。八雲が言った言葉に弱々しく頷きながら、スグルは静かに寝息を立て始めた。
なぁスグル。
俺は色だってわかんねぇのに、他のもんまで見えなくなっちまったのかな。
鈍色の景色が走っていく。
千早くんの背中は広くて、少し猫背だった。捕まった腰は適当にがっしりとしていて、ただ、そこへ体をぴったりくっつけるのには勇気がいった。
「夕日、それが終わったら八雲診療所で待ち合わせしよう」
それがあの電話の最後だった。
僕は結局、折井さんの顔をまともに見られずに千早くんについてきてしまった。罪悪感と後ろめたさが内心へ尾を引いて離れない。
それでも自転車は進む。まっすぐ、迷いなく。
風が髪の毛をさらって、程よい浮遊感に身をまかせるのが不思議な気持ちだった。
どこへ向かうんだろう。
時折後ろを振り返る千早くんにびくびくしながら、それでも心配してくれているのかもしれないという気持ちに胸のあたりがチクリとした。
だから勇気を出して、それを振り払うように千早くんの背中に頬をくっつけた。
あったかい。
その背中は少しピクッとしたけれど、それでも車輪の音は止まらない。
千早くん、僕はもしかしてあのとき、思ってはいけないことを思ってしまったのかもしれない。
誰か僕の手を引っ張って、ここから引きずり出してくれないかと。この真っ暗闇から、どこかどこでもいい、連れ出してくれないかと。
「ついた」
ふと目を開けると、大きいけれどそこまで存在感のない、ひっそりとした建物が目の前に建っていた。
入り口前の緑に錆びた看板には、「たいよう文化会館」と彫りつけてある。
文化会館。じっとその造形を見ていると千早くんが自転車をゆっくり止めたので、僕は急いで自転車を降りた。
申し訳程度の駐車場とは反対に駐輪場は何列も用意されていて、学生が使うところなのかなとうっすら考える。
駐輪場の隅に自転車を止めた千早くんはスクールカバンをカゴから出し、それを背負う。
自転車から降りた千早くんは僕のネックウォーマーを整えると、付いたままだった値札をパチリと引きちぎった。
「行こう」
息継ぎをする間もなくそう言って、千早くんは入り口へと歩き出した。僕も早足でついて行く。
会館の中はクラシックの音楽が流れていて、タイルの上を歩く足音を優しく包み込んでいた。
だだっ広い廊下、ロビー。5階ほどあるのか、上まで吹き抜けて見えるそれぞれの階には人がちらほらと見えた。
少し奥へ進むと小さな喫茶店があった。こんなところに入っているお店もあるんだ。
「アムール」と書かれた看板は入り口の扉にかけられていた。その扉、曇りガラスの向こうは薄暗く、開いているのかどうかも分からないほどだった。
千早くんは戸惑うことなくそこへ入ると、看板に付けられた鈴がチリンと可愛らしい音を立てた。
「いらっしゃい」
カウンターの奥には金髪をゆるくパーマさせ、黒縁眼鏡をかけた青年がいた。千早くんと同じくらいの年齢に見える彼はどこか垢抜けていて、落ち着いた出で立ちの青年だった。
千早くんはそんな彼に「ん」とだけ返事をして、僕の方を見るとこっち、と手招きをしてくれた。
彼の前にあるカウンターには座らず、奥のソファ席に僕を通すと、その真ん前にある小さなソファへスクールカバンを放る。
店内はこじんまりとしていて、コーヒーの香りがほのかに漂う感じが木材打ちっ放しの内装に似合っていた。
「千早が友達と早退なんて、今日は雪でも降るのかもしれない」
店内に見とれていると、氷水の入ったガラスコップをコースターの上にのせた彼が真剣な声色で言いながら寄ってきたのではっとした。
友達。
その言葉の響きに心が揺れて、同時に水の上の氷もカランと音を立てた。
そんな僕の様子を気にもとめず、千早くんは気にせずスクールカバンの中身を探っている。
「何にする?ブレンドとか…色々あるけど」
そう言うと彼は横のブックスタンドに立てかけられたメニューを広げてくれた。コーヒーに、ソフトドリンクに、色とりどりのケーキ。
僕はペコリとお辞儀をして、それからノートを取り出そうとしてハッとする。ノートもペンも、多分車の中に忘れてきてしまった。
僕が慌てているのを見て彼は少し首を傾げた。
「これ、使って」
あたふたしていると、千早くんがスクールカバンの中をまさぐった。そして差し出されたのは、使いかけのノートとペン。
また気を使わせてしまった、と思いながらも急いで『ありがとう』とペンを走らせる。千早くんはメニューを見ながら「ん」とまた頷いた。その様子を見て、金髪の彼はおお、と唸る。
「阿吽の呼吸みたいだな」
「まぁ、そう…うん」
彼が言う言葉に、千早くんは自然と答える。
八雲さんや折井さん、虎尾さん、スグルくんと話すときとは違う印象だ。かしこまった言い方でもなく、振る舞いも硬くない。
あうん、というのは分からなかったけど、この人と千早くんも友達なのだろうか。
「何にする」
千早くんがメニューを横にして見せてくれた。
二人でそれを覗き込む。僕にはメニューを見ても、こういうのはよく分からない。
たくさん情報があって、でもどれも美味しそうな名前で、魅力的なのは分かるけれど…
「今日のオススメセットとかあるけど、二人して同じのにする?」
「…いや…」
「…あ、なるほど。じゃあケーキだけ違うのにすればいいんじゃない」
彼がそう言って指差したのは、抹茶のシフォンケーキとチーズケーキ。
千早くんの提案で紅茶のセットにすると、「では退散いたします」と彼がカウンターの奥へ消えて行った。
不思議な人だな、とぼんやりその後ろ姿を追っていると、千早くんがまたスクールカバンをごそごそと探った。
「まだ時間あるけどその前にこれ、渡す」
色褪せたテーブルにポンと置かれたのは、ホチキスで端を止められた紙の束。それと、「漢字ドリル」、「算数ドリル」と書かれた新品の本が一冊ずつと、分厚い辞書。
きょとんとしていると、「中、みて」と千早くんが紙の束を指差した。
めくってみると手書きでたくさんの問題が書かれていて、数枚ずつの紙の端に丁寧に付けられた見出しには「国語」「算数」「理解」「社会」とそれぞれ綺麗な文字で書かれている。もちろん見出しに合わせて、一つずつ手書きで問題が書かれている。
驚いて千早くんの方を見ると、眉間にしわを寄せたまま水を飲んでいる。
「勉強したいって言ってたけど、俺、よく考えたらお前がどれくらい分かるのか知らないし。とりあえず腕試しっていうか…時間あるときにで良いけど」
強制じゃないから、と、千早くんは付け加える。
これを、わざわざ手書きで。小さな部屋でスタンドライトに照らされながら、鉛筆を走らせる彼の姿を思い浮かべた。
僕は嬉しさで胸が塞がれるような気持ちで、またあたふたしてしまう。急いでペンをとると、ノートに走り書く。
『すごい、すごい、ありがとう、どうしよう』
「どうしようって…てんぱりすぎ」
千早くんが少し笑った気がした。
目の前の紙の束の表紙は真っ白だったので、「千早くんノート」と書く。千早くんはそれを見てまた眉間にしわを寄せたけれど、怒っているわけではなさそうだった。
それから横のドリルと、ずっしりと重たい辞書を手に取る。使い込まれた辞書は表紙が所々擦り切れていて、中身の何箇所かは折り目が付けられていた。
「あー…それは…問題集やってからでいいけど、辞書はこまめに見るとけっこう、面白いと思う」
『どうして?』
「ん…言葉は難しいから」
難しい。千早くんでも難しいことがあるんだ。
僕は多分きょとんとした顔をしていたのだと思う。千早くんは辞書をぺらぺらめくって見せてくれた。
沢山の文字の羅列。僕の知らない漢字ばかりで、どれもまるで違う国の言葉のように思えた。
「言葉って相手の人柄が出るし。こっちが思ってることと、相手が思ってることは違うこともある。それに…相手の言葉を使うっていうのは、相手のことを大事にするのと同じことだと思うから」
そういう意味でも、大事。
千早くんの言ってることは少し難しかったけど、なんとなく分かるような、分かりたいような気がした。
僕も千早くんを大事にしたいと思ったら、千早くんと同じ言葉を使えばいいんだろうか。
少し薄くなったえんじ色の表紙を指でなぞる。
「はい紅茶です〜」
千早くんノートをぺらぺらとめくっていると、目の前にティーカップが置かれた。
丸い淵に青いラインのひかれたシンプルなティーカップの中には紅茶が煎れられていて、そこから柔らかい湯気が立ちのぼっていた。
彼は千早くんの前にも丁寧にカップを置くと、僕の目の前にあるドリルや辞書、千早くんノートに気がついてまたおお、と唸った。
「すごいな。あられか、あられが降るのか」
「降らない。夕日も調べなくていいから」
辞書で引く。あ、ら、れ。霰。難しい漢字だ。
彼はちょっと見せてと千早くんノートを手に取ると細長い指でページをめくりながら、ふむふむと見ている。
「俺にも作ってよ千早。算数だけでいいから」
「……考えてみる」
『算数だけでいいのですか?』
僕は書いたものを彼に見せる。金髪が少し揺れて、彼は血色の良い両頬に柔らかい笑みをのせた。
「いいのいいの。俺中学までしか行ってないけど、これからもここで働くし計算さえできれば生きていけるから」
『計算、ぼくもしたいです』
「うんうん、ここで働く?」
彼の言葉に、ふと折井さんの顔が浮かぶ。
途端に身体が縛られたように硬くなって、指先一本も動かなかった。
次第に鼓動が速くなって、さっきまでの温かい気持ちが指先と共に冷やされていく。
今頃折井さんは何をしているんだろう。
僕は折井さんを置いて、こんなところで一体なにをー
「夕日」
千早くんの声にハッとする。
見つめる瞳は沈黙していて、名前以外何も言われていないはずなのにここに戻ってこいと、そう言われている気がした。
僕は気づかれないようにテーブルの下できゅっと拳を握った。それから小さく息を吸う。すると立ちのぼる紅茶の香りが鼻をくすぐって、一瞬だけれど頭の中がすっと白くなっていく気がした。
「冗談。ここは俺とじいちゃんで定員…いや店員オーバーってやつだからね。てことで、もう少ししたらケーキが来ますので」
金髪の彼はそう言うと、今度はゆらゆら揺れながらまたカウンターの奥へ消えて行った。
千早くんは紅茶に何も入れず、そのまま一口飲んだ。
変に、思われなかっただろうか。
ペンを握りしめたまま、僕はチラチラ千早くんを見る。そういえば昨日の夜とは違って、薄暗いけれど彼の整った造形がよく見える。特徴のある鷲のような鼻も、きれいな肌も。
まじまじと見ているとちょうど顔を上げた彼とばちっと目が合って、僕は急いで紅茶を口に含んだ。
「火傷する」
『あつい』
「だろうな。夕日」
ふと呼ばれた名前に顔を上げると、くゆる湯気の向こうで千早くんが真剣な顔をしていた。
「俺といる時くらい、俺のことだけ考えたら」
しばらく言葉の意味が分からなくて、じっと見つめてしまう。
淡々としているけれど力がこもっていて、それでも痛くない。冷えていた指先が内側からほんのり温かくなって、瞳が震えるのが自分でもわかった。
『なんで』
「うん」
『なんでそんなにやさしくしてくれるの』
言葉を紡ぐ手が、指先が静かに震える。
千早くんが頬杖をついて、少し考えるような素振りをする。
沈黙には慣れているはずなのに、もどかしくて、心が歯ぎしりする。
「大切だと思ったから」
そう答えた彼の声色は何一つ揺れていなくて、たった一言なのに、僕の心だけが波打っているようできゅっと唇を噛み締めた。
どうして、昨日会ったばかりなのに。
でも確かなのは、僕だって折井さんより千早くんを選んで電話したということ。
そして今も、彼といる時間が平穏で、あたたかくて、何にも変えられなくて。
「大切だから。それだけの理由じゃだめなの」
ペンを握り返してハッと千早くんを見る。
まっすぐな瞳。嘘も偽りもない、ただ純粋に僕に問いかける瞳。
偶然出た言葉かもしれない。千早くんにとっては取るに足らない、日常会話なのかもしれない。
だけど胸のあたりを一片の灯がやさしく熱を持っていって、のどのあたりがチリチリとして、目の前の千早くんが淡く霞んでいく。
「ケーキそろそろくるから、しょっぱくなるぞ」
霞んだその向こうで、また千早くんが少し笑った気がした。