八雲さんからもらったノートとペンは大活躍だった。
まずおりいさんがノートにペンを走らせて、「折井、彰。下の名前はあきらって読むんだよ」と教えてくれた。
そのあとに俺にも貸してくれととらおさんが言って、決してきれいとは言えない字だけれどもカクカクの文字を描いた。
「虎尾丈」
なんと読むのか分からないでいると、「ジョウだよ、外人かぶれっぽくていいだろ」と笑った。
スグルくんにも書いてもらったが、カタカナなので簡単に読める。苗字は書いてくれなかったけど、それもスグルくんらしいなと思う。
「ユウヒくんユウヒくん、花壇に行こう!」
スグルくんが僕の袖を掴んで言う。
薄いレースで覆われた窓を見れば空は暗く、とてもじゃないが花を見るような明るさではない。
それでもグイグイとスグルくんが引っ張るものだから、たまらず折井さんに視線を送る。
「気をつけるなら行ってもいいよ」
呆れたような、でもどこか安心が添えられた口元に頷いた。ノートとペンをひったくるように抱えると、スグルくんに引っ張られるようにして僕は部屋を出て行った。
廊下に駆け出るとやはり、階段の左手にある部屋には光が灯っていて、先ほどと同じカタカタという機械音がしていた。
スグルくんは「あ!」と跳ねると、一目散にその部屋へと向かう。人質に取られた僕の腕ごと、そのまま身体が引きずられて行く。
部屋は思ったより薄暗かった。
襖のようなパーテーションの奥から、規則正しい機械の音が聞こえる。淡いオレンジ色の光に灯されて、小さな影がぼんやりと見えた。
モルタルの壁には色々な薬の名前と、その横には数字がチョークでびっしりと書き込まれていた。
スグルくんに連れられて奥へ進む。パーテーションの向こうには、背中が少し丸くなった女性がアンティーク調の椅子にちょこんと座っていた。
彼女は僕らの存在に気付くことなく、目の前にある機械の格子状の穴へ色々な薬を一粒ずつ入れていた。
看護師さん、ではなさそうだ。
手編みのように粗いベージュのセーターの上から膝下までブランケットを羽織り、先ほどの機械から出た何かを取り出している。
「マリーおばさんこんばんは!」
スグルくんは一切の躊躇もなくそう言うと、その女性は驚いたように振り向いた。
少しシワが目立つが若い時は綺麗だったのだろう、鷲のクチバシみたいに鼻の頭がくぼんでいて、そこからスッと通る鼻筋がその面影を見せていた。
「あらあら、あらあらスグルくん」
「分包?自分のやつだ?」
「これは明日の患者さんの分なのよ、八雲先生が困らないように」
そうして大切そうに手に取ったのは、薄い和紙のようなものに包まれてしっかり口を閉じられた包み。それが卵ボーロの包みのように縦に連なっていた。
袋の中には錠剤が何粒か入っていて、折井さんが半分に割ってくれた色の薬も入っていた。
マリーおばさんはスグルくんの扱いを分かっているというより、自然と会話が成り立っている、そんな気がした。
けれどその瞳はスグルくんでも僕でもなくぼんやり遠くを見ていて、どこか違和感を抱かせる。
壁に掛けられた時計を見るなり、彼女はいそいそと機械の掃除をし始めた。
「ザンギョーおしまい?」
スグルくんが声をかけると、パッとちくはぐな笑顔を浮かべる。
「そろそろパリに戻らなくちゃいけないの。王室が閉まっちゃう…お父様は門限に厳しいから急がなくっちゃ」
僕はマリーおばさんの顔を見ながら、なんとなくさっき感じた違和感の色々を察した。
嘘をつくような人には見えない。もちろん、冗談という口ぶりでもなかった。
僕が少し戸惑っていても、スグルくんは気にせず「そーなんだ!」とハツラツとして返す。
「今日の晩ご飯は!?」
「どうかしら。最近はクリームグラッセが美味しいの、グリーンアスパラが添えてあってね、本当はワインが合うのでしょうけど、私はいつもお水しか飲めないの」
おばさんの口からはスラスラとそんなカタカナの食べ物の名前がポンポンと出てくる。
その間にも、スー、スー、と、定規か何かでその機械の手前にある溝をはけていく。
口から紡がれる言葉とその作業のギャップに気を取られていると、マリーおばさんと目が合う。
「あらあら、スグルくんのお友達?」
あ、と思い、ノートを取りだして急いで書く。
『はじめまして、ユウヒといいます』
「あらあら、あらあら」
彼女は上瞼をたるませて、ノートを覗き込んだあとそれを手に取った。丸みを帯びた手の甲。何か書くものを探していたようなのでペンを渡すと、ページをめくってスラスラと何かを書く。
「どうぞ、よろしくね」
手渡されたノートには、苗字でも名前でもなく、「装いは知恵である」とひどく達筆な字でそう書いてあった。
女優であり、友人でもある人の言葉だと彼女は微笑みながら言った。
「マリーおばさん、おもしろい人だよね」
すっかり薄暗くなって花の色さえ霞んで見えない花壇のそばに、僕とスグルくんは座っていた。
膝のあたりまで積まれたレンガの花壇は、ぐるりとこの建物を囲むようにできていた。僕たちはその手前、診療所の入り口のすぐそばにあるところへしゃがんで、何をするでもなくぼんやり見ていたのだけど。
スグルくんの言葉に、ふと先ほどの彼女の顔を思い出す。
面白い、というより、不思議な人というのが正直なところの印象だった。僕たちの姿をヴェール越しに見ているかのようで。
「本当は隣町の小さなアパートに住んでるんだって。でも俺は、マリーおばさんって本当にパリに住んでるんじゃないかなって思ってる!」
茎の先にたくさんの花を咲かせているその先端に触れながら、スグルくんは続ける。
僕はノートを開いて、思ったことを率直に書く。
『どうして?』
「ん!んー、この花壇もマリーおばさんが作ったんだ。俺、パリには行ったことないけど、この花壇って写真で見たのとそっくり。だからこういうとこに住んでるんじゃないかなぁーと」
スグルくんの言う事には根拠らしきものがあったけれど、それはすごく曖昧で、頷くには少し躊躇われた。
『そうかもしれない』
「でしょ!?あー、やっぱり、ユウヒくんは話しやすいなぁ」
ぷちぷちと花びらをちぎり、それを土の中へ埋めながら嬉々として言う。
そんなにちぎったら花がなくなってしまう、そうノートに書こうとすると、スグルくんは何かに気づいて手を止めた。その目線の先を追うと、門をくぐってくる人影が見えた。
「あ、千早くんだ」
千早、そう呼ばれた少年はこちらに気付いて足を止めた。
ワイシャツと真っ黒い制服のスラックス。背丈は高いものの、学生カバンを背負っているところを見るとどうやら高校生、僕たちと同じ年頃の青年のようだった。手にはスーパーのビニール袋を持っていて、部活帰りの買い物、と言うにしては量が多い気がした。
きりっとした彫りの深い顔立ちに栗色の短髪。眉間には皺が数本見えるけど悪意はないような、こざっぱりとした出で立ちだった。
それよりもあの鼻の形、さっき見たような…確認するより早く彼はこちらに軽く手を上げると、診療所の中へ入っていった。
今の人はだれ、とノートに書く前にスグルくんが花壇の中にいる虫を手に取って手の甲に歩かせた。
何の虫かは分からない。突然違うところへ降ろされた虫はせわしなく動き、逃れようとその白い手の甲を走り回る。
「どうして逃げるんだろう」
ポツリ、誰に言うでもなく彼は言う。
『怖いから』
「死ぬのが?」
矢継ぎ早に返答するスグルくんに、僕はコクコクと頷いた。
虫は相変わらず彼の手の甲で右往左往している。
「ユウヒくんも死ぬのは怖い?」
こちらを向いたスグルくんの目がどこか真剣で、ペンを握りしめる手が強くなる。
『怖い』
「経験したこともないのに?」
飴玉みたいな瞳から、何故か目が離せなかった。離したら、彼の中で何かが崩れてしまいそうな気がした。
経験していないわけではない、と、本当なら言いたかった。おきさんに言われた言葉を思い出したからだ。でも、それをノートに紡いだところで伝わらないだろうと、そう思った。
僕が何も書き出さないのを見ていたのか見ていないのか、スグルくんは手の甲で走り回る小さな虫をもう片方の手で押した。
虫は更に混乱したのか、指の下でジタバタと蠢めく。
「経験したことって、脳みそのどこかで覚えてるんでしょ。だから怖いって思うんでしょ。でも、こんな小さいのの中に賢い脳みそが入ってるとは思えないんだよね。それでも死ぬのは怖いんだってこいつが思うんだって、俺はよく分かんない」
そう言って転がすように虫を指で押す。
装いは知恵、そう書かれた言葉を思い出す。
スグルくんの知恵はたぶん根拠だけに基づいている。それは事実や理論みたいな、そういう難しいものだけでできていて、生々しい感情は全部省いたものだ。
そうして必要のないものをザルにかけて、濾して残ったものが彼の装い。
でもそうしたら僕の装いはなんだろう。
『殺したら』
だめ、そう書こうとしたときには遅くて、音もせず虫は潰された。黒くシミのようになったそれが、スグルくんの白い肌に浮かぶ。
あー、と、彼は宙を仰いで言う。
端整な横顔を見ながら、この人は何なんだろうと改めて思う。
分かりやすいはずなのに、どうしても掴めない。
「あ!そうだユウヒくん、これ、虎尾がユウヒくんに持たせろって」
さっきまでの空気とは打って変わって、思い出したようにスグルくんはポケットの中に手を突っ込む。
引っ張り出した紙を手渡され、くしゃくしゃになったそれに目を通す。
握力の数値だろうか。そういえばここに来た時、虎尾さんがスグルくんに指示していたっけ。
『これはなに?』
「俺、自分じゃコントロールできないんだって。これがあったら便利だろうって」
まるで他人事のように言うのであっけにとられていると、俺先輩なのにね!とスグルくんは笑った。
こんな数字だらけのものを渡されても、大体自分の握力すらわからないのに。
困惑していると、スグルくんが突然僕の手を取る。
「練習しよっか」
練習。
「今、握力12」
きゅ、と握られた手のひらを、同じように握り返す。痛い?と言われても、特別そんな痛みは感じなかった。
首を横に振るとスグルくんは笑う。
さっきよりちょっと柔らかい。でもそんなこと、本人は気づいていないんだろうな。
「あと3分このままでいい?」
触れられた手は砂粒でチクチク痛んだけど、ほのかに暖かかった。
彼の瞳に吸い込まれないように、僕は静かに頷いた。