射し込んではじまり


 あの日……轟くんと話をした帰り道から数日経ったけれど、はっきりとその話題が私たちのあいだに上ることはなかった。でもなんとなく、本当になんとなく。手助けしようとしてくれている気が……しなくも、ない。自惚れだったらとっても恥ずかしいけれど。
 宿題やってきたか、とか。今日の英訳は指名されると思うぞ、とか。そんな些細な、けれど思い出せないと困ることを声掛けしてくれることがたまにある。幸いにも忘れていることはなかったのだけど、その心遣いが嬉しくて、お礼を告げる声もはずんでしまったような気がした。

 ──名前ぐらいいつでも訊けばいい。もう謝らなくていい。きっと他意はなく、そのまま思ったことを言ってくれたのだろうけど。……いや、だからこそ。心強いと思った。轟くんの考えていることはハッキリとはわからないけれど、特に話を蒸し返さないでいてくれることも含めて、ありがたいと思った。
 その視線の鋭さもあるせいなのか、よく知らないとどこか冷たく見える轟くん。でもきっと、冷たくも怖くもないはずだと感じた。そうでなければ、思ったままにあんな言葉は出てこないだろうから。


◇ ◇ ◇



 今日の午後は人命救助訓練だそうだ。レスキューというのはまさにヒーローの本分だけれど、果たして私にできるだろうか……そんな余計な不安が付きまとう。バスで移動するという大掛かりさも、肩の力が入る原因になってしまった。
 委員長の飯田くんの誘導に沿って並んで、順にバスに乗り込んでいく。そして奥の方から順に埋まっていく席、なんだか座れそうな場所は、轟くんのとなり。
 ……え、どうしよう。なんとなく立ち止まってしまったせいで、もう座席に落ち着いている轟くんと目が合ってしまった。たぶんもう少し後ろの方も空いていて、けれどここで目を逸らしたらなんだか心象がわるい、ような。みんなが次々と着席していく中で立ちっぱなしの私と、視線の先には表情の読めない轟くん。
「……座んねえのか」
「……座ろっ、かな」
 なんだか、なぜだろう、いつも前後に座っているのに、となりというだけで無駄に緊張してしまって、返事が情けなくつっかえた。ふいと顔を背けてしまった轟くんの横に「失礼します」と言葉を添えて座ると、「別に失礼じゃねえだろ」とひとこと返ってきて。思わず、かるく吹き出すみたいに笑ってしまった。
「どうした」
「な、なんでもないよ」
 まじめだな、轟くんは。そのまじめな返事に笑ってしまったことに申し訳なさは感じるけれど、どこか砕けた轟くんの内面にふれられたような気がした。……ちょっと、嬉しいかも。頬が緩みそうになるのを堪えながら、ほどなくして走り出したバスに揺られていた。

 みんなが思い思いに話す中、となりに座る轟くんは黙りこくっていたから、なんとなくそちらを見られなかった。別に話したいことがあったわけでもないけれど、沈黙が続くというのもいただけない。何か話しかけようかな、そう思いながらこっそり轟くんの顔を覗き見るのと、私たちの外側からその轟くんに話題が振られてくるのは、ほとんど同時だった。
「派手で強えっつったらやっぱ、轟と爆豪だよな!」
 ざっ、と音を立てたみたいに、私の横に座る轟くん、それからおそらく斜め前に座る爆豪くんにクラスの視線が集う。私が見られているわけでもないのに身体が硬くなって、縮こまってしまった……けれど。何と驚いたことに、ちょうど視線を遣った当の本人は、静かに静かに目を閉じていた。寝て、る……? 結構がやがやしていたのに。なるほど、轟くんはどこでも眠れるタイプかな。
「爆豪ちゃんはキレてばっかりだから人気出なさそう」
 ついつい轟くんを観察してしまっていると、おもむろに梅雨ちゃんがそう言って──勢いよく、斜め前にあるクリーム色のツンツン頭が動く。そして身構える暇もないまま、「んだとコラァ出すわ!」なんて、噛み付かんばかりの大声が爆ぜるみたいに広がった。びくり、ほとんど反射で肩が跳ねる。
 私の前、つまり爆豪くんの隣に座る響香ちゃんも大きく身体をそらしていて、うん、びっくりするよね。ビビるよね。そして、ついさっきの梅雨ちゃんの言葉にほんの少し納得してしまったり……絶対、絶対口に出せないけれど。
 けれど、それよりも驚いたのは。それからも爆豪くんが真ん前で大声を出しているのに、腕を組んで目を伏せた轟くんが微動だにしないことだった。

 先ほど名前が上がった轟くんだけど、もうすっかり爆豪くんを中心に話が盛り上がっていて、ここに集まったクラスの視線はすでに散り散りになっていた。
 なんとなくもう一度、眠ったままの轟くんを盗み見てみる。バスの窓から次々と差し込む陽射しが、轟くんの長い睫毛をちらちら照らしていくのが映った。ぴりつくような冷たさは身を潜めて、透かされるのはその内にある柔らかさかもしれない。そう、今日みたいな、のどかな春光がよく似合うような。
 前からすこし気になっていたけれど、左目のまわり……火傷、かな。いや、個性からして凍傷だったりするのかな。すっかり跡になっているから、きっと昔にできたものなんだろうけど。もう痛くないのかなと、そんなことをふと思った。
「もう着くぞ、いい加減にしとけ」
 そこでバスに響いた、相澤先生の声。
 はっとして座り直そうとすると、ぱちり、そんな効果音がつきそうに瞼が上がる。前触れもなく。轟くんの瞳が現れて、ふらふらと私を捉えて。気怠げに瞼が落ちてまた開くまでを、呆然と眺めてしまっていた。そのうちに、ぼやけた目の焦点が合って。視線がたしかに交わる。それは不思議そうに緩む。
「灰咲?」
「あ……えと、も、もう着く、って!」
 どうしよう、見ちゃってたの……バレた、かな。返事を待たずに前に向き直りながら、轟くんの「そうか」を静かに聞いた。どくどくと動き出しそうな心臓に、今はそんなことを思っている場合じゃないと言い聞かせて。目的地に着いたらしいバスが停まろうとするその時、くっついた自分の膝を食い入るように見つめていた。

- ナノ -