ほどなく溶けだす淡い目眩



 疲れた。

 今日の任務は重たくて、心も体も疲れ切っていた。真っ暗な家に帰ってしばらく、リビングの真ん中でぼんやりと座り込んでいると、玄関から鍵の開く音が響く。ぱたぱたと足音が近付いてきて、なんとか表情を明るく見せようと少し力を入れた。

 
「あ! 恵くん、帰ってたんだね」
「……おかえりなさい」
「……恵くんも、おかえりなさい。お疲れさま」


 同棲している彼女とはそれぞれ別の任務で、「お疲れ様です」とこちらも労いの言葉をかけてみるも、溢れていったのは沈み切った声。ぱちぱちと数回まばたきをして、それから「ありがとう」なんて笑う胡桃さんから、そっと目を逸らした。
 ……あぁそうだ、今日は俺が晩飯の当番だ。どちらかが非番なら家にいる方が作っているが、互いに仕事が入っていれば交代で食事を用意するのが俺たちのやり方だった。


「恵くん、」
「……すいません、シャワーだけ浴びたらすぐ、飯作るんで」


 そう言って立ち上がった途端、強めに腕を引かれて。突然のことについ少しだけよろめいてしまった。そして「恵くん、ついてきて」と胡桃さんが俺を引っ張っていくから、されるがままに着いていった、けれど。


「や、ちょっと」
「いいからいいから」


 彼女が開けたのは寝室のドアで、暗がりの中のベッドに廊下の照明が落ちて──いや、さっぱり状況がわからない。首を傾げている間に後ろに回り込まれ、そのままぐいぐいと押し入れるみたいに背中に圧をかけられて。ひとしきり押し込んだかと思うと、ベッドに飛び込んで「休憩したいんだけど……付き合ってくれる?」なんて胡桃さんは手を広げてみせるから、突飛な行動すべてについていけなかった。


「……は?」
「……あっ、あ、勘違いしないでね、へんな意味じゃないよ……!」
「いや、分かってますけど……」


 とにかく、こっちおいで。そう言って薄ぼんやりと暖色の明かりに照らされて、優しく笑うその表情が見える。思わず、目を細めた。

 シャワー浴びてえのに、とか。晩飯作らねえと、とか。そういう義務感が覚束なくなって、心に巣食う疲労がじわじわと溢れ出して、気付けばゆっくりベッドのほうへと足を進めていた。


「恵くん。……座るんじゃなくて、いっしょに寝転んでほしいな」
「……ん」
「私ちょっと疲れちゃったから、10分だけ……ご飯はその後で大丈夫だからね」
「……わかり、ました」


 言われるがまま隣に寝転がると、そっと胡桃さんが身体を寄せてきた。そのまますぐ、細い腕が背中に回されて……ぴたりとくっついた柔らかさから温もりがじんわり染みて、少しだけ乱れた髪からはほんのり甘い香りが漂ってくる。
 ──その瞬間。ぴんと張り詰めていた気が緩んでしまったのが、自分でもわかった。ぐん、と一気に瞼が重くなって、慌てて引き剥がそうとしたけれど、「もうちょっと」なんて胡桃さんが縋り付いてくる。俺よりも小さな身体にはそんな力はないはずなのに、まるで抱き枕みたいにいっぱいいっぱいに抱き締められると、どうしてだか無理に離れることもできなくて。


「駄目、です、……飯、作んねえと」
「あとでいいよ。……だからまだ、」


 もう一度、駄目だと言おうとしたのに。瞼がどうしようもなく下がっていって、口すら動かすのが億劫になって──そうして俺は逆らえないままに、あっさりと眠りに落ちていってしまった。



◇ ◇ ◇




 ゆらゆらと意識が浮き上がったのは、ほとんど空腹のせいであるような気がする。まだ心地よい微睡みのなか、漂ってくるいい香りに腹の虫が鳴いて、……そこで、跳ね上がるみたいに飛び起きた。いつの間にか被っていた──いや、おそらく掛けてもらったのであろう毛布が、ベッドの下に音もなく滑り落ちる。

 慌てて寝室を出てキッチンに向かうと、その足音に驚いた様子で胡桃さんが振り返った。「もう起きて大丈夫なの?」とエプロンをつけたまま首を傾げていて、その手にはおたまが握られている。……胡桃さんに、夕飯を作らせてしまった。情けなさに顔を覆いながら、それでも呑気に腹の減る身体に苛立ちが募る。


「すいません、……俺、どれくらい寝てましたか」
「えっと、二時間くらいかな」
「晩飯……あークソ……すいません……」
「そんな、謝らないでよ恵くん」


 顔を上げれば優しい微笑みがそこにはあって、「顔色、よくなったね」なんてどこか安堵の滲んだ声で胡桃さんが言うから、むず痒くなって目を逸らしてしまった。

 ……多分、彼女の言った「休憩したいの」ってのは嘘だ。疲れてはいただろうが、きっと彼女自身がそうしたかったわけじゃなくて──俺があからさまに疲れた様子でいたせいで、気を遣わせてしまったんだろう。不甲斐なさやらなんやらで「本当にすいません」と呟くように謝罪を繰りかえすと、胡桃さんはふるふると首を横に振った。どうしてだか満足げに、「恵くんが謝ることじゃないよ」なんて言って。


「恵くんには、私がごろごろしたかったのに付き合ってもらっただけだもん」
「や、でも胡桃さん……」
「その途中で、恵くんが寝落ちしちゃっただけ! ね、だからしかたないよ。私のせいだから」


 キッチンに向き直ってしまったその背中を何も言えずに見つめるうち、目頭がじわりと熱くなって。情けなくて、でも有り難くて安心すら広がって、ぐっと狭くなった肺に思い切り息を吸い込んだ。


「そうだ、お風呂も沸いてるけど、どっちが先、に、」


 また振り返った胡桃さんの髪がふわりと揺れたとき、気付くともう手を伸ばしていた。細い肩を力任せに掴んで引き寄せて、そのまま腕のなかに閉じ込めて。ずっと低いところにある首元に、無理やりに顔をうずめた。頬に触れる髪が柔らかくて、シャンプーの香りが心地よくて、背中に回された腕がやさしくて、堪えようもなく睫毛がほんの少しだけ濡れる。

 詰まった声でまた「すいません」と絞り出すと、「謝ってもらうより、お礼の方が嬉しいな」なんて、穏やかな胡桃さんの声が頭の奥に響く。どうしようもなく愛おしさが迫り上がってきて、その気持ちをすべて乗せるみたいに腕に力を込めた。



20210514
title by「静謐甘美秋暮抒情」/ UNISON SQUARE GARDEN



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