二階の部屋に戻ると、ふんわりとした暖かさと鍋の香りが漂っていた。部屋全体を見回すと、先ほどとは違うところがひとつ。
スグルくんの横には、アンティークのチェアに腰を深く沈ませて座るマリーおばさんの姿があったから。そして、その膝の上には黒猫が毛づくろいをしている。
そういえばスグルくんがここに着いた時、花壇と犬と猫、って言っていたっけ。
猫は一瞬こちらを見ると、マリーおばさんに頭を撫でられて目を細めた。つられるように彼女も目を細め、瞼がくぼんで落ちる。
「賑やかですねぇ、八雲先生」
「そうですね。今日も千早くんにご飯を作ってもらって申し訳ないです」
「あぁ、ええ、ええ、千早は大丈夫よ、もうそろそろ小学生だもの」
マリーおばさんはそう言ってふふ、と微笑んだ。茶碗と小皿のぶつかる音と、外の小雨の音だけが響く。
千早くんの方を見ると、何事もないかのように小皿をテーブルに並べている。相変わらず眉間にしわを寄せて、てきぱきと隙のない動きで。
L字型のソファには折井さんと僕、そして千早くんが座り、その横にチェアを置いてマリーおばさん、プラス猫。
虎尾さんと八雲さんはそれぞれチェアに座り、スグルくんはカーペットの上にあぐらをかいていた。
いただきます、と各々が手を合わせて箸を伸ばす。
折井さんがよそってくれたお鍋の野菜を、木製のスプーンで小さく割って口の中へ運ぶ。
柔らかく舌の上で溶けた大根は、するりと喉を滑って胃の中へ沁みていく。久しぶりの感覚に、その一口だけで身震いするほどだった。
「あ、熱かった?大丈夫?」
『大丈夫です、おいしいです』
慌てて書いた紙に、箸から滴った汁が滲む。食べながら書くのって難しい。
「うまい!うまいよ千早くん!」
若干むせながら嬉々として言うスグルくんを横目に、千早くんは「ん」とだけ返事をしてコップに水を注ぐ。
そしてそのコップの水を一口飲んだ後、マリーおばさんの前に置いた。
私はいつもお水しか飲めないの、そう言ったおばさんの言葉を思い出す。
マリーおばさんはそのコップを見つめると手に取って、ぐるぐると回す。慎重に、じっと目を見開いて。
「何も入ってないよ」
千早くんが早口に言う。
その言葉を聞いてもマリーおばさんはグラスを回して丹念にその透明を見つめていた。
裏腹に不透明な厚い皮膚みたいなものが、二人の間にはあるような気がした。
「そういやさっきクロから電話があった」
虎尾さんは手に取った七味を、小皿が真っ赤になるまで入れながら言う。
おきさんから。ピリッとした緊張感が走る。
身体を強張らせたのは多分、僕と折井さんだ。
暫くの沈黙のあと、先に言葉を発したのは折井さんだった。
「なんの電話ですか」
「明日、さっそくスグルとユウヒの初仕事だ」
ドクン、と心臓が跳ねる。
スグルくんを見れば鍋のお肉に夢中で、聞いてるのか聞いていないのか鼻歌まじりだ。
「仕事って、何を…」
「ま、掃除みたいなもんだからしのぎにもなんねぇな!」
虎尾さんは豪快に笑って、それからご飯をかきこんだ。
掃除。
小皿の暖かさが、徐々に冷える指先を無理矢理あたためていく。
四畳半の荒れた部屋、黄ばんだ石膏壁、飛び回る虫。人間の形をしていたもの。
「ユウヒくん」
ハッとして前を見る。
靄になってくゆる湯気の向こうに、スグルくんが口いっぱいにご飯を頬張っていた。
蝋細工みたいな瞳が、僕を見ている。
「ユウヒくんには、俺がいるから」
少し外の空気が吸いたくて、後片付けで少々賑わう部屋をそっと抜け出して階段を降りた。
シンと静まり返った廊下を挟むようにして、交互にある部屋は全部で六部屋あった。
ぼうっと灯るオレンジ色の明かりに照らされても、そこはまだ夜の診療所の顔をしている。
それなら、昼はどうなんだろう。
そっと部屋を覗いていく。
こたつがあったり使い古したソファが置いてあったり、色合いは統一されているけれど窮屈ではない、どこかのんびりさせる雰囲気だ。
明るいうちは、ここでそれぞれが自分の時間を過ごしているのかもしれない。
玄関の扉を開けると煙草のにおいがして、ふと横を見る。
「おぉユウヒ、お前も一服か?」
そこにいたのは虎尾さんだった。
ちょうど扉の側にあるアルミのガーデンチェアに腰をかけ、長い脚を組みながら煙草を吸っているところだった。
ノートとペンを忘れてきてしまったことに気付く。しまった、と思ったけれど、僕が首を横に振ると虎尾さんは「そりゃー残念」と笑うだけだった。
雨粒は地面を叩きつけるでもなく、ただシトシトと砂利を濡らしていた。
「スグルは面白いだろ」
唐突に投げられた言葉に戸惑いながら、若干の間をおいてコクリと頷く。
「癖があるけど、いいヤツだよ。あいつと一緒なら怖いもんなんてねぇ」
口の端を上げて、それから長く白い息を吐く。
タバコの煙がたちまち雨粒に捉えられ、絡まるように一緒に地面へと沈んでいく。
先ほどスグルくんと見ていた花壇は、深くなった闇にぽつりと浮かぶだけだった。
「雨、やまねぇなあ」
深くなる雨音。
粒はだんだんと大きく重さを持って、先程よりも強く砂利を染めていく。
煙草を吸い終わった彼が大袈裟に伸びをして、骨格の良い腰に手を当てる。
雄雄しい端正な横顔だ、と思った。
丈。こんなに名前と容姿がしっくる人もそうそういない。
きっと怖いものなんてないんだろうな。
はつらつとしていて、気丈で、重苦しい空気の中でも彼さえいれば花が咲いたようにそこは彩られる。
虎尾さんのくっきりとした二重が少し緩んで、すぐ目の前に滴る雨粒を見つめている。
「雨ってーのはどんな色してるんだろうな」
雨音に聞こえるか聞こえないか、そんな具合の声色で虎尾さんが呟く。妙に落ち着いた、一文字一文字が彫りつけられたような言葉。
独り言なのか、僕に問いかけているのか、けれど開かれた質問には答えられなかった。
この人の目にはどんな世界が見えているんだろう。七味がどっさりと入れた小皿をふと思い出す。
モノクロとも違う、きっとちぐはぐな世界。
褐色のその目元にそっと指先で触れる。
虎尾さんは少し驚いた顔をして、顔をこちらに向けた。
「ん?!どーした」
僕はそのまま、ゆっくり指先を落としていく。
目元から、頬骨をつたって流れるように。
雨の色。
虎尾さんの分厚い手のひらが、その指ごと僕の手を包む。あぁ、大きい手だなぁ。手のひらまで褐色なんだなぁ、なんて、僕は震えているくせにそんなことを思う。
「教えてくれてありがとな」
微かな笑みを含んだその声を、雨は力一杯その勢いを振り絞った。