実家の部屋の片隅にある、木材でできた古い勉強机。湿気を含んですっかりボコボコになった木目の表面と、その木材のどこか懐かしい香りが鼻をくすぐった。

たしか一番上の引き出しの中に、幼い頃夜な夜なこっそり描いていた漫画が入っているはずだ。その頃流行っていたバトルもののヒーローを真似た、少年漫画特有の荒削りな絵柄だったと思う。
肝心の話の内容なんてまるっきり覚えていない。あの頃は少年漫画に触発されて、現実離れした話ばかり描いていた。

当時の自分を思い出すかのようにゆっくり引き出しを開けると、そこには三十センチばかりのサナギが横たえていた。

またか。僕はぼんやり思う。

漫画のことなどそっちのけで、僕は目の前に横たわるそのサナギをどう殺そうか考える。

半透明なそのサナギの中には、やはり半透明の幼虫がこれでもかというほど身を寄せ合ってひしめき合っている。
この薄い膜をやぶったなら、幼虫はたちまち成長してそこらじゅうを飛び回り、挙句に僕を襲うだろう。いや、幼虫のまま体を這い回るかもしれない。
わからない、わからないけれど、早めに殺さなければいけないことは確かなのだ。

目の前の引き出しを限界まで引っ張り出す。
大きなサナギは膜だけの存在のはずなのに、中にひしめく幼虫たちの鼓動によってまるで息をしているかのように不規則に動くのだ。
そんな姿を見ても、不思議と気持ち悪さはなかった。
唯一あるのは燃え上がる殺意だけで、目の前のこれをどう殺せばいいか、机上のハサミに手を伸ばす。


「息子がね」


頭の中に響き渡る懐かしい声にハッとして手を止めた。嫌でも聞き覚えのある、いやにわざとらしく艶めいた声。


「空を飛びたいって言って、学校の屋上から飛び降りたのよ」


ふふ、と、その声は話の内容にまるで似合わないほど無垢に笑う。そして、「ね、どこに落ちたと思う?」と問いかける。愛おしい人に話すような、そんな声色で。


「学校で一番綺麗だった花壇に落ちたのよ。ちょうど春だったから、チューリップかなんかの横に」


一瞬にしてその光景が頭の中に入り込んでくる。春の陽気が目一杯差し込む赤いレンガのその花壇に、真新しい学生服に身を包んだ少年が倒れているのだ。

「どう思う?」と、頭の中の声はそれを卑下するわけでもなく、純粋に楽しむかのようにまだ笑う。


「蝶にでもなりたかったのかしら」


蝶に。

目線だけ動かして、サナギを見つめる。
このサナギもいつかは蝶になって大空へと舞い上がるのだ。きっと大きな蝶だ。どんな色をして、どんな模様なのか、ひとつもわからない。

ただわかるのは、これでもかというほどに大きな羽を広げて青い空を飛ぶ姿は、その少年を魅了したように誰かの目や心を癒すかもしれないということだけだ。
もしかすると僕が思うよりはるかにその姿は神秘的で、美しくて、恐ろしく魅力的なのかもしれない。


殺していいのかー


心の中で反芻する。
じっとサナギを見つめていると、後ろで扉が開く音がして慌てて振り返る。扉のそばには知っている懐かしい姿があった。
懐かしい?いや、違う。視覚から脳へ、その人物を認識してから僕はひどく恐れおののいた。
そればかりか、さっきまで殺そうとしていたサナギを必死で隠そうとしている自分がいるのだ。
そんな滑稽な僕の姿は、表情ひとつ崩さず見つめる。


「なんて醜いの」


覚えのある掠れたその声が、僕の心臓の奥へ響いて沈んだ。






目が覚めると、僕は小部屋のカウチに座っていた。少しの時間、いつの間にか夢に落ちていたようだった。
小部屋の隣は診療所のお風呂になっていて、微かに聞こえるシャワーの音が、雨音と混ざって静かに向こうの廊下を濡らしている。

結局スグルくんと入ることはせず、彼、夕日くんは一人で湯船に浸かることになった。
最後に見た彼の表情がどこか落ち込んでいたから、心配でこっそり身を潜めていたつもりが寝てしまうなんて。


「折井くん」


ぼんやりしてる背中にかけられた柔らかい声に、内心驚きながらも振り返る。
ドアに寄りかかった八雲さんが、綺麗に畳まれた衣類の一式を持って立っていた。もう片方には、見慣れた小さな紙袋。


「夕日くん、着替え持ってきてないよね。僕のお下がりじゃ大きいから、スグルがこないだ置いていった服でいいかな?」

「あ…すみません、気を遣わせてしまって」


なんてことないよ、と八雲さんはふんわり笑った。僕はぎこちない笑みを返して、コップに注がれた水を一口飲む。
八雲さんは机を挟んだ低いチェアに腰掛けると、静かに紙袋を差し出した。


「つまらないものですが」

「…誤解されますよ、その言い方」

「ふふ。渡すついでに少しつまらない話をしなきゃならないんだ」

「わかってます」


シャツの一つ上のボタンを外して、僕もカウチに深く座る。目の前に座る八雲さんが肘をついて微笑んだ。
あぁ、久しぶりだ。
コップに張った水が、氷と共に割れて揺れた。


「夢は続いてる?」

「…続くというか、断片的に。でも…」


コップの表面を流れる粒が、指先を濡らす。
でも。
その先の言葉を、急かすでもなく、待ち望むわけでもなく、八雲さんは何も言わない。
噛み締めるような一瞬の時間。


「あの子…夕日くんと眠ったときだけ、夢をみなかったんです。途中で目は覚めましたけど…みなかった」


語尾が震える。決して嘘ではない。
心の奥をさらけ出すのは怖い。深い夜よりも、繰り返しみる意味のわからない夢よりも。


「それは不思議。どうしてだろうね」

「…分からないです。彼の涙を見たらなんだか気持ちが落ち着いて」


自分でもおかしくて少し笑ってしまう。
八雲さんも微笑んで、頬杖をついて頷いた。


「あの子は不思議な子だと思う」


いつも通りの微笑みなのに、見たことのない表情だった。


「僕もあの子を見たとき懐かしいことを思い出してね。おかしいけれど、でも不思議といつもの気持ちになって振り回されたりはしなかったよ」

「それは、」


どんなことを思い出したんですか、そう声にしそうになって開きかけた口を閉じた。
この人も同じだ。
同じように、心は深く閉ざして硬い鍵が掛けられている。カウチに敷かれた肌触りの良いブラウンケットの裾を握る。

八雲さんの手が伸びて、コップのまわりに落ちている水滴を指先でつつく。


「あの子はきっと、色々な人の…点になった記憶を線にしていくんじゃないかな」


そう言いながら、コップから垂れた滴と滴を指で繋いでいく。


「生き直すという意味を含めて」


ね。そう言って微笑む八雲さんの表情はいつも通りの微笑みだった。


「折井くんと夕日くんの関係も、線になっていくといいね」


線に。

なぞられて繋がった水滴を見つめる。
果たしてそんな関係になれるのだろうか。彼の首を一周するアザを思い出して俯いた。
しばらくの沈黙を置いて、さて、と八雲さんが立ち上がる。


「薬、変えておこうね。眠る前の不安じゃなくて、ただ単に睡眠リズムを整えるのに効くやつにしよう」


そう言うと八雲さんは紙袋を手に、衣類だけを置いて部屋を去っていった。残るのは微かな彼の香りと、言葉の端々。
点を、線に。

衣類を片手に、僕はお風呂場へ向かった。









「夕日くん」


脱衣所とお風呂場の扉ひとつ隔てて声をかけると、中からチャプンと湯船のお湯が跳ねる音がした。
驚かせてしまったか、そう思いながらもそっと扉の前に膝を立て、コツンコツンとノックする。
数秒の沈黙のあと、カラカラ音を立ててお風呂場の扉が開いた。
しっとりとした白い湯気が踊るように脱衣所へ流れ込むと同時に、負けないくらいの白い肌が垣間見える。


「ごめんね、えっと…心配で。服とかここに置いておくからね?」


床に置かれた服を見たあと、夕日くんは僕のほうを見て瞳を震わせた。
何か言いたげだけど…首をかしげて「うん?」と問いかけると、パッと取り出されたノートとペン。
まさか持ち歩いているとは。
よっぽど気に入ったのだろうか。なんにせよどこか抜けた彼の行動がおかしくて、自然と頬が緩んだ。


「ふやけちゃうよ」


笑って言う僕の忠告にフルフルと首を振り、夕日くんは何かを必死で書いている。
一文字、一文字、丁寧に。
今ならこの待つ時間さえ、僕にとってはかけがえないものに思える。
湯船のふちに身を乗り出して見せてくれたそのノートには、


『今日もいっしょにねていいですか』


丸っこい文字で、一生懸命紡いだ跡。

心が揺れる音がした。

夜はいつだって一人だった。
毎晩天井をあおいで、今日こそは嫌なものをみないようにと祈るように薬を流し込んでいた。
そうしないとどうしても抱えきれないものがあったから。

白い髪をすくい上げて、閉じたまぶたを親指で優しく撫でる。


「うん。一緒に眠ろう」


恐るおそる開いた赤い瞳は、僕の笑みをみて少し輝いた。
点がひとつ、繋がった気がした。





















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