「一本もらっていいですか」


手入れのされていない庭園の隅には申し訳程度の喫煙スペースがあって、僕と虎尾さんは何を話すでもなくそこに立っていた。

あの後仕事の話をすると言って、陣さんと沖さんは奥の部屋へと消えていった。
万里くんはあまりこの場所が好きではないらしく、二人の用事が済むまで外でぶらついてくると一言残しそそくさと出て行ってしまった。
残った白い髪の少年を引き連れ、虎尾さんに導かれるまま、「外の空気でも」と庭園に出てきたのである。

少年は最初僕たちについて来ていたが、腰ほどの背丈もある草を掻き分けて主屋のほうへ戻り、埃だらけの縁側にちょこんと座っていた。ここじゃ見えるか見えないかギリギリの場所だ。
多少心配するものの、ここほど安全な場所も早々ないと思い出す。


「お前吸うの?」

「四年ぶりくらいです」


虎尾さんは僕の言葉に少し驚いたような顔をすると、どこにでもある銘柄のパッケージから煙草を一本手渡した。
次に差し出されたのはシルバーメッキが剥げて銅がむきだしになったオイルライター。使い込むなぁ。
何回かホイールを親指で回すと青い火がついて、慌てて口元へ持っていく。

吸うほどに赤く火種は焼け、そして煙は肺へ、久々の圧迫感と喉のチリリとした痛みに思わずむせた。
それを見た虎尾さんは、慣れないことはするもんじゃねぇなあと笑う。


「全部知ってたんですか」

「白いのがくるの以外は知ってたなぁ」


やっぱり。汲み取られることのないため息を誰にでもなく吐いた。
虎尾さんは手を額にかざし、少年のほうを見やる。
少年はやはり足を折り曲げ、小さくなってキョロキョロと辺りを見回している。手を振るとこちらを少し見やり、肩をすくませた。


「あいつ喋らねぇの」

「…声は聞いてませんけど」

「ふーん…今夜つれてくか、八雲のとこ。そのついでに昨日言ったプレゼントやるよ」


八雲、久しぶりに名前を聞いた。
丸い眼鏡と癖っ毛、ふわりとしたあの香りを思い出し、右のポケットに入った小さなピルケースを指でなぞる。
夜しか会えないのはあの人の仕事柄だ。
携帯灰皿をさり気なく差し出され、ずいぶんと伸びた火種を落とす。
というか、そうだ。


「プレゼントって何なんですか?」

「ちょっとな。お前が少しでも仕事しやすくなるように」

「仕事ですか…結局、僕はこのままなんですね」


さっきまでの部屋での出来事を思い出し、煙草を深く吸い込む。今度はうまく肺まで煙が届いた気がした。


「あぁ俺、お前が煙草吸ってんのあんまり好きじゃねぇなあ」

「…そうですか?」

「ペンだこに煙草は似合わねぇ」


するり、人差し指で中指の爪の下のふっくらとした部分を摩る。これさえなければほっそりとした白くて綺麗な指、なのだろう。
タコの部分はせっかくの縦爪を内側から押し上げ、アンバランスさや歪さを作り上げていた。

タコができるくらい勉強して有名大学の院まで行って、してることがこんなことじゃあ笑えない。
煙草を横の大木のウロへ擦り付ける。


「あれ…あの子がいない」

「ん?」


ふと気になって主屋のほうを見れば、ついさっきまで縁側に座っていたはずの少年が忽然と消えていた。
焦る気持ちより嫌な汗が先に背中をつたう。
虎尾さんがゆっくり白い息を吐き、そのくゆる煙を見ながら口の端を上げる。


「スグルが帰ってきたかなぁ」


呑気な虎尾さんの声が、煙草のカフェインで座り切った僕の脳に緊張を走らせた。










誰の声も聞こえなかった。

遠くの方では茂った草木に隠れるようにして大人ふたりが煙草に火を点けるところだった。
けむたいのはあまり好きじゃない、と思う。

おりいさんと言う人は、たぶん僕の中で、この狭い世界の中でいちばん安心に近い人だった。
とらおさん、そう呼ばれている人は、まだよく分からないけれど、おりいさんと一緒にいるのならきっと、無害な人なのだと思う。

それ以外の人は、まだ僕にはわからなかった。


息苦しいコンクリートに囲われた建物の中の、作りかけのような日本庭園。
建物の縁部分に張り出して設けられた広い縁側は埃っぽくて、足元は砂でザリザリとする。
足を曲げて体育座りしても余るほどの縁側。
こうして小さくしている方が、やっぱり安心する。

大人の片方が遠くからこちらを覗き込む様にして見ている。とらおさんだ。
「きれいなんだろ?」
惜しげもなく言われたあの一言を思い出し、おりいさんに振られた手に思わず体が小さくなる。

二人は何を話しているんだろう。


チチチ、声がしてふと上を見る。

いちばん伸びた木の上に、鳥が一匹、二匹。
ぐんと伸びた太い枝に不釣り合いなその小さな体は、二つ寄り添ってやっとその先を隠せるくらいだった。
頭は薄緑で、口元は黄色い。
交互にさえずって、つがいの様だ。
そう、小さな声でさえずる。

チチチ、チュン、チュン。


そっと喉に指を這わせて、さえずりに合わせて口を少し開けた。


「チュン、チュン」

「!?」


僕の声じゃない、どこからかしたその声に左右を見るけれど誰もいない。


チュン、チュン。


楽しそうでも、嬉しそうでもない。ただ空間を滑るだけの様な声。
誰もいないはずの庭園で、僕だけが聞こえている。
木の上では相変わらずつがいの鳥がさえずっていて、今はその声すら雑音に聞こえる。

どこから、誰が?

音だけを辿るように折り曲げた足を縁側に預け、その声に耳を傾ける。
そしてゾクリとした。


僕の下だ。

縁側の、下から声がする。


「チュン、チュン」


吐いた息が震える。
足先は冷たくて、手は砂を噛みながら縁側の淵をそっと掴む。
ゆっくりと縁の下を覗き込む。

その瞬間あっという間に引きずり降ろされて、突然鼻腔に入り込んだ防虫剤と腐った木の匂いに思わずむせそうになる。顔には恐らく蜘蛛の糸が引っかかって、それを避けようにも両手首が何かに押さえ付けられて身動きが取れない。

衝撃で落ちてきた砂つぶを顔で受け止め、息も絶え絶えに全身で今の状況を確かめる。
手首を抑えてるのはほどよく暖かい、あぁこれは人肌だ。

恐るおそる目を開ける。


「俺も鳥、そこそこ好き!」


そこにいたのは僕よりひとつ、ふたつくらい歳上に見える青年だった。
人形のように隙のない整った顔立ちは縁の下では青黒く見え、血走った目の奥に鈍光が射していた。
鉛色に脱色された短いブロンドが、櫛も通らないほどにもつれて乱れている。

僕が目を開けるとその瞳は丸みを増して、嬉しさを含んだ唇がぱかっと開く。


「前から絞められた?目が鬱血するくらいだ!」


何も言えなかった。
まるで翻訳された言葉のような独特なイントネーションが余計に僕の心の奥をかき乱す。
この人が何を考えてるのかさっぱり分からなくて、分かりたくもなくて、笑っているはずなのに怖くてそばに居たくない。

掴まれた手首を自由にしたくて身をよじるけれど、嘘みたいな力でびくともしない。
だいたい人ふたりが入るのが精一杯のこの場所だ、逃げるなんてどうしてもできなかった。
そんな僕を見て、嬉しさに反射されたように弾ける笑い声。


「でも先に絞めたのお前だな」


びくり、肩が震えて体が固まる。


「下から絞めた痕だ、お前のほうが勝った!」


頭の中に線香のようなチカチカが光って、僕は自然と首を横に振っていた。
ちがう、ちがう、何も覚えてなんかない。笑い声が頭の中を引っ掻き回すようにとめどなく鳴る。
やめて、おねがいだから僕の心の中に入ってこないで、
荒くなる息をちょん切るように青年は笑う。


「あったりー!!」

「スグル!」


とらおさんの声が青年の笑い声を制止した。
薄ぼんやりと開いた目の先に、とんでもなく心配そうな目をしたおりいさんがいた。
二人は縁の下を覗き込んでいて、とらおさんはどこか呆れたように笑っていた。
両手首が解放されても、僕は動けずにいた。

青年は「チュン、チュン」とまたさえずった。










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