(!)売春と少年ニーア

足元が覚束無いまま、僕は村への帰路についていた。首がいつもよりスースーするのは紐で髪を結んでいるからだ。
ヨナの為だ、仕方無い、これくらい、ヨナの為なら安いもんだ、約束通りお金もくれた、反故しなかったんだ、良かったじゃないか。そんな薬にもならない言葉を呟きながら一歩一歩確実に進む。家に帰ったらヨナが居る、おかえりなさいって言ってくれるヨナが居るんだ。
その時不意に、さわ、と何かが前髪に触れた。ゾワッと全身の毛穴が開く、そんな嫌な、気持ちの悪い記憶が感触が一瞬にしてズルリと這う。叫ばない騒がない暴れない。そんな命令の下に置かれていたからか、僕は出そうになった言葉をギリギリで飲んで、咄嗟にその何かを払い退けた。それは、男の手よりも軽い普通の葉だった。葉は、僕の気持ちを知ってか知らずか、暢気にヒラヒラと躍りながら地面に落ちた。

「っは、…は…ッ…」

こんな葉一枚に動揺するなんて。少しは落ち着いてきたと思っていたのに、これのせいでぶり返してしまった。
周りに誰も居なくて良かった。もし僕の事を知っている人が居たら最悪だ。ヨナに知られて心配させたらもっと最悪だ。僕は近くの岩に寄り掛かり、両腕を強く握る。その痛みが少しだけ気分を和らげるが、やっぱり無理なものは無理だった。
分かってる、仕方無い事だって事くらい。あれくらいで何日か分の食料を買えるお金を貰えたんだ、これでヨナの好きな物を食べさせてあげられる。笑顔にしてあげられる。でも、そんな満足感よりも、今はまだ嫌悪感が勝っていた。思い出したくないのに思い出す。息使い、手や舌の感触、耳障りだった声。帰る間際に言われた「また金が欲しかったら来い」という気持ち悪くて甘い言葉。確かに、思っていたよりもお金は貰えた。それは有り難い。でも、気持ち悪い。吐き気もそうだが、多分皮膚が記憶してるあの感触が消えない限り、他人に触れられるのすら拒絶しそうだ。でも、あれだけのお金を貰えるなら、と思ってしまう。あの男に限らず、何回か同じような事をしていれば、ヨナが食べた事ない美味しい物を食べさせてあげられるかもしれない。薬だって今より良い薬を買えるかもしれない。でも、
考えがループする。何度も上塗りをして、いい方向に考えを持っていこうと努力した。でも何度上塗りをしても、結局は嫌悪が上にくる。

「う、っえ…」

吐き気がしても何も入ってないから胃液以外吐き出す事が出来ない。逆流してきた少量の胃液を飲み込んだ。食道と胃が痛む。最後に胃に入れた物って何だっけ、あの男関連以外の物で。何だっけ、思い出せない。確か終わった後に水か何かを貰ったけど、あの時はとりあえず気持ち悪かったから、結局何も入れてなかったんだ。そんな事を思い出すと急に喉が渇いた。吐き気がするのに喉が渇くって、どんな罰ゲームだ。それに飲むにしても近くには海しかないし、買うにしても戻るか帰るかしないと買えない。戻る方が近い。でも戻る気にはなれなかった。
僕は吐き気と喉の渇きを我慢しながら、さっきより覚束無い足取りで再び帰路についた。汚れた体で極力家の物を触りたくない、家に帰ったらすぐに風呂に入ろう。吐き気は兎も角、喉の渇きなら唾液で何とかなる。それに、こんな僕にヨナが触れちゃいけない。



村に着くと、今夜呑む約束をしていた門番二人が「お、ニーアじゃねぇか。おかえり」と言ってくれた。いつもならただいまと言って、また呑みに行くの?とか他愛の無い話をするところだ。けど、そんな気にもなれず、それに二人は男、畏縮してしまう。この二人にあんな趣味が無い事も、奥さんが居る事も、僕達を案じている事も理解しているんだけど。今の今までやっていた事を思い返してしまって、僕は小さく「ただいま」と言って早歩きでその場を去ってしまった。良くしてくれてるのに失礼だ、こんな態度。後できちんと謝っておかないと。でも今は…ごめんなさい。
そのまま広場を避けて、一直線に家に帰った。途中追いかけっこをしていた子供達に挨拶されて「今度遊んでね!」と言われ、曖昧に挨拶してしまった。この子達にも後で謝らないと。罪悪感ものし掛かってきて、尚更気分が悪くなってしまった。

家に着いた。やっと着いた。安堵して、扉に凭れてズルズルと座り込む。ヨナに会った時に変な反応をしないようにしなくちゃ。何回か深呼吸を繰り返し、溜まっていた淀んだ空気を吐き出す。よし、と立ち上がろうと膝に力を入れた時、地面に人影が浮かんだ。見上げると、本を抱えて心配そうに眉を下げて腰を少し曲げるヨナが居た。

「…お兄ちゃん?お家に入らないの?お気分でも悪いの?」
「……ヨナ…」
「大丈夫?立てないの?あ、ヨナの肩貸そうか?」

心配掛けないようにしようとしておきながら、会った途端心配を掛けてしまった。あぁ、何をしてるんだ僕は。己の失態に溜め息を吐きそうになるのを堪え、僕は立ち上がりヨナの頭を撫でた。柔らかい髪の毛を痛めないよう優しく。するとヨナは嬉しそうに目を細める。

「大丈夫だよ、少し…疲れただけだから。それよりヨナはポポルさんの所に行ってたの?」

ヨナはうん!と笑顔で頷き、僕の空いてる手の中指を小さな手で握って「お家に入ろ」と言った。

今日のヨナはえらく上機嫌で元気だった。僕が居ない間に体調が悪くなってたらどうしようかと思ってたけど、杞憂に終わったらしい。気持ち悪さも薄れ、固まった気分が解れていく様。ヨナのこの表情が僕は好きだ、大好きだ。そうだよ、あの気持ち悪い事も気分も、ヨナへの気持ちで容易に包めるじゃないか。
ヨナは僕の指を離し、抱えている本3冊中の2冊をベッドに置いて、僕を振り向く。

「今日はお家に居るの?」
「うん、明日は仕事があるけど」
「…そっか。じゃあ、今日はヨナが晩御飯作るねっ」
「え」

無垢な笑顔なヨナに対し、僕は頬を引き吊らせた。抱えてる本へ目を落とすと、ヨナの腕の隙間からレシピと書いてあるのが見えた。

「あ、あー…いいよ、僕が作るから。ヨナは借りてきた本でも読んでたら?」
「だってお兄ちゃん疲れてるんでしょ?それにね、このご本にお兄ちゃんが好きなお料理のレシピも書いてあったの」

疲れてると言ったのがマズかったか。後悔するがもう遅い。それにヨナはエプロンを着けて、レシピ本を開いて材料を確認している。作る気満々だ。多分ここでヨナの善意を否定したらヨナが哀しむ。駄目だ出来ないそんな事。

「そ、そっか。…じゃあ、手とか切らないようにね。あと火も気を付ける事、それに、」
「もうお兄ちゃん、そこまで心配しなくてもヨナは平気だよ。初めてじゃないんだから」
「でも前料理した時指切っただろ?包丁の扱いには気を付けるんだよ。あと切る時は猫の手で指を切らないようにする事。いいね?」
「はーい」

ヨナはクスクス笑いながら手を上げて返事をした。全く、分かってるのか分かってないのか。前に一度ニーアは過保護だと言われたけど、大切な妹を傷付けさせたくないという気持ちは兄として当然だ。傷一つ残るのだって、ヨナな女の子なんだから大事だし。
そんな心配事を悶々と考えてるけど、ヨナはフと何かに気付いたように、あ、と声を上げた。

「お兄ちゃん、髪の毛結んでたんだね。だからいつもと違うと思ったたんだ、ヨナ今まで気付かなかったよ」

ドキリ。たかが髪の毛の事だけで心臓が痛いくらいに大袈裟に跳ねた。
ああそうだ、帰ってすぐに風呂に入ろうと思っていたのに。こんな汚れた体にヨナが触れる前に、少しだけ、気休めだけど綺麗にしようと思っていたのに。なのにヨナに触れさせてしまった、頭も撫でてしまった。やってしまった。ついヨナに会って気が緩んでしまった。駄目だ。ヨナまで汚れちゃ駄目だ。汚れるのは僕だけでいいんだ。ヨナは知らなくていいんだ。
ドッと押し寄せる気持ち悪さに堪え、僕は曖昧に笑う。

「うん、まぁ…ちょっと邪魔でね。ヨナ、料理作る前にはちゃんと手を洗うんだよ?石鹸使って、指の間とかも、ちゃんと。ね?」

髪の毛については、ヨナが風呂に入る時にでも言おうか。ヨナは細かく言う僕にキョトンとしつつ「うん」と言った。その姿に勝手にホッとしつつ、タオルと服を取り出し振り返る。

「じゃあ僕は、ヨナが晩御飯作ってる間にお風呂入ってくるね」
「うん分かった。ヨナ頑張るから、お兄ちゃんはお風呂で疲れ落としてきてね」
「うん。あ、包丁はちゃんと、」
「猫さんの手で気を付けて使う、でしょ?」

分かってるよー、と猫の手を作って言うヨナに僕は笑って、「じゃあ入ってくる」と背を向けた。階段を下りる手前で振り返ると、ヨナはレシピをニコニコした顔で見ていた。その表情に複雑に混ざった気持ちを抱えながら、階段を下りた。


鏡の前。服を真っ先に脱ぎ、鎖骨にある痣のような痕に顔を顰め、髪を結んでいた紐を解いた。髪が首や肩に触れた時、鳥肌が立った。今までこんな事無かったのに、嫌悪感が胸いっぱいに広がる。ああ無理だ気持ち悪い。髪にこんな神経質になる日が来るとは思ってなかった。とりあえず、洗ったらすぐにまた結ぼう。どうするかは後で考えよう。
脱いだ服を籠へ投げると、ポケットから無造作に突っ込んだお金が床に落ちた。依頼を受けて貰うお金より遥かに厚いが、正直依頼を完了して貰うお金の方が有難味がある。時には、ヨナちゃんに食べさせてあげてね、と食べ物をくれる人だっている。それに比べて、このお金は汚い冷たい。いつもみたいなくしゃくしゃなお金の方がよっぽど綺麗だ。
かといって捨てる事も出来なかった。そもそも、僕にこのお金を汚いと言える権利は無い。だって、こんなお金を貰ったのは僕で、あの甘い言葉に縋ったのも紛れも無く僕で。今気持ち悪い思いをしてるのも、全ては僕自身のせいだ。分かってる。でも責任も嫌悪も何もかも、誰かに転嫁すれば少しは楽になれる事を僕は知っていた。逃げなんだろう。でもそうでもしなきゃやってられない。目を瞑ると蘇るのはあの言葉。
「また金が欲しかったら来い」
僕は懲りずにまた行くんだろう。あの男に限らず、お金をくれるなら。売春に嵌るつもりも、これ一本で生活していくつもりは更々無いが、こんな体で少しでも今以上にヨナの為に何かしてあげられるのなら、僕は自分の気持ちくらい簡単に押し殺せる。

「仕方ないよ…ヨナの為なんだから」

ヨナの為。そんな都合の良い逃げ場を確保するような、魔法のような、でもか細い糸のような言葉を呟き、僕はそのお金を拾い上げて濡れないように棚に置いた。


水底に沈む少年
(僕は殺して沈むよ、君の為ならどこまでも)

SSの売春話に吃驚して目玉落ちた記念
ヨナ視点も書きたい、な
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