※暴力表現注意







車は閑静な住宅街を走っていた。
平和を貼り付けられたようなその住宅街を、場違いに真っ黒なバンが走って切り込みを入れる。フルスモークのドアガラスの内側からはほんの少し、そんな街の明るい朝が垣間見えた。

万里さんの運転はやっぱり荒々しくて、八雲さんが作ってくれたお弁当をつつこうにもようやっと、という具合だった。
そのことを配慮してか、ごはんは片手で食べられるようにとおにぎりがラップに包まれていた。綺麗な三角。ちょうどいい水気の切り干し大根はご飯によく合ったし、大葉が中に散りばめられた卵焼きはほんのりスッとして目が覚めた。
あのキッチンに立って料理をする彼の姿は、他の誰よりも容易に想像できた。


「そーだ、これユウヒに」


虎尾さんがそう言って折井さんに何かを手渡す。お弁当箱を器用に持ちながら唐揚げを口に頬張って、それを一目見た折井さんは眉を潜ませた。
本当はすぐに何かを言おうとしていたけれど、もぐもぐと口の中のものを急いで噛んでいる。


「こんなの、初仕事前に意地悪ですか」


チラリと見れば、折井さんの手にあるのは黒い携帯電話。少し塗装の剥げたそれは使い込まれていて、きっと誰かのお下がりなのだろう。


「仕事しててなんかあったら大変だろ」

「まぁそうですけど…」


しぶしぶ携帯電話を受け取って、折井さんは僕の方を見る。
あぁ、またそんな顔。
僕のことは心配いらないのに。意地悪だとは思わないし、例えそれで傷ついたとしても折井さんのせいじゃない。

どこか冷静にそんなことを考えられるのは、たぶん僕以上に折井さんが心配をしているから。
甘辛いタレのかかったミートボールを口に運んで、折井さんとお弁当を交互に見る。


「夕日くん、ノートとペン貸してくれる?」


ふと言われた言葉に、慌てて言われた通り二つを差し出した。引き換えに渡された携帯電話は思ったより軽くて、パカパカと閉じたり開いたりしてみた。
その間に、折井さんはノートをめくってすぐのページにさらさらと何かを書いていく。
一呼吸置いて渡されたそれを見ると、綺麗な文字で書かれた電話番号。
「そんなん、わかんないじゃないすか」そう言った千早くんの顔がふと浮かぶ。


「すぐに出るから、何かあったらすぐ電話してね」


後ろ髪を引かれるようなその言葉に、僕は静かに頷いた。いつでも折井さんと繋がれる。そう思うと少しだけ安心してしまう。
くしゃくしゃになったページを少し伸ばしてから静かにノートを閉じ、携帯をポケットにしまった。

初仕事。どんなものなのだろう。


「800A…LAD…GR1……1…」


スグルくんのよく分からない数式の暗唱を耳にしながら、僕は外の流れゆく景色を見つめた。









しばらくすると車は高級住宅街へと入っていき、とあるマンションの前でゆっくりと停止した。
整然と立ち並ぶ見上げるほどの住居は、すぐ近くにある小さな公園から聞こえる母親と子供たちの笑い声とお似合いだった。
ここには幸せしかない。そう思わせるから。

シートベルトを外すのはスグルくんと僕の二人だけだ。
虎尾さんはこちらを振り返りニカッと笑うと身を乗り出して、縦長の鍵のようなものと小さい和紙のメモを手渡した。
メモにはボールペンで数桁の数字だけが記されている。


「501号室のキーだ。その部屋の掃除。内容は血の拭き取りだけ。オートロックの番号はここに書いてあるから部屋に入ったらトイレに流すように。時間は1時間。あそこに置いてあるヤツが道具だから持ってけ」


淡々と伝えられた仕事の内容を聞き逃しそうになってメモをする。

血を、ふきとる。

悪い気持ちに浸りそうになってハッと虎尾さんの指差す方を見れば、入り口のすぐそば、銀色に光るゴミステーションの隣にポツンと置いてある収納ボックスが目に入った。
自然に置いてあるそれに目を丸くしていると、「りょーかい!」とスグルくんの元気な返事。

車の外に出るとアスファルトは昨日の雨でしっとりと湿っていて、立ちのぼる朝の冷えた空気に身震いする。
改めて見るとずいぶん背の高いマンションで、外壁は新しく、陽の光を反射するほどに茶色く光っていた。
スグルくんは大きな身体をウーンと伸ばして、それからバタバタと足を動かしている。

もどかしい速度でドアガラスが下がって、ぎこちない笑みを貼り付けた折井さんの顔と、その後ろで対照的に笑って手を振る虎尾さんの顔。


「行ってらっしゃい」


その言葉を胸に、僕は深く頷いた。







スグルくんは慣れた手つきでボックスのショルダーテープを肩に引っ掛け、容易にオートロックの入り口を開けた。
エントランスは広々としていて、ホテルのロビーのようにソファやテーブルが備え付けられていた。僕たちは立ち止まることなく、カツカツと音のする床石の上を進んだ。

エレベーターに乗り込み、柔らかい重力の傾きに息をひとつ吐いた。指紋ひとつない鏡張りのエレベーター内の床は、品の良いカーペットが敷き詰められていた。ぼんやり浮かんでいるのはこのマンションを経営する会社のロゴか。
スグルくんはニコニコしながら点滅する階ボタンを見ている。階のボタンは14階まであって、小さく流れるオルゴール音だけが響いていた。

血のふきとり、なんて。
僕は頷くしかなかったけれど、足は微かに震えていた。血があるということは、他のものはどうなのか。


「早く終わらせて、寝たいなぁ」


スグルくんの間延びした声にハッとして振り返る。緊張感のなさは相変わらずだったけれど、そんな彼の様子に引っ張られるようにして僕は頷いた。

早く帰って、また折井さんと眠るんだ。

長細いキーを握りしめると、エレベーターはゆっくりと停止してその重たそうな扉を開いた。


501号室に入ると僕は拍子抜けした。
想像していた惨状などは皆無で、ロビー同様広々としたそこは異常なほど片付いていたからだ。
壁に備え付けられたレールからは大きな絵画がいくつも飾ってあって、天然石の床から高く伸びた天井はエレベーターの中のように鏡張りだった。

スグルくんがスキップしながらリビングへ向かう。僕はそれを追って長い廊下を小走りに進んだ。

白を基調にした室内は見渡すほどに広く、高い天井には装飾をぶら下げたシャンデリア。ガラスタイルの壁は陽の光を跳ね返し、それをまた照り返すように長く伸びたソファが整然と置かれていた。区切りのない大きな窓ガラスからは外の景色がありありとみえて、まるで空の上にいるみたいだった。

ただひとつ異様なのは、その整った部屋の中央に置かれた木製のチェアと、その周りにぐるりと円を描くように赤黒く広がった血液だけ。

僕は一歩、後ろへ後ずさった。


「これはアサギさんかなぁ」


しゃがんでボックスの中から液体の入った大きなボトルを取り出しながら、スグルくんは軽快に言う。
アサギさん。
聞きなれない名前と、どこか不気味な血の広がり、微かに漂う鉄の臭いに僕はただ突っ立っているしかなかった。


「ラクシュミーって知ってる?」


スグルくんの問いかけに、僕は首を横に振る。それを見ることもなく、タオルにボトルの液体をたっぷり含ませて彼は続ける。


「泥より出でて泥に染まらず」


彼がただ単に訳のわからないことを言っているだけなのか、僕が混乱しているせいなのか中身が全然頭の中に入ってこなかった。
ぽつりと頭に浮かんだのは、濁った水面に顔を浮かばせる真っ白い花。

汚い泥を掻き分け、最後にこれでもかと花弁を拡げて咲き誇る花だ。


「殺し屋って単独でする人、あんまりいない。ラクシュミーの人たちは変な人たちばっかりだけどね!」


変な人なんて、スグルくんが言うとまるで説得力がない。
想像するだけだけど、ラクシュミーというのは多分こういう仕事をする人たちの名称で、アサギさんという人物はそこに属しているんだろう。
入り口に置かれていたこのボックスも、その人が置いていったのかもしれない。

スグルくんは液体の染み込んだタオルをフローリングに置いて、ボックスの中からスプレーを取り出す。
そしてシャカシャカと激しくそれを振ると、広がる赤へと噴射した。血溜まりの表面を覆う固まった血液がスプレーから逃れるようにシワになっていく。

慣れた手つき。

僕は茫然と立ち尽くすだけで、スグルくんだけがまるでこの空間にいるみたいだった。
僕が何かできることは、そうノートに書こうとポケットに手を入れたとき、携帯電話が床に転がり落ちた。

すぐに出るから、と微笑む折井さんの顔が浮かんで、張り詰めていた頭の糸が一瞬で緩む。
そうだ、想像していたものなんてなかった。ただの血溜まりだけだ。何も動揺することなんてない。
スグルくんが全部片付けて、早くこの場所から抜け出せばまた戻れるんだ。そしたらまた、


「折井さんだってラクシュミーの一人だよ」


スグルくんが呟いたその言葉が、緩んだ脳を乱暴に揺らした。
柔らかい笑顔、声、指先の感覚、全てをありありと思い返せるのに、目の前の白く固まりかけた血溜まりがそれにヒビを入れていく。
そして頭に浮かぶのは、あの細い指先に鮮血が滴って落ちる様子。

スグルくんがどんな顔をしているのか分からなくて、動き続ける手と背中を瞬きもせず見ていた。


『トイレに、かみをすててくる』

「わかった!はぐれないでね!」


震えた手で書いたそれを彼に見せるとそう無邪気な笑みが返ってきて、僕は小さな和紙を握りしめたままリビングを出た。
足元がふらつく。
折井さんが、人を殺す?
そんなわけがない。思考も心も身体でさえも、何もかもが付いてきてくれなかった。

トイレと呼ぶには広すぎるそこへ足を引きずるようにして入り、汚れひとつない洋式トイレの淵に手をついた。
和紙を落とすとじわりと溶けて、まるで便器の中に文字が浮かんでいるように見えた。
それを掻き消すように急いでレバーを引く。静かだったそこへけたたましい水音が弾いて、途端に記憶が頭の中を犯す。

ヤニで黄ばんだ砂壁と埃だらけの畳、ヒビの入った三面鏡、僕を映したその後ろに横たわった、人ではなくなったモノ。

気がついたら便器に向かって嘔吐していた。
生理的に出てくる涙が視界を奪って、嗚咽とともに手足が震える。

この場から今すぐに逃げたいー

その思いでトイレを引きずり出て、壁に寄り掛かるようにして玄関へ向かう。飾られた絵画の額縁を何度も肩にぶつけ、霞む視界を頼りに進んでいく。
大丈夫。スグルくんが全部片付けてくれる。
車には折井さんがいる。そんなことはないと、笑って撫でてくれる。

ドアノブに手を伸ばした瞬間、触れてもいないそれが動いて扉が開いた。
その先を見れば、全身黒づくめの作業着を着て口元にはバンダナを巻いた男が二人立っていた。


「先こしやがったなクソガキ」


舌打ちとともに吐き捨てられた言葉に茫然としていると、彼らが手にしているモノが目に入った。
ナイフだ。

全身の血が引いていく。
それが振りかざされた瞬間、僕は弾かれたように踵を返し、スグルくんのいるリビングへと走っていた。
すぐ背後から男たちが追ってくる音が聞こえる。

転がるようにしてリビングへ戻ると、全てを終わらせたスグルくんがちょうどボックスを閉じるところだった。振り返った彼は「終わったよぉ」と満面の笑みで言う。

僕の血相を変えた顔色を見ても、ナイフを持って追いかけてきた人たちを見ても、彼の顔色は何ひとつ変わらないのだ。

それどころか作業を止めることなく帰る支度をしている。

男たちはそんな彼の姿にに気付くと立ち止まり、「ガキ二人かよ」と鼻で嗤う。まるでこの人たちの存在など見えないかのようにスグルくんはボックスを背負い、腕時計を見やると「早かったぁ」とまた笑みを浮かべた。


「どけよド素人。死体どこやった?」


声をかけられて初めてスグルくんは彼らの方を見る。ナイフを向けられているのに、その表情はまだ笑ったままだ。
だけどあの瞳は見たことがある。
コンクリートに囲まれたあの家で、縁側の下に…そこから先がどうしても思い出せない。

ゆっくりとスグルくんの唇が動く。


「8015…QUOT…D…S…」

「あぁ!?」

「まぁ待てよ、こういうキチガイは掃除しかしねぇんだよ。殺したのは別のやつだろ、なぁ?」


男の一人がスグルくんの方へにじり寄る。
嫌な、予感がした。
彼は唇だけを動かして、まだ数唱している。恐怖でも、悲観でも、どんな感情の裏付けもない表情。


「8016…RE…MDR……DS1…」

「おい聞いてんのかよ!?」

「END」


男の手が乱暴に肩を掴んだ瞬間、スグルくんが突然男の手からナイフを奪った。一瞬の出来事で、僕もそいつらも呆気にとられる隙もなかった。

スグルくんは奪い取ったナイフの柄の部分をくるりと持ち変えると、巻かれたバンダナを剥ぎ取って刃を男の頬へ貫かせた。
バチンと大きな音がして、唸る男の声。
男は崩れ落ちるように両頬をおさえ屈み込むが、その腹をスグルくんの脚が蹴り上げた。備え付けられた本棚へ男が放り出され、それからぴくりとも動かない。

頭がついていかなかった。

彼を見れば目は血走って、口元はにわかに上がっている。


『スグルくんやめて』


必死に書いたノートを見せようとした瞬間、もう一人の男の蹴りが僕の横腹に入って吹っ飛んだ。
思わずむせて、鈍い痛みに手が震える。
ノートを、そう思い伸ばした手は男に踏みつけられて、僕は恐るおそる上を見るとそいつはニヤリと笑った。

僕だけならまだいい、でも。

そう思った瞬間横からスグルくんが男に飛び蹴りをして、目の前に白く埃が散った。


「おめーの相手はこいつじゃねぇんだよバァカ」


聞き覚えのあるはずの声なのに、知らない人の声のようだった。
恐るおそる見上げた先の横顔は確かにスグルくんなのに、先ほどまでの目つきとはまるで違う。
嘲りと冷ややかさを頬に浮かべて、彼は僕を見やる。

この人は僕の知っているスグルくんではない。


「ユウヒくん大丈夫!?」


パッとかがんだ彼が心配そうに言う。首から頬にかけて返り血が散り、その瞳は震えている。
さっきまでの、掃除をしていたときまでのスグルくんだ。
かと思えばまた顔が歪んでいき、男たちをなぶった顔へと変化してその口元が薄笑う。

どうして。


「バカのふりっつーのはラクなんだよ」


彼の一言が頭の中で反芻される。


『装いは知恵である』


マリーおばさんの文字を思い出す。

違った。違ったんだ。僕の考えていた彼の装いは、本当のモノには到底及ばないものだったんだ。

スグルくんの後ろからさっきまで床に寝そべっていた男が襲いかかってくる。
危ない、そう思った時すでに彼は動いていて、男の頭を横から一蹴した。また白い埃とともに男が倒れ、それに馬乗りになるとスグルくんは床に置いてあったガラス瓶を男の頭でかち割った。

それから天井を仰いで瞳だけ動かす。


「死ぬのは怖いかって、聞いたよな」


ガラス瓶を落とし、彼の血まみれの指は床を這ってガラスの破片を集めていく。


「俺はまだ不思議でたまんねー」


診療所の花壇を思い出す。
小さな虫を手に遊ばせて僕に問うたスグルくんの瞳。その先を、その顛末を僕は知っている。

意識の朦朧とした男の口の中へ、破片を一つずつ詰め込んでいく。僕はガタガタと震える足でひとつ、またひとつ座りながら後ずさりをする。彼の瞳は僕を離さない。


「やっぱりお前は夕日になれねぇよ」


そう言うと、男の頬めがけて勢いよく拳を打つ。鮮血が僕の足元、つま先の方まで飛び散って床を汚した。
男が痛みで意識を取り戻したのか暴れ出す。スグルくんはそれを力づくで押さえつけると、一心不乱に殴り続けた。


怖い、怖い、怖い!!


誰か、とあたりを見回して、ふと携帯電話が目に入り夢中で取り上げる。

早く連絡をー

ノートをひったくるように取り上げ、震える手でページをめくる。
背後では男の唸り声と、微かに聞こえるスグルくんの笑い声。
恐怖で指が震えてうまく動かない。それでも、ノートに書いてもらったその番号を必死でプッシュする。
やっとのことで押し終え、受話器を耳に押しあてて気付く。
僕には、僕は声が出ない。

ワンコール、ツーコール、無機質な呼び出し音が鳴り響いた後、電話は繋がった。


僕がなにか言わなければ。


声を出さないと、声を出さないといけないのに。
必死に喉を抓るけれど、ひゅうひゅうという声しか出ない。無機質な沈黙、響き渡る唸り声と、何度もなんども頬を打つ乱暴な音。
喉を強く抓る手の甲へ涙が落ちる。

お願い、出て、出て、出て!!




「夕日?」




千早くんの声が、ようやく受話器の向こうにぽつりと浮かんだ。















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