雨粒が窓を叩いている。
四畳ほどの、居間と呼ぶには狭すぎるその部屋の壁には黄色くヤニがこびり付いていて、畳の下の茶色い床地は剥き出しになっていた。
アルコールの匂いを放つ空き缶、食べかけのスナック菓子の周りを小蝿が飛び交う。
小蝿が行く先はもうひとつ、何日か前までは息をしていたはずの人間が一体。
重たい腰を上げ、割れた鏡台の鏡を見つめる。
真っ白な髪と、向こう側が見えそうなくらい透き通った肌に、ポツリと赤く置かれた瞳。昔から色素が薄く、よくからかわれた。
でも、だいぶ前のこと。
「いんだろオラ!!」
ドアの向こうから突然怒号が聞こえて思わず身体がこわばる。
僕は一目散に押入れの中に隠れた。
湿った空気が肌を撫で、押し込まれた布団から舞い上がった埃に目をつぶる。
乱暴に開けられたドアのほうから、かすかに嗚咽が聞こえた。
押入れの襖を少しだけ開けて外を覗く。
派手なグラデーションジャンパーを着た赤髪の青年が、腕で鼻を覆いながらズカズカと家の中に入ってくる。
しきりに後ろを気にしていたが、横たわるそれに気がつくや否や、盛大に舌打ちをした。
「くっせぇ!沖さん、こいつ死にやがった、金踏み倒して死にやがった!」
そう言って赤髪は死体を蹴飛ばして、ひずんだ皮膚から溶け出した何かにまた舌打ちをした。
彼はそのまま死体のまわりを忙しそうにうろついて、ちくしょう、ちくしょうと頭を掻きむしる。
そして机の上にあった財布を見るなりひったくると、そのままズボンのポケットにねじ込んだ。
「自殺か」
低くて、重たい声。
ぞくりと肌が粟立つのを感じた。
赤髪が後ろを振り返り、死体を指差す。
どんなに目を細めても、押入れの隙間からではもう一人の男の姿を捉えられない。
「みたいっすね、何年も待たせといて最後がこれじゃあ」
足でそれを転がして赤髪は吐き捨てる。
そのときこちらを向いた死体の、灰色の瞳と目があったような気がした。
無意識に押入れの襖に手を当て、かじりつくようにそれを見る。
赤髪の足が死体を突つくたびに手が震え、それをまじまじと見ては不思議に思う。
サク、と地面のチラシや新聞を踏み締めながら、背の高い男が入ってきた。
細身ですらっとした立ち姿と、整えられた黒髪が小さい顔をさらに小さく見せていた。
白いシャツに紺色のスーツパンツ。
どこにでもいそうなカジュアルな出で立ちを際立たせているのは、恐らくその整った目鼻立ちと高い身長だろう。
「こいつ、だいぶ前に保険入らせたよな」
「あー…わっかんないっす」
「調べて処理しろ」
「いいっすけど…明日の陣さんへの金はどうするんすか?」
「お前には関係ない、言われたことだけやれ」
赤髪に比べると、その男の人はひどく理路整然と、淡々と話しているように見えた。
男は死体のそばへしゃがむとじっとそれを見やる。
その目でなにを見ているんだろう。
なにを思っているんだろう。
あの距離では相当な匂いがするだろう、蹴るのか、それとも蔑みの言葉でも向けるのか。
男は表情を一つも崩さず、目を閉じると静かに手を合わせた。
思わず息を呑んだ瞬間、体重をかけていた襖が微かに鳴る。
男がすぐさまこちらを振り返る。
目尻が細く、まるで切れ込みを入れたような目。
その奥にある瞳は混沌と黒く深く濁って、引きずり込まれそうになるそれに思わず飛び上がり、押入れの奥へ身を潜めた。
赤髪がせわしなくどこかへ電話をかけている合間、ゆっくりとこちらへ近づいてくる足音だけが妙に鮮明に聞こえていた。
その足音は押入れの前で立ち止まった。
中にいるのは分かっているはずなのに、襖は開かない。
「沖さん、やっぱ五年前に保険入れてましたわ。とりあえず事務所帰ってから手続きしていいすか…沖さん?」
諸々を終わらせた様子で、赤髪が男の背中に声をかけている。
だけど男はぴくりともしない。
人形のように動かず、ただ押入れの前に立っていた。
抱きかかえた膝が揺れている。
しびれを切らすというよりも、恐怖と威圧感に押しつぶされてしまいそうだったのだ。
擦り切れた膝小僧を指で擦りながら、僕は震える手を伸ばしてゆっくり襖を開く。
さっきよりも鮮明に、二人の姿が目に映る。
「うおわ!!なんっ…だこいつ…」
いち早く僕の姿を捉えた赤髪が、派手な声を上げて後ろに引き下がった。
恐るおそる男を見上げると、冷たく人間味のない瞳が僕を見下ろしていた。
「びびった…幽霊かと思ったわ…」
幽霊、とは、言い得て妙だった。
白い髪は肩近くまで伸び、白すぎる肌は自分でも奇妙に思えたから。
その上、身につけているものといえば薄汚れたティーシャツとパンツだけだった。
「お前、ここで何してる」
男が口を開く。
簡単な質問のように思えた。
僕はいつもみたいに喉の骨のあたりをつねって、それから口をパクパクとさせる。
掠れた、声とは呼べない音が喉から絞り出るだけだった。
「おい沖さんが聞いてんだろ、」
「万里」
「…すいません」
叱られた犬のように、赤髪は一歩後ろに下がって肩をすくめる。
僕は喉をさっきより強くつねる。
それでも声は出ない。
「あいつの子どもか」
イエスかノーで答えられる、今度は単純な質問だった。
一呼吸置いて僕はぎこちなく頷いた。
男はおもむろにしゃがむと、僕の前髪の毛を掴んで上を向かせる。
恐怖は痛みよりはるかに勝るものだった。
遠くでみたときとは違う、恐ろしい瞳がすぐ目の前にある。
「お前は今日、ここで死んだ。甲斐性のない母親に殺されて死んだ。分かるな」
嘘も真実も語り得ないような瞳で、男は僕の目を見てそう言う。抑揚もなにもない声が、中身のない事実らしきものをただ淡々と言うのだ。
たった二言、三言、それだけのことなのに、頷くより先に熱いものが頬を滑り落ちた。
違う。僕は今この瞬間、母親ではなくこの男に殺されたのだ。
「万里、こいつを車に乗せろ」
「ええっ!正気ですか沖さん…完全にお荷物っすよ」
「陣さんへの土産だ」
事態を把握した様子で、赤髪は小さくため息をついた。
男は立ち上がり、背を向けると早々に出口へと向かっていった。
「めんどくせぇなぁ…とっとと立てよオラ、行くぞ」
赤髪は噛んでいたガムを部屋の隅に吐き棄てると、僕の腕を無理やり掴んで立ち上がらせた。
襖に肩をぶつけながら押入れから出され、そのまま半ば引きずられるようにして部屋を後にする。
足のつま先が、死体の頭を蹴った。
もう頭はこちらを向いていなかった。
アパートから出ると、外には大きめの黒いバンが横付けされていた。
階段をうまく降らなかった姿を見かねて僕を肩に担いできた赤髪は、フルスモークの窓を手の平で乱暴に叩いた。
重い音とともに扉が開き、中からスーツに身を包んだ真面目そうな青年が一人顔を出した。
「えっ、どうしたのこの子」
「いいから早くそこどけ、重いんだよ!」
車の中へ押し込まれると、急いでドアが閉められる。すんでのところで足の先を挟むところだった。
体を起こすと、さっきの青年がまじまじと僕を見ている。
ややオーバルで丸みを帯びた眼鏡の奥に、大きくてくっきりとした瞳が見えた。驚きと困惑が見え、なんとなく他の二人とは違う匂いがした。
赤髪が運転席へ乗り込んで、小雨に濡れた肩やら腕を手で払う。
せわしなく動くその頭に、青年が声をかけた。
「ねぇ、この子なに、どうしたのほんとに」
「陣さんへのお土産だと!」
「あぁ…沖さんも悪趣味だね。心配だなぁ…これでお金の件がチャラになるとは思わないし」
「いいからさっきの保険の話、手続きはいつも通りでいいのかって」
外からはなにも見えなかったスモークの窓は、中から見ると思ったよりも外の様子が見えた。
すぐそばには真っ黒い傘をさして、さっきの男が煙草を咥えていた。
沖さん、二人がそう呼ぶ男は背を向けたまま、さっきまでいたアパートを眺めているようだった。
くゆる煙がゆっくり空へ這っていく。
僕は死んだ。今日この日に。