「ユウヒくーん、着いたよぉ〜」


スグルくんの気の抜けた声で目が覚めた。
彼の数字暗唱のようなものが子守唄になったのか、走る車に身を預けていつの間にか寝ていたようだ。

起き抜けの重たい瞼をこじ開けてドアガラスから外を見る。先ほどまで明るかった空はもう薄暗く、景色は打って変わって人気の無い田舎のあぜ道だった。

小さな門をくぐりぬけ、細い道に敷かれた砂利で車が揺れる。少し行くと、控えめに佇む建物が頭を出した。

外壁は色褪せた赤レンガが積まれ、なんというか古風、まるで誰にも見つからないようにとでも言うようにひっそりとした雰囲気を醸し出していた。
白く塗装されたドアの横には、古びたガーデンライトに「八雲診療所」とだけ書かれた木彫り看板がぶら下がっている。


「相変わらずイイ〜ところだわ」


とらおさんがシートベルトを外しながら楽しそうに言う。いいところ、という意味はなんとなくわかるような気がした。さっきまでいたコンクリートの箱みたいな家とは雰囲気が違う。

スグルくんは大きく伸びをして、僕の分のシートベルトを適当に弾いて外した。暑かったのか学生服は脱いだようで、パーカーフードの紐が左右非対称に揺れている。


「降りていい!?」

「うん、もう良いよ。あ、ユウヒくんのこともお願いして良いかな」


はい!と元気よく返事をして勢いよくドアを引き開けて外へ飛び出すと、ドタドタと回り込んで僕のドアも開ける。
そのまま引きずり出されたものだから、思わずヨタヨタと地面に倒れ込みそうになった。その腕を掴まれ、よろめかないようにという配慮なのか今度は上に引っ張られる。手首に走る痛みに思わずビクッとしてしまう。

スグルくんは背が高い。多分180センチ近くはあるんじゃないかと思う。僕は背が低いから、そんなに引っ張られると浮いてしまいそうだ。
「握力18に落としてー」と、とらおさんの間延びした声が降ってきた。その声に合わせてゆるめられた力は、ふわりと手首に回された。


「ユウヒくん!あっちに花壇と犬と猫がいるから行こう!」

「待て待て。まず中入ってからな」

「どうしても!?」

「どうしても。八雲に会いたくないのかお前は」


そういうわけではないけども!とスグルくんがごちる。握られた手首はそのままで、僕はぐるりと辺りを見回した。

かろうじて二階建て、といった具合に小さい建物の横には奥へ通じる砂利道があって、どうやらスグルくんが言っていた花壇というのはその先にあるらしい。
建物の周りは石垣と、中途半端に整えられた垣根で覆われていた。誰にも見られないように、とでも言いたげな高い垣根。

おりいさんが車から降りると、お疲れ様、と背中を撫でてくれた。真似るようにスグルくんがゴシゴシ背中を擦った。ちょっと痛い。
とらおさんが車のドアを閉じるのと同時に、何かが駆けてくる音がした。


「犬だ!!」


スグルくんが叫んだ方に目をやると、黄ばんだ毛を風になびかせて走り寄ってくる犬の姿が見えた。普通の犬より少しサイズは大きくて、首につけられた黄色い首輪が激しい動きに合わせて揺れている。
その犬は加速したまま警戒心もなくとらおさんに飛びつき、千切れるほどに尻尾を振った。


「あっぶねー!高いスーツじゃなくてよかったぜ」

「マル、俺にもそれして!」


マルと呼ばれた犬はすぐに反応すると今度はこちらに駆けてきて、スグルくんのひろげられた腕の中へ飛び込んでいった。
スグルくんはぴょんぴょんと跳ねる足ごと抱えて抱っこすると、そのまま一回転する。
動物は苦手ではないけれど、このはしゃぎように巻き込まれたら大変な気がして思わず一歩下がってしまった。


「ユウヒくん!こいつ、マル!四歳、オス!柴犬だけど白い!だけど土に体擦ったりするから黄色く見える!」


懇切丁寧な説明に頷くばかりだった。
抱っこされたマルの頭をおりいさんが撫でて、久しぶり、と声を掛けた。
スグルくんのお腹を蹴りながら嬉しさを顔いっぱいに浮かばせて、マルは舌を出したままハッハッとせわしなく息をしていた。こちらに寄ってきたとらおさんもグシャグシャと顔を撫でる。


「ユウヒくん初めましてだね」


おりいさんの声につられて頷くと、こちらに気付いたマルが一層強くスグルくんの腹を蹴った。
おそるおそる手を伸ばすと湿った鼻先が手のひらを濡らし、ごつんごつんとぶつかる。長い舌が夢中で僕の手のひらや手首を舐めるので、あっという間にびしょびしょになってしまった。
背伸びしてそっと頭を撫でてみる。
砂つぶがついていて、決して毛並みが良いとはいえない頭。でもどこか暖かくて、においを嗅がれながらそのまま少しずつ撫でる。


「マルさんご機嫌でいいなぁ」


遠くの方から声がした。
びっくりして後ろを見ると、開かれたドアに人がひとり寄りかかっている。
肘のあたりまでまくられた薄いブルーのシャツに、少し色褪せた黒のスーツパンツ。


「八雲!」

「スグル、久しぶり。元気にしてた?」

「元気!八雲は?」

「ありがとう、元気だよ」


スグルくんはその姿を見るなりマルを抱えたまま走り寄り、ぴょんぴょんと跳ねる。
おりいさんととらおさんに続いて建物の方へ寄っていく。

この人が、やくもさん。

少し脱色された長めの髪はゆるく結われ、そのまま鎖骨の辺りまで落ちている。艶を帯びた目は垂れ、丸い眼鏡が外灯の光で淡く反射していた。


「悪いな八雲、もう閉店したか?」

「そんなところかな。さっきまで警察が来ていたから、君たちが来る前で良かったよ」

「物騒ですね…」


相変わらずだよ、とやくもさんは返した。
おりいさんの言い草からして、警察は僕たちのことを調べに来たというわけではなさそうだった。
それにしても、流れてくる風にのって鼻先をくすぐるのは多分この人の匂いだ。
僕の目線に気がつくとふんわり笑った。


「初めまして、こんにちは。長旅疲れたでしょう、ホットミルクは飲める?」


おっとりとした柔らかい声。
落とされた視線は近くで見ても和んでいて、マルに触れた時と似た暖かさが胸に射し込むようだった。
小さく頷くと、やくもさんも頷いた。


「あったかい牛乳は俺の分もあるのかなぁ?」

「もちろん。お待ちしていましたので」

「お待たせ!!」


やくもさんはふふ、と笑みを浮かべ、僕たちを建物の中へ通した。








建物の中は先ほどの匂いがほどよく満ちていた。10月の街並みによく溢れているような金木犀の香りだ。
少し長い廊下にはエンジ色のカーペットが敷かれていて、横からはみ出したフローリングの褪せた赤茶色によく似合った。

両脇には二つほどずつ交互に部屋があるようだった。それぞれ磨りガラスが嵌め込まれたガラス戸で閉じられていたが、中にある淡い光が漏れてまるで飴色に、先ほどまで人が何人かいたかのような暖かな雰囲気だった。

奥へ続く廊下の途中に階段があり、やくもさんに続いて登っていく。

一番最後の段を登った時、すぐ左横の部屋からカタカタと機械音がした。

僕は驚いたけど、みんなは特別気にしていないようだ。ふと僕の様子に気がついたおりいさんは、「まだ残業してる人がいるんだよ」とこっそり教えてくれた。
看護師さんだろうか。確認する暇もなく、僕たちは流れるように角の部屋へと入って行った。


「さて、あったかい牛乳どうぞ。大きなお友達は紅茶でいいかな」

「やった!」

「大きなお友達はコーヒーが飲みたいなぁ」


とらおさんが笑う。
昼間の緊張はどこへやらといった具合で、みんなどこか糸が緩んだような様子だった。
みんな、と言っても、とらおさんとスグルさんはいつも通りだから、おりいさんの、ということになるだろうか。

ティーテーブルにしては大きめの丸いテーブルを囲むように、L字に曲がったソファへ座る。
ふかふかだ。
思わずまた体育座りをしそうになったけれど、行儀が悪いような気がしてかかとを引っ込めた。

出されたホットミルクからは湯気が出ていて、それでも丁度いい温度なのかもしれない、スグルくんがグビグビと飲んでいる。


「おーいまたのどヤケドするぞ」

「そう思って少し前に作っておいたから大丈夫だよ。君もどうぞ」


白基調で小花柄が目一杯ついたティーカップを差し出して、あ、とやくもさんが何かに気づく。ティーカップに咲いている花のようにふわりと笑って、僕の方へ寄ってしゃがんだ。

近くで見ても引っかかりのない蝋細工のような美しさ、とでも言うのか、銀縁の丸みのある眼鏡がそれを隠していてもそれが滲み出ていた。

こういうのには、慣れてない。


「君、なんてよそよそしいよね。僕の名前は、八雲、といいます。数字の八に、雲はクラウド、空にある白いふわふわしたやつ。で、八雲といいます。君の名前も教えてほしいな」


そう言いながら、やくもさんは手のひらに数字でグルリと八の字を書いたり、ふわふわの雲を書いたりして、最後には漢字で八雲、と書いた。

八雲。

薄緑の保険証を思い返す。
トバリ、は、忘れてしまったけれど、下の名前は覚えてる。夕日。
僕は一生懸命、伝わるように何度もゆっくり手のひらに書いてみる。


「うんうん、ゆう…ひ、ゆうひくん?ゆう、は夕方の夕で、日は、日向の日なんだ。あったかい名前だね」

「八雲もユウヒくんと話せるんだ!?」


スグルくんの声にハッとする。手のひらに書くことで精一杯で、喉をつねることなんて忘れていた。
ただ伝えたくて、名前を知って欲しくて。


「ちょっと待て八雲も、って、お前もユウヒと話せんのか?」


とらおさんが少し食い気味に言う。スグルくんは笑った。


「ユウヒくんと話すのなんて簡単じゃん!頷くし、首振るし、虎尾より話しやすい!」

「ほーん。聞き立てならねーなー」

「まぁまぁ、はい、大きなお友達にはコーヒー、折井くんは紅茶でいいよね?」


八雲さんに話しかけられたおりいさんはどこかぼんやりしていて、それから「あ、はい」と遅れて返事をした。
八雲さんはその様子を見ると、おりいさんの前へ静かにティーカップを置いた。

それから少し場を離れて部屋の中央、ちょうどドアからすぐ見えるところにある机の引き出しから何かを取り出した。
テーブルに置かれたのは何冊かのノートと、色のついたペンが入ったケース。
僕は思わず八雲さんの方を見る。


「手段なんて関係ないんだ。もちろん手のひらでもいいけど、夕日くんが伝えたいことを伝えられるものならいくらでもあるよ」


伝えたいことを、伝える?

そんなこと、どこかに置き忘れてきたような気がした。水たまりみたいに浅く見えるところなのに、深くて濁っていて、底がないようなそんなところに。

恐るおそる、小さめのリングノートを手に取る。震える手でページをめくろうとすると、ホルダーに紙が引っかかってうまくめくれない。


伝えたい、こと。


真っ赤なマッキーペンを手に取って、頭に浮かんだことを忘れないように、そのままペンを走らせる。
今の僕が最大限力を込めて伝えたいこと。

書き終わって、誰にでもなく一番最初に、隣に座っているおりいさんにそれを見せた。


おりいさんはそれを見るとまるで息が止まったような顔をして、それからきゅっと唇を噛み締めて僕を抱きしめた。
こういうとき、やっぱりどうしたらいいかわからない。
だけど伝わったらいいなと思う。




『ありがとう』
















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