日差しがまぶた越しに瞳へ入り込んで、朝を知らせていた。
背中に回された腕は微かに重く、静かな寝息が僕の額にかかる髪を揺らしている。
あったかい。
そっと目を開けてみると、どこかあどけなさの残る人形のように端正な折井さんの寝顔があった。
細く通った鼻筋の上には眼鏡の跡がうっすらと浮かんでいて、黒い髪は白い肌へと落ちて影を落としている。

あまりにも綺麗に眠る。

息をしているかどうか不安になって、そっと顔を近づけてみる。
モゾ、と動くと折井さんも少し動いたのでびっくりした。そのままブラウンケットごと体を引き寄せられ、すっぽり腕の中にしまわれる。顔の置き場が分からず、僕は横を向いて息をした。

昨日の朝は折井さんの方が早く起きたけど、今日は僕の方が早い。それに、折井さんの眼鏡を外した顔も見られた。
それがちょっぴり誇らしかった。

相変わらず寝息はほとんど聞こえない。代わりに、耳のすぐそばで心臓の音がしている。それと交互に鳴っているのは僕の心臓の音か。
溶けて一緒になりそうで、ずっとこのままならばいいのにとふと思う。


「…ん」


折井さんの瞼が静かに動いて、それからパチパチと開いたり閉じたりする。
起きたのかな。
ピントの合わない瞳で僕をぼんやり見つめたあと、ふわりと頬が緩んだ。


「おはよう」


眠気の残るような掠れた声が新鮮で、頷きながらきゅっと口を結ぶ。折井さんは手を伸ばすと、起き抜けの冷えた指で僕の額にかかる髪の毛をすくって耳にかける。視界がさっきより鮮明に開けて、彼のキメの細かい肌やそれが緩む感じがよく見える。


「よく眠れた?」


昨日の夜、折井さんは手に持っていた一粒の薬をまた半分に切ろうかと言ってくれたけれど、僕は断った。
また途中でぬくもりがなくなってしまうのは怖かったし、何より折井さんの何かを奪ってしまうのは嫌だったから。
意識が眠りへと沈むまでずっと背中をさすられていた感覚を思い出しながら、僕は一つ頷く。


「夢は、みなかった?」


夢。
思い出そうとするけれど、みた気もするしみなかった気もする。
首を横に振ると、少し陰っていた折井さんの表情がまた柔らかくなった。


「僕もみなかった」


それが良いことなのか悪いことなのかは分からなかったけれど、そう言葉にした折井さんはどこか満足したような安心したような、そんな様子だったので僕はまた一つ頷いた。


しばらくそうして二人まどろんでいると一階から診療所の扉を開ける音がして、それからドタドタと廊下を突き進む足音。
スグルくんか、そう思ったけれど、荒々しさの中に苛立ちを含んだそれは多分違う人物。
その足音はキッチンに行ったあと踵を返して二階へと上がってきた。


「いつまで寝てんだアホどもが!!」


突然の罵声に驚いて思わず折井さんの胸に頭をごつんとぶつけてしまった。
あぁ、とため息まじりに折井さんが伸びをする。
扉の方を見ると、今日もとびきり派手なジャンパーを羽織って赤い髪を揺らし仁王立をするばんりさんの姿。


「びっくりした。沖さんも一緒?」

「んなわけあるかショタコンが!連絡しても繋がんねぇから何事だと思ったら泊まりかよ!」

「ショッ…泊まるって言ったのは虎尾さんなんだから仕方ないでしょ!」


チッと大きな舌打ちをして、手に持っていたクシャクシャの紙袋をベッドへ投げる。
出てきたのはクリーニングの薄い袋に入れられたままの作業着。眼鏡をかけた折井さんがその袋を千切り、広げて見てまた小さくため息。


「初仕事だってなガキ。まぁ汚さねぇようにな」

「またきみは…脅かさないでよ」


ばんりさんは鼻で笑うと「早く着替えろ」とぶっきらぼうに言った。
初仕事。どんなことをするんだろう。
スーツではないところを見ると、虎尾さんの言う通り本当に掃除みたいなものなんだろうけれど、想像もつかない。


「お三人かた」


扉に立つばんりさんの後ろから、八雲さんがひょっこり顔を出す。
真っ白いシャツにベージュのカーディガンを羽織って、今日も変わらずふんわりと微笑んでいる。ばんりさんは驚いてビクッとしていたけど、いつもみたいに噛み付くような素振りはない。なんだかそれが不思議だった。


「時間ないみたいだからお弁当作ったんだけど」

「すみませんそんな…」

「大丈夫、腹が減っては何とやらと言うし」


そう言って差し出されたのは、風呂敷で包まれた大きな箱。重箱、っていうのだろうか。
ベッドサイドに置かれたテーブルの上にのせられたそれをまじまじと見る。美味しそうな香りがする。


『ありがとうございます』

「どういたしまして」

「あぁ?!なんだそれ!?」


大きな声にまたびっくりすると、ばんりさんは僕の持つノートをジロジロと見ていた。
あぁそうか、知らないんだった。
僕は焦ってページをめくると、なるべく早く手を動かす。ばんりさんは多分、短気だ。


『名前をおしえてください』

「あ?!文字かけねぇよ俺」

「あれ、そうだっけ?」


八雲さんが聞くと、ばんりさんは苦い顔をする。それからしばらく貧乏ゆすりをすると大きく舌打ち。
ジャンパーのポケットから手を出してバッと荒々しくノートとペンを掴み取り、音がしそうなほどに書き込んでいく。
八雲さんはどこか楽しそうに、折井さんは心配そうにそれを見つめている。
「オラァ!!」と差し出されたノートには、でかでかと斜めに殴り書かれた文字。


『万里隼人』


万里って、苗字だったんだ。それにしても文字というのは不思議なもので、その人物をまるで表しているようだ。荒々しい。
悠長に眺めていると、「満足かよ!?」とまた大声が飛んできたので、急いでお礼を書いた。


「早く着替えろっての!」

「とりあえずは着替えて、いただいたお弁当は車の中で食べよう。スグルくんと虎尾さんは…」

「彼ら、下でご飯食べてるよ。着替えは終わってるみたいだね」


それを聞くと折井さんはベッドから抜け出して、丁寧に折りたたんである衣類をいそいそと手に取った。
お前も着替えるんだよと言わんばかりの万里さんの目付きに急かされるように、僕も広げられた作業着を手に取る。

麻の生地は思ったよりも手触りがよく、胸には黒い糸で刺繍が入っている。
帳。
この漢字には見覚えがある。同時に浮かぶのはあのニヒルな笑み。
思い返すのもためらわれたので、僕は急いでスグルくんのお下がりだというパーカーを脱ぐ。


「車、下につけてっからな!早くしろよ!」

「わかったわかった。いそぎますよ」


万里さんはジャンパーの裾をひるがえし、乱暴な足取りで階段を降りていった。
インナーを着ていざ作業着を着てみると上下が繋がっていて、つなぎというかそんな具合で、上までしっかりジッパーを閉めても手足の裾が余るくらいだった。
折井さんは自分のネクタイを締め終わるとそれを見て「ちょっとサイズが大きかったのかなぁ」と僕の袖をまくった。


「どんな感じ?」


ベットに座ってその様子を見ていた八雲さんが横から問う。窓からつたう陽の光がその均等に並べられた顔の要所へ、バランスよく影を落としていた。
感じ。服の具合のことか、それとも違うことか、僕は答えに迷ってノートにペンを走らせる。


『めいわくをかけないようにがんばります』


それを見ると折井さんがまた心配そうに眉を八の字にする。気の利いたことを言ったつもりが、まさか心配させてしまうとは。
僕は慌てて何か書こうとするけれど、八雲さんがふふ、と笑うのでそれもやめた。


「頑張るのは良いけど、頑張りすぎないように」


ね。と、彼が微笑む。


「またいつでもおいで」


ふわりと頬を指先がなぞり、そのまま頭をぽんぽんと撫でられた。

ここは柔らかくて、どこまでもあたたかい場所だ。マルも、猫も、マリーおばさんや千早くんも、気になることはあったけれどかけがえのない時間をもらえた。

もらったノートとペンを胸に抱きしめ、一度だけ強く頷いた。









診療所の玄関を出るとすぐ近くに見覚えのある黒いバンが止まっていて、運転手であろう万里さんを探すとちょうど花壇の側で猫と並んでしゃがんでいた。
虎尾さんはまたアルミのチェアに座って一服をしていて、そこへ折井さんが何やら話しかけにいってしまった。
遠くからマルの興奮した鼻息が聞こえる。おそらくスグルくんは奥の花壇にいるんだろう。

猫を挟んで隣に座ると、赤い髪の彼はいかにも怪訝そうな顔をしてそっぽを向いた。


『花がすきなんですか』

「嫌い」


即答だ。
プチリプチリと花弁を千切る姿は昨日のスグルくんの姿と重なったけれど、その仕草や様子の全ては彼のそれとはどこか違った。
花との距離感が、違和感を覚えさせるから。
昨日よりよく見える花壇は目を凝らさずとも色とりどりで、赤、黄色、紫色、青…目いっぱい開いた花びらがその名の通り景色に彩りを添えていた。

猫は花よりその周りを羽ばたいている蝶に夢中で、小さな手を伸ばしたり折り曲げたりと忙しそうだった。


『そんなにちぎったら、花がなくなってしまいます』

「なくなんねぇよばーか」


千切るを通り越してむしる、に近くなった万里さんの手を制止するように紡いだ文字は、いとも簡単に返されてしまう。
万里さんは千切った花弁をハラハラと土へ落とす。


「咲いてくるんだよ、どんだけ千切ったって」


横顔を盗み見る。嫌悪を帯びた表情だ。
本当に咲くんだろうか。
僕はノートを膝の上に置いて花壇をまた見る。日差しが茎まで流れ落ちて、散った花弁がひとつ絡まっていた。


「特に百合はな」


聞こえるか聞こえないか、その程度の声色で彼は呟いた。
百合。
どういうことですか、と聞く前に遠くから何かが走ってくる音。デジャビュだ。
目を向けるとつなぎの作業服を半分脱いで腰にくくりつけ、その端をマルに噛ませながら走ってくるスグルくんの姿。上半身の灰色の半袖ティーシャツには早くも汗が滲んでいて、どれだけ遊び狂ったのか一目瞭然だった。

それを見て万里さんはすぐに立ち上がるとそそくさとバンの方へ向かう。
まさか僕に任せるつもりなのか。


「ユウヒくーん!!おはよう!!」


案の定マルは僕の姿に気がついて元気よくタックルをお見舞いしてくれた。
やはり相当遊んでいたのか、昨日よりずっと土が飛び散る。


「よーし!出発するぞお前ら!」

「わっ、スグルくん作業服そんな汚れて…」


虎尾さんと折井さんが話し終えたのか近づいてきて、それぞれ車へと向かう。
僕はマルの頭を控えめに撫でると、またくるよ、という気持ちも込めて顔をきゅっと包み込んだ。
スグルくんは最後に熱い抱擁をして、それから車へと乗り込んだ。

運転席には万里さん、助手席には虎尾さん、後ろの席には僕とスグルくん、そして折井さんが乗っている。
ミラー越しに不機嫌そうな万里さんの顔。

折井さんが車のドアウィンドウを下げると、猫を抱いた八雲さんが手を振っていた。


「行ってらっしゃい」


その声はどこまでも胸の奥に染み込んで、これからの初仕事に向かうモヤついた気持ちを少し鎮めてくれるようだった。


「行ってきまーす!!」


スグルくんの威勢の良い声とともに、バンは診療所の門をくぐって滑るように出発した。
























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