不恰好なスタートライン


「記憶の撹乱作用……?」
「自身だけでなく、個性で生み出された物質……花弁、ですね。それに触れた人間にも、軽い記憶障害を引き起こしている可能性が極めて高いです」
 そうお医者さんから語られて、私の“花吹雪”がただ単なる花びらではないことが判明したのは、騒動の翌日の臨時休校日だった。

 怪我自体は軽傷だったものの、明らかに調子がすぐれないようだった私は親や先生の勧めもあり、帰宅後すぐにかかりつけの病院に訪れていた。打撲に湿布を処方してもらい、「よく休養をとってください」で終わってしまいそう、だったけれど。あのとき敵に言われた「戦意を喪失していた」なんて話がずっと引っかかっていて、思い切って相談してみると、あれよあれよと検査がおこなわれて。翌日聞かされた結果が「花びらに記憶の撹乱作用がある」なんて、寝耳に水にも程がある話だったのだ。
「それは……私が個性を当ててしまった相手も、直前のことを忘れちゃったりしてた、ってことですか……?」
「恐らく。『戦意の喪失』とは、そういう状態のことだったんでしょうね」
 ぞわ、と背筋に冷たいものがはしった。私、なんにも考えてなかったけど、そんなことが起きてたなんて……。USJでの実習前、13号先生の言っていたことが頭を過る。一歩間違えば人を殺せる、そんな個性もあって、私は……。直接命に干渉したりはしないけれど、これは私が苦しんできたこと、大変だったことを、簡単に他人にもぶつけられてしまうってことだ。付き合ってきた個性に、ほんの少し分かり合えたと思っていた自分の中のそれに、また漠然とした恐怖が芽生えてしまいそうだった。
 危険性のある個性だったのに、と。もっと早い段階で気がつけなかったことを先生には謝られてしまったけれど、その事実もまたじわりと胸に染みを残してゆく。

 母も大層驚いていて、けれどただ驚いているわけにもいかなかった。役所に行って個性届を出し直して、学校にも申請に行く必要がある。学校に連絡すると、今日のうちに済ませてしまいましょうという返答が来てしまった。
 先生方と母は別で話をするらしく、ひとりで通された空っぽのA組で待っていれば、車椅子に乗った、明らかに重傷極まりない相澤先生が現れてつい小さく悲鳴をあげてしまった。「俺のことはいい。担任としての仕事だ」なんて、私のおどおどした心配を跳ね除けてしまうから、私は心の準備なんかする暇もないまま、相澤先生に洗いざらい話さなければいけない状況に追い込まれてしまう。
「個性に……記憶の撹乱作用があるって話だったな」
「は……はい……で、その……」
「記憶障害が起きるのは、お前自身だけじゃなかったってことか」
「は……えっ」
 どうやって話そう、隠してたことをどう謝ろう、なんて。もたもた考えていたというのに、初手で思いっきり核心をつかれて息が止まってしまった。口をぱくぱくさせるしかなくなった私に、「気付いてないとでも思ったか」って、気怠げに相澤先生は言う。
「あの、はい……思ってました……」
「言い訳は」
「じ、自分でなんとかしたくて……」
「合理性に欠くね」
 ……返す言葉もない。事実として、入学間もないのにたくさん失敗している。自分自身の危うさもだし、これは私自身も知らなかったから仕方なかったとはいえ、USJでは余計に敵を刺激してしまったような気だってしていた。恐らく相澤先生に見えていないのをいいことに、泣きそうに歪む顔を隠しもせずに唇を噛む。「灰咲」と呼ばれて、なんとか声を張って「はい」って返したつもりの声は、やっぱりぐにゃぐにゃと頼りなかった。
「お前は何のために雄英(ここ)に来た?」
「ひ、ヒーローに、なるためです」
「だろうな。だが、そのためにリスクばかり取ってどうする」
 胸元の重い塊で声を詰まらせている間に、「そんなことすらわからないんなら除籍してやってもいいが」なんて、とんでもない言葉に、さっと血の気が引くような心地がした。「次はないからな」って、そう言われて返した返事は、声になっていたかわからない。
 ……でも。
「ここは雄英高校だ」
「……」
「学べ。使えるもんは全部使え。お前の未熟さは甘えでもなんでもない」
 抑揚もなく、お世辞にも激励なんかには聞こえないトーンの声だったのに。シンプルな言葉がまっすぐ心の真ん中に飛び込んできて、そうやって揺さぶられた心は、ぎりぎりで堪えていた涙腺をあっけなく崩してしまった。ぽろ、ぽろ、勝手に溢れる涙を袖口で拭うけれど、きっともう相澤先生にはバレているに違いない。身じろぎしたのか、ぎし、と車椅子が軋む音がした。
「ヒーローになるため、ねえ。こんなことで泣いてる奴が」
「っ、う……すみま、せん……」
「迷わずそう言えた心意気だけは買うよ」
 そうため息混じりに言ってから、「あともう一つ」と、まだぐすぐす泣いている私に構わず先生は話し始める。返事をする余裕もなかったけれど、たぶんもう先生は気にしないだろうとそのまま続きを待った。
「危ない個性だと思っただろうが、まだまだお前のはヌルい方だ。あっさり殺せる個性もあるから、これぐらいで心配する必要はない」
 …………こ、これも、激励かな。果たして……安心していいんだろうか。物騒な言葉に心がざわついたけれど、けれどなんだか同時に、それくらいの余裕も取り戻せていた。“心配する必要はない”を、滑り込ませるだけの隙間を。鼻をすすってしまいながらも、たしかに身構えすぎていたかもしれない、と何度か頷いた。
 そうだ、それに。ちゃんと救けてくれる人がいるんだって、まだまだ短い時間しか雄英で過ごしていないのに、そう思える出来事がいくつもあった。そんな優しさに触れて、きっとほんの少しだけど、前にも進むことができている。……昨日の、轟くんのおかげで起きたことだってそう。私は今までたくさん躓いてきたけれど、この先はそれだけじゃないのかもしれない。まっすぐ向き合ってみたいって、もっと強く思うことができた。

「はい終わり。じゃあまた明日」
 そうして私が感傷に浸りかけたところで、あまりにもあっさり話を切り上げた相澤先生は、きぃ、と音を立てて車椅子を動かした。慌てて「また明日」と返そうとして、いや、まって、先生はこの大怪我で明日も来られるの……?
 けれど思いの外するすると動いて出口に向かってゆくから、のんびりそんなことを訊ねている暇もなく。ただ精一杯、「ありがとうございました」って、まだ震え続けている声を背中に投げかけておいた。先生は何も言わなかったけれど、きっと、ちゃんと受け止めてくれたはず。



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