「折井よぉ、そんなに見つめても連絡こねぇから大丈夫だって」


虎尾さんが煙草をふかしながらミラー越しに笑う。血ィ拭くだけだぞ、と付け加えながら。

確かに初仕事にしては手厚いと思う。送迎もあるし、何かあればすぐ駆けつけるように待機しているだなんて僕のときにはなかったものだ。
だけどそんなことを言われても、僕としては気が気じゃなかった。


「わかってますよ。でも…何かあったらあの子はすぐ…」


消えてしまうんじゃないか。そう口にしそうになってつぐむ。
あの子は、夕日くんはきっと僕らが思うより脆い。
誰かが守らなければいけない。
行ってらっしゃいと見送ったときの物憂げな表情を思い出す。手に握った携帯は確かに微動だにしないけれど、空を突くように高く切り立ったマンションとそれを交互に見ながら細く息を吐いた。


「ま、奴らが帰ってきたら今日こそお前にプレゼントやらねぇと…って、」


言いかけて止めた虎尾さんのほうを見ると、その視線の先にはスーツ姿の二人がマンションの中へと吸い込まれていくところだった。
ひょろりと背が高くシルバーの髪をした男と、それについて行く黒髪の男。住人と思うにはあまりにも不自然な組み合わせだった。

開けられたドアガラスから少し身を乗り出した虎尾さんは吸いかけの煙草をエチケットケースにしまうと、目を細めるようにしてその姿を追った。


「おー…あいつら…なんだっけ?分家の奴らだよな」

「ちょ、ちょっとなんでもいいから僕たちも行きましょうよ!」

「あんたらホントばかじゃねぇ?!」


間髪入れずに突然怒鳴った万里くんの声に驚いて見れば、ミラー越しの彼はひどく不機嫌に舌打ちをした。


「さっきもう二人、バンダナ着けた変な奴らが先に入ってったろーが!!」










男の頬からは口の中に入った破片が皮膚を突き破って出ていて、喉にまで欠片が達したのかスグルくんが拳を打ち付けるたび血しぶきをあげていた。
もう意識などないのに、それでも彼は殴り続けている。
僕は部屋の隅へ這うように逃げ、ただ震えて携帯を握りしめることしかできなかった。
せっかく繋がった電話口に返事をしたい。なのに、虫の息のような音が喉から絞り出るだけで、ぱくぱくと動く口からは一言も発することができなかった。


「イエスなら一回、ノーなら二回、爪で受話器を叩いて」


千早くんの冷静な声が電話口から聞こえた。
その言葉に何度もなんども頷きながら、震える指先に力を込める。指が滑ってうまく携帯も持てないけれど、指の腹でそれを捉えて両手でしっかり握りしめた。
それから必死の思いでトン、と一回指先でタップする。


「今ひとり?」


トン、トン


「スグルと一緒?」


…トン、トン


答えに迷ってノーを出したのは、これが、この人物がさっきまで一緒にいたスグルくんとは思えなかったからだ。
「バカのふりっつーのはラクなんだよ」、そう言った彼の目は鋭くぎらついていて、何もかもが今までのスグルくんとは違った。


「すごい音がする。逃げられそうか?」


トン、トン、そう指でタップしたとき、彼がこちらを振り返ったので思わずひゅっと喉が鳴った。

血まみれになった人差し指を唇に添え、シィーと笑って彼は立ち上がった。ぐったりとしてもう動かない男の心臓に手を当てると、何かを確認してこちらへにじり寄ってくる。
手には男のものだったナイフを携えて。
血の気が引いた。逃れようと後ずさるけれどもう後ろは壁で、僕は電話を握りしめてがたがた震えるしかなかった。


「夕日、それが終わったらー」


千早くんの最後の言葉。

彼は目の前まで来て僕の前にしゃがむと、ガラスの破片が刺さったままの手をゆっくりと伸ばして携帯を取り、それをパチンと閉じた。
心臓の音が室内に響き渡りそうだった。

冷ややかさを口元に浮かべたまま、彼は手に持ったナイフの刃先を僕の顎に滑らせる。
何も言葉を発さない。それなのに、たった一人の人間の圧迫感に殺されてしまいそうだった。


「前のユウヒも、その前のユウヒも…うるさくて仕方なかったんだよ」


ナイフの刃先は顎から撫ぜるように喉元へ落ちていく。唾を飲み込む事さえ躊躇させるような声色。飴玉のような瞳は今は鉛に、目だけじゃない。五感全てを使っても逃れられない。


「お前が喋れるようになって…もしうるさくしたら、俺は絶対お前をそいつらみたいにする自信がある。だからユウヒくん、決めていいよ」


彼は僕の震える手を取ると、そのナイフを僕に握らせた。血でぬめるそれは重く、僕の心にまでのしかかった。
予想もしていなかったことに、思わず再び彼を見た。
今度は笑ってなんかいない。


どうして。


「選んでいいよ。…夕日」


そう呟いた彼の瞳が、僕を見据えたままほんの一瞬震えた気がした。
鉛色の瞳が、まるで何かを再体験しているかのように。それは単なる脅しとも試し行動とも違う何かだ。


ーお前は夕日にはなれねぇんだよ


考えるより先に、僕はそっとナイフを床へ置いた。


その瞬間彼の目が見開いて、それから身体が強張った。


「なに…してんだよ」


僕は恐るおそる、目を合わせたまま首を横に振った。
できない。
君のことも、僕のことも、刺せない。
これが僕にできる唯一の、精一杯の意思表示だった。身体は恥ずかしいほど震えて、どんな暴力がきても受け止めるつもりだった。


「なんでだよ!!死ぬのがこえぇんじゃねぇのかよ!!俺を刺せよ!!」


僕は必死で何度もなんども首を横に振った。
彼が何を背負って生きているかなんて分からない。どんな苦しみがあって死に固着しているかなんて想像もつかない。

それでも、僕が死んで君が生きるなら。

自分のことじゃないはずなのに不思議と涙が溢れて、どんな怒号や罵声が飛んできても僕は首を振り続けた。

今この瞬間、紛れもなく彼はスグルくんだ。


「なんで…」


次第に弱々しくなる罵声の終わり、彼が震える声で弱々しく呟いた。
床に置かれた血まみれの手は強く握り締められ、その拳から鮮血が滴ってフローリングの繋ぎ目をつたう。


「なんで俺じゃ…なかったんだよ」


そう俯いた目の前の彼に、僕は何もできなかった。


「クソ野郎!!」


彼はそう叫ぶと置かれたナイフを乱暴に手に取ったので、僕は思わず強く目を瞑った。
けれど彼は僕ではなく、後ろに横たわったままのもう一人の男の方へ駆け出してナイフを力の限り振りかざした。
本気だ。

殺してしまうー

僕が手を伸ばした瞬間、廊下から何かが飛び出してきてスグルくんへ体当たりするように飛び蹴りをした。
ガラスがけたたましく割れると同時に、スグルくんは外のバルコニーまで吹き飛んでしまった。


倒れこむように床へ着地した人は、周りに飛び散る血液や惨状を見た後、ゆっくり立ち上がってこちらを見た。
銀色の髪は短く切り揃えられ、あのスグルくんを吹き飛ばしたとは思えないほどひょろりとした四肢がダラリ、力なく落とされていた。
瞳は青くどこか薄曇り、その底に憂いが浮かんだような目つきだった。

突然のことに頭がついていかない。微かに察知できることといえば、またバンダナの人たちみたいに僕たちを殺そうとするかもしれないということ。
そう思うとすぐさま心臓に鳥肌がたった。


「やりすぎだよ」


少し間をおいて廊下から顔を出したのは黒髪の男性。まるでカラスみたいに青みがかった真っ黒な前髪は目元を隠し、どんな表情をしているのかは分からない。
そんな彼は僕に気がついた。


「誰?」


思わず身体が反応して、咄嗟に置かれたナイフを手に取ってしまった。
彼は僕の目の前にしゃがむとそのナイフを見るでもなく、首を傾げた。サラリと額を滑る黒髪のほんの少しの隙間から、瞳が見えそうで見えなくて。


「これはあんたには似合わないよ」


ナイフが握られた手の甲にそっと指先が落ち、淡々とかけられる言葉と共にナイフが掌から抜けていく。
それから彼は糊のきいたスーツの胸ポケットから静かに櫛を取り出すと軽く振り、まるで大事なものを扱うかのように僕の髪をとかした。
一本一本がほつれながら、もとの場所へと戻っていく。


「人形みたい」


垂れた前髪の隙間から少しだけ瞳が見えた。淀んで深い海の中のような真っ青な闇、どこまでも引きずり込まれそうなー


「欲しくなるな」


王者の目。


「夕日くん!!」


彼の言葉を遮るように入り口のほうで声がして我に返った。それからバタバタと足音が向かってきて、姿を見せたのは折井さんだった。

ラクシュミー。

その言葉が勝手に脳をよぎり、身体に力が入ってしまう。
違う。折井さんは違う。そんなはずない。

櫛を胸ポケットにしまった彼は立ち上がって僕のそばを離れ、ひょろりとした男性の元へ寄って行った。
折井さんはすぐさま僕の方へ駆け寄る。眉を八の字にして、今にも泣き出してしまいそうな顔。
ああ、いつも通りの折井さんだ。


「血が…怪我は!?」

「怪我してるのはこいつだよ」


黒髪の彼が親指で、バルコニーに倒れたままのスグルくんを指差した。それを見て折井さんは顔を青ざめさせる。
それと同時に遅れてやってきた虎尾さんが顔を出し、倒れているスグルくんを遠目で見るなり「あーあー」とため息をついた。

ひょろりと背の高い銀髪の男性はなにも言葉を発しないけれど、虎尾さんを見るなり頭を深々と下げた。それを見て虎尾さんは軽く手を上げ、そのままバルコニーに行き、軽くスグルくんの身体をゆすった。
びくともしない。
窓ガラスは首の皮一枚とでも言うように瀬戸際でその穴の形を保っているように見えた。
少しでも衝撃を与えれば、全てが崩れ落ちてしまいそうだ。


「脳震盪だな。今日も八雲のとこなんて御免だぞ」

「こっちもその八雲サンって人にお世話にならなきゃいけないのかな」


こっちも、と言った黒髪の彼の顎は、先ほどまでスグルくんがなぶっていた男たち二人を指していた。スグルくん同様、その二人も微動だにしない。
同時に先程までの惨状を思い出し、思わず身体が固まった。


「どういうことか説明してくれよ。百蓮」


ひゃくれん。
そう呼ばれた彼は「俺が?」ときょとんとして、それからぼんやり天井を仰いで少し考えていた。


「ちょっと勉強してきてって言っただけなんだけど」

「勉強って殺しのか?」

「別にそういう意味で言ったんじゃないよ」


笑いもせず、困惑の色も見せず、ただ理路整然と真実らしいことを述べる彼はひどく淡白で、そのどこか掴めない様子に虎尾さんは少しため息を吐いていた。


「ったくラチがあかねぇなー…とりあえず内輪揉めは絶対やだからな!」

「うん、こっちが悪かったってことでいいよ。その子に免じて」


今度は僕が顎で刺され、肩がビクリと飛び跳ねる。その場にいる全員、意識のある全員の目が僕に向けられた。
僕に免じて?どうして。
相変わらず濃い黒で覆われた目元からは何も読み取れなくて、ますます混乱してしまう。


「その子、誰かに電話してたみたいだけど」

「え、でも僕のところには…、」


言いかけて言葉が止まる。
折井さんの視線が電話と僕の顔、それから隅に転がったノートを追っていく。僕はその線を千切るように咄嗟に、千早くんの番号が開かれたままのノートをひったくる。

あまりにも不自然な反応だった。

それほど気づかれたくないという気持ちの方が大きかった。折井さんではなく、千早くんを選んだことを。
恐らく折井さんは何かに気づいたのだと思う。少しのあいだ曖昧さを含んだ沈黙が流れて、そのあとに折井さんの指が頬に落ちた。


「帰ろう」


僕はノートを胸に抱えて、その言葉に弱々しく頷いた。
折井さんの背中がいつもより小さく見えた。
























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