あしたも晴れるかな




 まだ真新しい家具もならぶ部屋のなかにインターホンの音がひびいたのは、私たちふたりともがそろった休日の朝のことだった。応対してみれば宅配便の方で、ベッドでまだ寝息を立てている一虎くんを見遣りながら、私はあわてて寝癖をなおす。手前にあった一虎くんのサンダルを拝借して、勢いづいてドアを開ければ、そこにはちいさな段ボールを抱えた配達員さんが立っていた。なにか頼んだっけな、と頭の隅っこで考えながら、ぺこりと頭をさげる。


「すみません、遅くなりました」
「いえいえ。えーっと、お名前と住所は……」


 と、そこで見せられた送り状の住所はたしかにこの家であったけれど、書かれている名前は私のものではなく、“羽宮一虎”だった。そうか、一虎くんの荷物だったのか。しかし納得するや否や、「羽宮さん、でお間違いないですか?」とたずねられて──かっ、と身体があつくなってしまった。「えっ、えっと、」なんてついどもってしまう私を、配達員さんは不思議そうに見つめてくる。
 けれど、こればかりは仕方ない、と思う。私たちは同棲をはじめたばかりで、ただそれだけの恋人同士で、相手の苗字で呼ばれてしまうなんてのは、今までにない出来事だったのだから。


「……はねみや、で合って、ます……」
「それじゃあ、ここに印鑑かサインを」


 あつい顔をごまかしているところにあっさりそう言われて、くつ箱の上の小物入れを見ると、私が普段使う印鑑の横にもう一本それが転がっている。手に取って確認すれば、そこには“羽宮”の文字があった。
 ……羽宮。はねみや。はじめて聞いたとき、きれいだなって、そう思った苗字。ぼうっとしながら、普段つかわないそれのキャップにそっと手をかけて――なんだかまるで、ちいさな子どもがお母さんの化粧品を勝手にさわってしまうみたいな、そんないけないことをしているような感覚におそわれていた。


「……どうされました?」
「い、いえ、すみません、なんでも……」


 かるいプラスチックのキャップをはずして、印鑑の方向をたしかめようと赤い朱肉を見つめる。上下左右、ぜんぶひっくり返ってしまった文字をくるりと回すと、いよいよ私がこれをおしてしまうのか、なんて緊張が背筋にはしった。
 そうして、どうしてだか、やっぱり後ろめたいことをしているような気もしてしまって。焦りとか逸りとか、くだらないものに急かされるように印鑑を押しつけてしまうと、はじっこの欠けた“羽宮”が、受領印の枠からすこしはみ出たすがたが目に映った。


「はい、ありがとうございますー」
「あ、はい……」


 なんだろう、この、脱力感。なんだかやり遂げたような、いや、というよりは。終わってしまった、という感じかもしれない。そうして小物入れに印鑑をもどしたときに配達員さんがぎょっと目を見開くから、首をかしげて振りかえろうとした瞬間、どっしりと肩に重みが乗っかった。


「なまえ、だれ?」
「び……っくりした……宅配便の方だよ」
「ふーん」


 後ろから私にのしかかりながら「どーも」なんてめんどくさそうな口調で言うのは、まさに彼宛ての荷物が届いた羽宮一虎くんそのひとだった。とつぜん金髪メッシュの男が目つきの悪い寝起き姿で出てくれば、誰だって戸惑うだろう。いっしょに暮らしている私ですらすこし驚いたのだから。慌てた様子で「失礼しました」と背中を向けていった配達員さんに、心のなかで謝っておいた。


「で?」
「で……って?」
「オマエはなんでそんな顔真っ赤にしてんの」
「えっ」


 ばたんとドアが閉まるのと同時くらいに、すっと頬を撫ぜられて。その指のつめたさを感じてはじめて、ひどく顔に熱が集まっていたことに気づいた。


「そ、その」
「堂々と浮気かよ」
「へ? いや、いやちがうよ、早とちりしすぎ」
「違うならなんなの」


 相変わらず不満そうな一虎くんに、それでも印鑑や苗字のはなしをするのはなんだか照れくさくて、けれど後ろからはおもしろくなさそうなため息がひびいてくる。……どうしよう。


「オレに言えねーようなこと?」
「そうじゃないけど……恥ずかしいし」
「……納得いかねー」


 後ろから抱きつかれたまま、「なー教えてよ、なまえ」と耳元で囁かれて──ほんとうに一虎くんは、私がどうされると弱いのか、私よりずっとよく知っている。
 さっきまでとは比にならないくらいに身体があつくなって、かるく耳に歯を立てられてしまえば、「言う、言うから」と降参するほかなかった。


「……はねみや……」
「ん?」
「羽宮さんってよばれて、印鑑も、おしたから」
「……なまえが?」
「……そう、だからなんか……照れちゃっ、て」


 ぽつぽつとこぼし終えて、それから。まわされていた腕の力がぎゅうと強まって、一虎くんが耳元でちいさく唸る。すこしの息苦しさのなかで、耳に吐息がかかって肩が震えた。


「はー……」
「か、かずとらくん……?」
「……オレまでなんか、照れんじゃん」


 首筋にすり寄られて、どきどきと心臓がうるさくなってゆく。なんだかそれ以上、苗字のことを話すのはお互い照れくさくって、黙ったままそっと一虎くんの手に触れた。するとやわく握られて、あまったるい空気が朝の玄関を満たしてしまったような、そんな心地がする。
 ふと動かした視線のさき、小物入れのなかの印鑑はふたつ、行儀よく並んでいる。それがいつか、一本だけになるさまを想像して──あたたかい一虎くんの手を、握りかえした。たくさん、考えなければいけないことはある。一虎くんもきっとまだ、たくさん悩んでしまうんだろう。……だけど、いまだけは。
 一虎くんがちいさく笑うから、つられるみたいに、真似するみたいに、私もほんのちいさく笑った。



20211017



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