夜空にばらまいて




その日の夜だった。床につく前に外の空気を吸いに出ていたところに、遠慮がちな足音を携えた来客があった。いっとう心地の良いその声が「善逸」と俺を呼ぶから、本当は笑顔で応えたかったけれど、落ち込んでしまった感情が帰ってこないままに「どした?」なんて抑揚のない声で返事をしてしまって。でもそれを、すぐさま後悔した。こんなことではなにか勘付かれてしまうかもしれないし、そもそも素っ気ない態度を取ってしまったことも申し訳がない。すこしの沈黙の後に、俺を慮るようなひかえめな音が夜風に混じった。


「……善逸、なにか、悩みでもある?」


…やっぱり。投げ掛けられた優しいことばに、思わず動揺した。きっと隠しきれていないまま「大丈夫だよ」と大嘘をついてしまうと、俺のものではない心音が不安定な色を混ぜ込んだ。「なんか眠れないだけ」と付け足すけれど、その音は治まりそうにはない。


「じゃあ……なんか、企んでるでしょ」
「……いや、なんも。企んでるって人聞き悪いだろ」
「だって善逸、ここ何日か余所余所しいよ」


あんまり、いつもの彼女からは聴こえない音だ。うねるみたいにしながら、俺を疑って探る音。俺を想う柔らかい響きが混ざっているからいいものの、これがなかったら尻尾を巻いて逃げ出しているところだ。
さく、さく、足音が近付いて。隣に腰掛けてから俺をじっと見つめてくるから、なんとなく気まずくなって視線を逸らして、大きく息を吐き出した。


「善逸。ため息つくと、しあわせって逃げちゃうらしいよ」
「……深呼吸だし」
「ふーん……で、どうしたの」


どうやら俺を逃がす気はないらしくて、視線は戻さないまま立てた膝に口元を埋めた。半ば投げやりになりながら「実はさ」と籠る声で話し出すと、「うん」と応える声がいくらかやわらかくなった気がした。


「そろそろ……お暇しようと思ってさ、炭治郎の、家」
「…え」


どくん、と跳ねたのは、俺の心音じゃない。流れる血の音が加速していって、ああ、そうだよな、驚くよな。でも、てっきり怒りや悲しみといった類いの音に変わってしまうんだと思っていたそれは、予想に反してゆっくりとその勢いを落としていく。


「…まあ、そうか、そうだよね。いつまでもお世話になってるわけにいかないしね。いつにしようか、禰豆子ちゃん達に早めに伝えておかないと」
「あ、え? ああ…」
「…え、なにその戸惑い方…? いま善逸が言ったことなのに」


なんだか、不思議そうに首を傾げているけれど。まるで当然みたいに一緒に出ていく口ぶりに、俺の方がすこし焦りを覚えてしまう。目が泳いでいるのを自覚しながら、「…つ、ついて、きてくれんの?」と声を絞り出してから、俺は自分の浅はかさに気付くことになった。


「え、どういうこと?」
「や、だって……毎日楽しそうだし、なまえjjはまだ此処にいたいのかなって……」
「ひとりで、出で行こうとしてたってこと?」
「……まあ、平たく言えば……」


とん、と跳ねた彼女の心臓が、今度は俺が先ほど予想したように動き出す。そう、激しくなる血流とともに心拍数がどんどん上昇して、これは。注意深く聴かなくたって解る、怒って、いる。


「置いて行くつもりだったの…?」
「いや、そういうわけじゃ……」
「そういうわけじゃんか! ひどいよ善逸」
「ご、ごめんって! でも…」
「なに」


腕を組んで、じとりと俺を見つめる彼女。その静かな迫力に戸惑って俯いてしまったり、この気持ちをどう言葉にしようかと思案したりしながら口籠っていると、突然「楽しくなかったの?」と。先刻より幾分沈んだ声色で問いかけてくるから、あわてて隣に視線を遣るとひどく哀しそうな顔をしていた。


「私、全部終わって、みんなと…善逸と平和に暮らせて、すごく楽しかった。もしかして善逸は、そうじゃなかった?」
「……いいや」


楽しかった。すごく楽しかった。けれど、楽しいだけでは、なかなか救われなかった。

なまえが小さく息を吸い込んで、吐き出す。言葉を選んでいる。なにも言えない俺のために。どうしようもなく情けなくなって、半ば投げやりに「俺って」と話し始めると、声がすこし掠れた。でも、なまえは「うん」とその動きを止めて、俺の言葉を待ってくれる。


「……必要ないよなって、思って」
「……え?」
「俺がいなくても、いい事、ばっかりで、さ」


やわらかい夜風。森が唸る音。俺たちの心音。血の巡り、息遣い。
そんな平穏な音の中、彼女は顔色も音もほんの少しも変えることなく、言い放った。


「私には、善逸が必要だよ」


草履が砂利を踏みつぶして、じゃりと音を立てた。立ち上がった彼女の後ろ姿に、無意識に手をのばしていた。


「それじゃ駄目?」


振り返った彼女が、伸ばした手を握ってくれた。
けれど。
温もりを握りかえそうとすると、柔くそれは解かれる。なんで、そう言う前に、なまえはいたずらっ子みたいに笑った。


「2日の夜に出よう」
「……え?」
「誕生日の前日。お別れ会とお誕生日会しよう」
「や、でも……」
「はい、善逸に拒否権はありません。断るなら、私を置いていこうとしたこと許さないんだからね」


腕を組んでみせたその細い肩が、月影にふちどられて揺れる。
なまえの考えることが、わからない、けれど。渋々「わかったよ」と応えると、満足げになまえは笑った。


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