夜をなぞって


「俺がやりますよ」
「いい、いいよ! 私がやる」
「作ってもらったんだから片付けはやります」
「恵くん、まえに『片付けまでが料理なんで』って片付けてくれたでしょ。だから私がやるよ」
「……それはそれです」
 シンクにはどんぶりがふたつ、手鍋がふたつ。年越しそばの影をのこした洗い物たちが鎮座しているまえで、恵くんと私はちいさな言い争いを繰り広げていた。
 実にくだらない、どちらが片付けるか、という言い合い。それも片付けの押し付け合いではなく取り合いで、なぜこんなことで争っているんだろうとふしぎになってくる。けれどなんだかお互い引けないところまで来ていて、シンクの正面を陣取る恵くんをかるく押しのけてみた。けれども体格差のせいでびくりともしなくて、ただ寄り添ってみたようになってしまう。
「……どうしたんすか」
「あ、いや……あの、押そうとしたんだけど、失敗しちゃった」
「……ふ」
 かるく吹き出すように笑った恵くんが、ぽん、と私の頭に手を置く。そのまま髪をかき混ぜられたかと思えば、「待っててください、ほら、座って」なんてやさしい声で命じられて。さっきまでの意地はどこへやら、「うん」と素直に返事をしてしまうのだから、恵くんの手のぬくもりがいっそ恐ろしくなる。
 蛇口から飛び出た水がシンクにぶつかって、しずかだったふたりの空間に音が満ちた。座って、と言われたけれど、なんだか見ていたくなって、恵くんが腕まくりをして、それからスポンジを手に取るところをぼうっとながめていた。
「……ありがとう」
「こっちのセリフですよ。蕎麦、ありがとうございました」
 ありがとうなんて、言われるほどのことはしていない。そばを茹でておだしを作ったくらい。けれど恵くんにもらう感謝はうれしくて、それをつっぱねてしまうのはもったいなくて。しずかにうなずいて受け止めて、たいせつに心の中にしまっておいた。
 そうして恵くんが食器を洗っているあいだ、私はななめ後ろからそれを見つめていた。とちゅう「座らないんですか」なんて声をかけられたけれど、「どうしよっかな」と座る気はさらさらない返事だけして、恵くんの手できれいになる食器たちを目で追っていた。ていねいなのに素早くて、あいかわらずの恵くんの器用さに舌を巻く。
 いろんなことをそつなくこなしてしまう、大きくてうつくしいその手が好きだ。たいせつに扱われるどんぶりも、くしゃりと握られたスポンジですら羨ましくなってしまうくらいには、恵くんの手がとてつもなく好きだった。
 ぜんぶを洗い終えて、スポンジが元の位置にもどって、泡が洗い流されて、タオルが水気をすいとってゆく。そのぜんぶをじっと見つめていたせいで、恵くんは「胡桃さん、見過ぎ」と呆れたみたいに目を伏せた。
「ご、ごめんね」
「べつに、謝ることないですよ」
 歩いてきた恵くんの手がすっと背中に当てられて、そのままかるく押される。それはおそらく言外にソファに行こうと示されていて、そのことばの足らなさですら好きだと思ってしまうのだから、私はもう恵くんのことならなんだって好きなのだろう。背中にあたる手のひらがあたたかくて、体温が心地よかった。
「なに観ます?」
 リモコンを手に取ってそう言う恵くんの、リモコンを構えた右手にそっと触れてみる。すこし目を丸くしてこちらを見る恵くんから、逃げるように目を逸らしておいた。
「……あのね」
「……ん」
「…………撫でて、ほしい」
「……は」
 突拍子もない流れに驚いたのか、それともなんとも微妙なラインのお願いに戸惑ったのか、一音だけ発してからすこし、恵くんはかるく笑った。けれどすぐ「わかりました」なんて柔らかい声で言ってくれるから、照れる気持ちをのみこんで身体を寄せる。
 リモコンを置いた右手が視界からきえて、ふわり、頭のうえに乗る。さっき洗い物をしてもらう前より、ていねいに、しっとりと。それは髪を撫でつけるように動いて、頭のてっぺんに戻ってきて、また同じ動きを繰りかえす。一見すると単調にみえるのに、それでいて一回一回に恵くんの息遣いが感じられる手つきに、胸がきゅっとへこむような心地がした。自惚れじゃなく、たいせつにされていると思った。
 すると、髪に触れていた手がとつぜん頬にすべってくる。親指がすりすりと頬骨のあたりを撫でて、どくん、心臓が跳ねた。ぐ、と力のこもった手のひらに導かれるみたいに上を向けば、先ほど逃げた視線に追いつかれる。まっすぐに射抜くような瞳に見つめられるのは、好きだけど、苦手だった。息ができなくなる。胸が痛くなる。あんまりにも好きすぎるせいで、身体がいうことを聞かなくなるからだった。
「めぐみくん、」
 意味もなく名前を呼ぶと、その声に意味を持たせるみたいに、恵くんがゆるりと近づいてくる。まるで私が、名前を呼んでキスをねだったみたいに。そうじゃないけれど、でも期待していたのも事実で、抗えない恥ずかしさに耳まで熱くてたまらなくなっていた。
 そっと唇がかさなって、一瞬で、離れて。名残惜しさすら感じる短いキスは、恵くんの精いっぱいのいじわるだ。
「足りないんですか」
 耳に響く心臓の音にじゃまされて、うまく声が出せない。恵くんから目を逸らしたくなくて、うまく頷けない。視線だけさまよわせていると、予想に反して、恵くんはすっと身を引いてしまった。高まっていた熱が、ひらいた距離に冷まされる。
「……はぁ、もうすぐ年越しですよ」
 ぐしゃぐしゃと頭をかきながらそうつぶやいた恵くんが、すこしだけ気に入らなかった。私はてんで冷静でいられなかったのに、年越しのタイミングなんかを気にする余裕があったなんて、と。そんな理不尽な思いを抱えながら、「年越しだから、なに?」とぼやく。
「なに、って」
「……」
「……煽ってるんですか?」
 ソファが軋む。また、距離が近づく。時計の針が、ちいさく鳴っている。テレビは暗く消えたまま。年越しまであとわずか、ふたりの部屋には甘い空気が満ちている。どうか、この夜をなぞっていられますように。







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