虎尾さんは「もう一服していく」と言っていたので、僕は先に診療所の中へ戻ることにした。
一歩玄関に入ればまだ二階は騒々しく、スグルくんの元気な声が響いていた。


「ユウヒくんには、俺がいるから」


そう言った彼の瞳の色はやはり鈍く、どこか頼りきれない心持ちにさせた。
それにしても僕の足取りは重い。


ふと前を見ると奥の台所に灯りがついていて、そこから水音がした。

エンジ色のカーペットを辿ってなんとなく覗いてみると、台所のペンダントライトに照らされた千早くんの広い背中が見えた。
置かれた食器は次々にシンクへ、テキパキと吸い込まれていく。
入ろうか迷って立ち尽くしていると、彼がこちらを振り向いた。手は止まらず、シンクの中の皿などをせっせとスポンジで擦っている。

僕は恐るおそるだけれども、一歩足を踏み入れた。

皿と皿がぶつかる音と水音、二階から聞こえる笑い声や話し声、キッチンと冷蔵庫の間に挟まれたベージュの板に取り付けられた時計の秒針が進む音。

もしもこの空間だけだったなら、静寂が耳に痛いくらいだろう。
千早くんは僕が隣にいても気にせず、ひたすら洗い物をする。取り繕うような会話のないこの感じが、今の僕には必要な気がした。


気がつくと冷え切った頬に自然と生暖かい涙がこぼれ落ちていた。
何か言われたわけでも、されたわけでもないのに。
喉がチリチリと焼けるように痛くて、しゃくり上げそうになってしまう。

明日が怖いのは知っている。
でもそれはきっとずっとずっと前からのことで、この深い夜というものはなぜかそれを大げさにするのだ。

次々に溢れる涙をぬぐうことなく、千早くんの作業をただただ見ていた。
最後の洗い物だ。大きな鍋。先程までみんなでつついていた鍋。
ふいにツルッと滑らせた手元に僕がびくっとすると、千早くんは「セーフ」と呟いた。


全ての洗い物をカゴの中へ納めると、千早くんは横の冷蔵庫を開けて、そこからショートケーキが二つのった皿を取り出した。
そしてそばにある小瓶からフォークを二つ取り出して、台所の中央にある丸い机に置いた。


「食ったら」


椅子を引きながら手招きする彼の眉間には相変わらず深いしわがよっている。
僕は呆気にとられかけながらも、いそいそと椅子に座った。彼もタオルで手を拭いた後、向かいの椅子に座る。

皿にちょこんと正座しているショートケーキは、決して綺麗と呼べる形ではなかった。塗りたくられたクリームはムラがあるし、適当に置かれたイチゴの重みで大きく傾いていた。
千早くんは長い指でフォークを持つと、一口だいにケーキを切って大きく頬張る。


「別腹ってやつ」


「ん」と、お前も早く食べろと言わんばかりに顎でケーキを指す。促されるようにしてフォークを手に取った。
しっとりした生地にフォークを沈め、大きく傾いたケーキを支えながら一口。

甘くておいしい。

伝えたくてノートとペンを探していると、千早くんが横のスクールカバンを開いた。
中を覗いた訳ではないけれど、教科書やファイルが綺麗に入っていて、学校の生活、みたいなものが垣間見えた気がした。
適当なプリントを裏にして、シャーペンが置かれる。すぐに『おいしい』と書くと、大きな一口でケーキを頬張りながら頷いた。


『ケーキ、作ったの?』

「こないだ、八雲先生と母さんと作った」


母さん。

何気ない一言なのに、千早くんが言葉にすると何故だか重かった。

何か気の利いたことをー


「うまい?」


はっとして前を見る。千早くんが無愛想に、だけど真剣に聞いている。
何も言えずに、ただ僕はコクコクと何度も頷いた。


「よかった」


少し笑ったような気がした。
それだけでびっくりしてしまう。こんな表情も見せるんだ、と。
もしかしたら僕が必要以上に考えているだけで、彼の中身は単純なのかもしれない。

ちらりと裏を見ると、難しそうな数式が所々に散りばめられていて、大きく赤いペンでつけられているのは丸ばかり。
てっぺんには100、の文字。
担任の先生が描いたのだろうけど、まるで自分が採りましたと言わんばかりの大きさだ。


『すごい』

「なにが?」

『あたまいいんだね』

「まぁ…それくらいは」


それくらい。と、言えるような数式なんだろうか。到底理解できそうにもないそれをまじまじと見ていると、千早くんも一緒に覗き込んだ。

僕は今、頭の中では色々考えることができるけど、いざとなったときこういう計算をすることができるんだろうか。漢字だって、たぶんまともに書けない。


「興味ある?」


まるで読心術だ。
ぱっと前を向くと、最後の一口を頬張りながら言う千早くんと目が合う。

答えに迷って、水色のシャープペンシルを何度も握り直す。


「目的があるなら、教えるけど」


目的。
それは考えていなかった。
しばらく秒針の音に耳を傾けて、プリントのうら、でこぼこになった表面をじっと見る。


『折井さんに、めいわくをかけないようにしたい』


やっとの思いで書いたその文字を、覗き込むように千早くんが見る。
少し手が震えた。目的、というと、なんだか命がかかっているようだった。


「いいんじゃん。あの人頭いいと思うから、追いつくなら頑張んなきゃだけど」


あっけらかんと彼が言うので、手の震えもどこかへ飛んでしまった。
こんなに難しい問題を解く千早くんが言うのだ。きっと折井さんは、僕が思うよりずっとずっと頭が良いんだ。
目的。折井さんはどうしてそんなに勉強をしたのだろう。
そして、


『千早くんはどうしてべんきょうしてるの?』


僕の問いかけに一瞬、千早くんの動作が止まった。途端に場が静かになって、また時計の秒針だけが空気をなぞる。
気づかない程度のぎこちなさで、彼は皿にフォークを置く。
言いにくいなら、そう書きかけた瞬間、千早くんの口がいつもより速度を落として開いた。


「バケモノ」


息が、止まった気がした。
初めてまともに目があった千早くんの瞳は、真っ直ぐで、真剣で、どこか悲しかったから。
僕に向けられた言葉じゃない。
それは、


「俺が最初に母さんから呼ばれた名前」


母さん。

まだそう呼べる彼の瞳が一瞬震えた。
それがどんな感情からくるものなのか、怒りなのか、悲しみなのか、僕には分かりもしなかった。分かってはいけない気がした。

後ろで蛇口から漏れ出す雫の音が微かに聞こえる。まばらに入り込んだ木彫りテーブルの筋を、月明かりが場違いなほどに照らしていた。

千早くんのまっすぐな瞳に射止められたまま、シャーペンを握りしめたままの右手が動かない。


「だから……俺、は…」

「ユウヒくーん!!お風呂入ろう!?」


俺は、そう言いかけた千早くんの言葉を覆うようにスグルくんの元気な声が響き渡る。


「あ!ケーキだ!」


言うや否や、僕の手ごとフォークに刺さったケーキのひとかけらを持ち上げてぱくりと食べてしまった。
続きを聞きたかったのに台無しにされて、そのうえ大事な最後の一口だったのに。
呆気にとられていると、僕の気持ちとは裏腹に千早くんが皿を持って立ち上がった。


「ごちそーさま」

「千早くんも入る!?」

「入らない。俺は泊まらないし」


千早くんはそう言うと空になった皿をまたシンクへと持っていく。
このまま、マリーおばさんと帰るんだ。

バケモノ。

僕は彼の広い背中を見ながら、ぎゅうっとペンを握りしめた。
スグルくんが肩を落として「ええー」と独りごちている。その気持ちも、少しわかる気がした。


『お風呂、一緒には入れない』

「えー、なんで?」


ようやく動いた手で書いた文字を、いとも簡単に読んでは返す。
なんで、って。
スグルくんは相変わらずビー玉みたいな瞳でこちらを見ている。


「じゃあ誰と入るの?」

「スグル。風呂には一人でも入れる」

「そうだけども!」


千早くんとスグルくんが話している様子はなんだか新鮮で、先ほどの空気も少しばかり和らいでいく気がした。
忙しなく動く二人の顔を交互に見ながら、僕はペンを走らせた。


『千早くんと、入りたい』


その文字を見るなり、千早くんが少し笑った。


「スグルの負け」

「ええ!!」


シンクの中のものを全て洗い終わると、細くて骨格の良い手のひらをタオルで拭きながら千早くんは僕を見た。
その表情はさっきよりどこか柔らかい。


「風呂、気持ちだけ受け取っとく」


帰り支度を始める彼をスグルくんと囲む。
しばらくすると二階から足音が二人分聞こえて、マリーおばさんと八雲さんが顔を出した。
マリーおばさんは先程と変わらず微笑んでいて、ただ少しだけ時計を気にしながら千早くんの準備を見守っていた。

本当に帰ってしまう。
このまま、聞きたいことも全部聞けずに。

ぽん、と、頭に手が置かれる。
ふと振り向くと、準備を終えた千早くんの手が僕の頭をまたぽんと撫でた。


「俺は大丈夫」


そう言って色あせたスクールカバンを背負い直すと、彼は足早にマリーおばさんのもとへ近寄って行った。


「帰ろう、母さん」













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