まだ大学病院に勤めていた頃、僕は内科の医師だった。いつの間にか研修医という立場からドクターと呼ばれるようになって、仕事は確かに忙しかった。
けれど、三日ごとに行われるカンファレンスでは外科の冷静な医師と他愛もない話をしたり、片手間で教授の研究を手伝ったり、疲れた時には産婦人科の病棟に行って分厚いガラス越しに小さな生命を見たりして、それなりに充実はしていた。



たしかその夜は酷い嵐だった。
秋も半ばに差し掛かって、ちょうど台風が来ていた日だったと思う。病院のガラスを雨粒が激しく叩き、昼まではそよいでいた木々も斜めに傾くほど風が吹き荒れていた。
電車で帰ることは諦め、家の近い研修医たちを帰らせて代わりに当直をすることにした。

仮眠室の固いベッドは冷気までまとって、肌触りは決して良いとは言えなかった。それでもウトウトと眠気が襲ってくるのを我慢していると、遠くから廊下を走る音がした。

スリッパの音だ。

研修医時代から外来にいる身としては、入院病棟でのこんな日常を肌で感じられてるのが新鮮だった。

まるで誰かをしきりに探すような足音。
微かに耳をすませば、走り回る足音の隙間に小さく荒れる息が聞こえる。

しばらくスリッパの音はせわしなく走り回り、訝しげに思いながらも耳をそばだてていると突然仮眠室の分厚い扉が開けられた。

そこに立っていたのは真っ白いパジャマを着て肩で息をしている少女だった。
20か、その手前くらいに見えた少女は零れ落ちそうな大きな目をさらに大きくさせて、肩で息をするほどに興奮していたように見えた。


「先生、私全部思い出したの!」


彼女は声を震わせながら、微かに笑っていたように思えた。
僕は何も言えず、ただ「良かったね」と起き抜けの顔に微笑みをぺったりと貼り付けて、その場限りの言葉をかけることしかできなかった。

そんな僕の言葉でも彼女はひどく満足したように、そして何かを確かめるように何度も何度も頷いて、「ありがとう、ございました」と言い残した。


翌日の朝早く、彼女は雨で湿った花壇の側で、死体になって発見された。赤いサルビアが一面に咲いているその前で。
病院の一番高い屋上に掲げられた看板から飛び降りたのだそうだ。

後に知ったのは、彼女が幼い頃から父親から性的虐待を受けていて、その父親を殺したのだということ。そして、そのことを何年もの間忘れたままだったのだということ。

あの夜、何がきっかけで思い出したのかは今になっても分からない。
ただ、僕はその日を境にその病院を去った。







八雲柊二郎。

奴に出会ったのは五年前だった。
第一印象は忘れてしまったが、診療所自体は俺に出会う何年も前から開いていると言っていた。
ひっそり佇んでいるとはいえ毎日のように患者はくるし、時々無茶する奴が怒鳴ったり刃物なんて持ち出したり騒々しいらしい。
それでも近所付き合いが良好なのはこの建物の雰囲気なのか八雲の人柄なのか。

ティーカップの底に沈んだ茶葉を見つめながら、八雲はらしくない物憂げな目をしていた。それから、微笑み混じりの細いため息。
横を見ると、折井がちょうど紅茶にミルクを入れるところだった。


「八雲さん」


折井の静かな声に八雲が視線を上げる。


「彼は、…夕日くんは、今どういう状態ですか」


折井と八雲は同じ大学だった、とは聞いている。折井が紅茶の方を好むことを知っているのも、顔馴染みだからだろう。
折井は人一倍情緒に揺さぶられやすいくせに、難しい言葉を使ってそれを回避するような奴だ。
そんな奴が、珍しく目を泳がせて八雲に問う。

コーヒーに砂糖はいらない。一口飲むと、苦味が舌の根までこびりつくようだった。
突然現れた真っ白い少年。いや、白は好きだ。
俺にも見えるから。
折井の問いに八雲は少し黙っていた。


「派手なヒステリーではあるけれど、大丈夫。ただ、そばに居て欲しいな。折井くんの存在が大きいようだから」


八雲がそれだけ言うと、折井はひどく肩を落としていた。どうしてそんなにがっかりするんだ。
八雲が手に文字を書いて、ユウヒと話したときからか。
あの時の折井の眼差しは確かに羨望のようなものだった。いや、羨望じゃない。嫉妬とかそういうもう少し低い次元のものだ。

人が人にできることには限界がある。

辛気臭いやっちゃなあ、と大きく伸びをする。一緒にいて損か得か、それだけ考えれば充分なんじゃねぇのか。
ふと出窓に目をやると、目の細かいレース越しに外が見えた。
小さな雫が窓にしがみついている。雨が降ってきたようだった。


「こんちわ」


外の二人を迎えに行こうと腰を上げた瞬間、キィ、と扉が開いた。
顔を出したのは、先月会ったときより少し背が伸びて垢抜けた青年。
俺たちの姿を見ると一瞬止まって、それからぺこっと頭を下げた。


「おぉ〜!千早!なんだよお前また背高くなったなぁ!」

「あざす」


駆け寄ってくしゃくしゃと頭を撫でてやると、嫌がるでも喜ぶでもなくまた「あざす」と一言。それからパッと股間をさり気なくカバー。
分かってやがる。

痩身で高い背丈と比例して年齢より大人びて見える顔立ち。まぁた眉間にしわ増えたか。手に持ったスーパーの袋を見て、それも仕方ないかと思う。
千早は部屋の中をきょろきょろと見回した。まるで誰かを探しているような仕草。
その人物なら見当がつく。


「万理江さんならいつもの部屋にいるよ」

「っす」

「ちょお待て千早、俺たち今日ここに泊まっから」

「え!?」


折井の驚いた顔ににんまりとする。
千早も八雲も、きょとんとしている様子だった。たまにはこんなのもいいだろう。


「千早、飯作ってよ。二人戦力がいるからさ」






約束の3分が経たないうちに雨がぽつりぽつりと降り始めたので、花壇から離れて僕とスグルくんは診療所の中に戻ることにした。
マルには八雲さんお手製の大きな小屋があるようで、玩具やら毛布やらでその中はあったかそうだった。

診療所の中へ入ると、奥の方が何やら少し騒がしい。
虎尾さんの茶化すような声が聞こえる。
それと、折井さんの慌てたような声と、八雲さんの微かな笑い声。そしてもう一つ、聞きなれない低い声。

スグルくんに手を握られたまま奥へ進む。廊下を抜けて一番奥の襖を開けるとそこは台所で、ついさっき見た制服姿の青年を取り囲むように虎尾さんたちが立っていた。


「お〜戻ったか!仲良く手まで繋いで」

「何してんの?!」


手まで繋いで、と言われてぱっと放す。
木目の大きなフローリングの床は歩くたびにギシリと音がしたけれど、折井さんのそばへ行く。
「どうだった?」と聞かれたので、少し迷ったあと『花がきれいでした』と答えた。
スグルくんの言った言葉をひとつひとつ説明するには、少し躊躇われた。

折井さんの横にいる青年をチラリと盗み見る。

背中、広い。たくし上げられたワイシャツの袖から見える長い腕にはうっすら筋が見えて、なんというかバランスの整った男性。
そして何より、さっき確認したかった鼻の形。
やっぱりマリーおばさんとそっくりだ。


「二人とも、ご飯作るの手伝ってくれる?今日は診療所にお泊りだって」

「えっ!」


折井さんの困ったような声に、え、という気持ちは僕も大いにあった。けれどそれ以上にスグルくんはビシッと一瞬固まって、しばらく動かない。
嫌とか驚いているというより、停止している、といったほうがいいのかもしれない。


「なんだよスグル、泊まるのなんてしょっちゅうだっただろー」

「今日は、マンションに帰るって聞いてた」

「たまにはこういうこともあんだよ〜、臨機応変にいこーぜ」

「で、でも、でも」


虎尾さんとスグルくんが話している間にも、青年は手際よく目の粗い土色の土鍋を出して、スーパーのビニール袋から食材を出して並べていく。
鍋みたいだ。作り慣れているのかな。

折井さんの方を見ればちょうど虎尾さんとスグルくんの仲介に入っているみたいで、声をかけられそうにもない。
八雲さんは…遠くのチェアに座って全体の有り様を眺めている。

彼に何か頼むのは、なんだか違う気がした。
ノートやペンだってもらったし、次は自分で何かしなきゃいけない。なんとなくそう思った。


『ぼくは何をすればいいですか』


ノートに書いた文字に顔を近付け、眉間にしわを寄せて彼が読む。
…怒ってる?いや、違うのかな。


「俺が切った野菜、鍋に入れてって」


こう、と水が少し入った土鍋に大根の一つをぽちゃんと入れる。
別に怒っているわけではなくて、もともと眉間にしわが寄りやすいのかも。
彼の様子を伺いながら恐るおそる、どんどんザルに入れられていく野菜たちをせっせと鍋に入れていった。

大根、春菊、白菜。どれも身体に良さそうなものばかり。というより、家庭の味のような、派手なものがない素朴なお鍋。

手に取った人参はねじり梅型に、しいたけの笠には星のような切り込みを入れてそれぞれ飾り切り。
器用で手際が良いのもそうだけど、けっこう遊び心があるのかもしれない。
僕は大量のネギの上にそれらをちょこちょこと置く。

彼がひょいっと鍋の中を見る。
怒られたらどうしようと思ったが、そのまま着火。チチチという火花の音が響いて、それから青い炎が強く鍋の底を覆う。

こんなのでいいの、と言わんばかりの控えめな目線を送ると、彼は軽くこちらを見てすぐ次の料理に取り掛かる。


「さんきゅ」


感謝の言葉にしてはぶっきらぼうで、相変わらず眉間にしわを寄せて彼は言う。
彼がインゲンのヘタを取っている姿を見ながら、僕ははっとしてペンをノートに走らせる。


『じょうずですね』

「まぁこれくらい…あ、これは鍋に入れなくていいから」


ヘタの取れたインゲンがボウルへ、次に細かく刻まれたニンニクが入れられる。
これくらい、と彼は言ったけれど、人参のこの形なんかはまるで誰かを喜ばせたいかのような、そんな面影を見せていた。

テキパキと動く腕と指先を見ていると、スグルくんがバタバタと寄ってくる。
もう騒動は収まったのか、虎尾さんや折井さんもこちらへやってきた。


「千早くん今日は鍋ですか!人参が変なことになってるけれども!」

「こういう切り方もあんだよ。可愛いじゃんかよ〜女の子ですか!」


スグルくんの真似をして虎尾さんが茶々を入れる。この人はいつも楽しそうで、なんだか羨ましい。
インゲンとニンニクを菜箸であえながら「いや、男っす」と彼が返すと、「真面目かよー」とまた笑う。


「夕日くんも手伝ったの?」


折井さんの言葉にコクリと頷きかけてちらり、彼を見る。返答に困ってしまう。
僕は何もしてないというか、ほとんど見ていただけだから。


「そっす。絶妙な感じで鍋に」


絶妙。褒め言葉なのだろうか。
だけどその言葉だけで折井さんはニコニコする。なんだか少し照れてしまう。
少し経つと鍋が小さく揺れて、通気口では足りないとでもいうように水蒸気と出汁が噴きこぼれてきた。
彼はさっと火力を弱め、使い込まれたブルーのキッチンミトンをスグルくんに手渡す。


「上で食べるならこれ、持って行って欲しいんだけど」

「了解しました!」


警官のようにビシッと敬礼をして、スグルくんはキッチンミトンを手早くはめ、土鍋を手に取りバタバタと走り出す。
あんなに走ったら中身がこぼれてしまわないか心配だったけれど、八雲さんも腰を上げてその後をついていったので少し安心した。

虎尾さんと折井さんは茶碗にご飯をよそっている。僕もそちらへ行こうとしたけれど、彼の手伝いをしないと、という思いから、ひたすら動くその骨ばった指先を眺める。

鍋から溢れ出した湯気が靄になって天井へ溜まっていて、ふわりと野菜の甘い香りが台所を包んでいた。
そういえば、昨日から何も食べていない。
そう思うと途端に胃が動いた気がして、クゥと小さくお腹が鳴った。
ぱっとお腹を隠しても、今度はその手の内側からキュルルと高い音。
気づいた彼が一瞬止まる。


「もう少しだからちょっと待って」


ぶっきらぼうな言い方だけれど、どこか焦ったような声。
彼は少し作業のペースを早めて、平たいブラウンの木皿にあえたものを入れていく。どうやら完成したようだった。
それからそそくさと奥の方に佇む冷蔵庫から水色のガラスボールに入ったポテトサラダを出し、ラップをとるとそのままプレートに載せる。

僕がそれを持とうとすると、「持つ」と一言、少しずれ落ちた袖をまくり直して彼はそのプレートに手をかけた。
ちょうど虎尾さんと折井さんのほうも、ご飯をよそい終わってプレートを持ち上げるところだった。

タイミングが悪いと思いながらも、ノートを手にとって素早く書きなぐる。


『名前をおしえてもらえますか』


彼はまた顔を近づけて眉間にしわを寄せる。
やっぱりその表情だとどこか怒っているみたいで、僕はノートを少し引っ込めてしまう。

プレートをそのままに、「ん」と頷いてノートとペンを手に取った。あ、左利き。
ご丁寧にきちんと台の上にノートを置いて、サラサラと書かれていく文字。

一ノ瀬千早。
なかなかの達筆、と、その横には電話番号。


「ん。俺、メール苦手だから」

「千早ー…お前意地悪とかする奴じゃないだろ」

「ごめんね千早くん、夕日くんはその…声、出ないんだ」


折井さんの控えめな言葉に、千早くんは気にするそぶりもなく早々とプレートを手に持つ。
声。
そうか、電話するときには声が必要だ。
書かれた電話番号を見て実感する。
僕は、僕には声がない。

ごめんなさい、そう書こうと思いペンを持とうとすると、


「そんなん、わかんないじゃないすか」


そう言い残して千早くんは背を向け、ドアの方へ向かって行った。
虎尾さんは笑って、折井さんは「えぇ…」と困惑の声を漏らしていた。

怖くて、手先が器用で、ちょっと言葉が足りなくて。
そんな彼の「わかんない」という言葉の意味は、たぶん僕と折井さんたちの捉え方では違うんだろうとなんとなく思った。

ごめんなさい、と書きかけた文字を、僕は二重線で消した。






















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