晩夏の残照




重たい雪があとかたもなく溶けたのは、あの戦いの傷が癒えてきたころだった。皆で眺めた桜も、その役目を終えるように散っていった。炭治郎の家にお世話になるようになって、山暮らしで雨が続くというのはなかなかに辛いことだと知った。茹だるような暑さの中でも、薪仕事や家事に汗を流すのは存外心地が良かった。

頬を撫でる風が、涼やかさを含み始めたような気がする。まだ蝉の声は止まないが、たしかに小さく、静かになっていくのが俺の耳には届く。
そろそろ終わるんだ、夏が。




・・・





最終決戦の後から炭治郎の家に住まわせてもらうようになって、もう5ヶ月が経とうとしている。抜けるような空の下、薪を割り終えて座り込む俺に、見慣れた影が近づいてきた。


「善逸、お昼ごはんできたよ」
「あ、うん、ありがとうねえ」


炭治郎の家には今、役割を分担しながら5人で住んでいる。
炭治郎、禰豆子ちゃん、伊之助、俺、それからこの子、なまえ。俺となまえはいちおう、まあ恋仲というやつで、自然と連れ立って炭治郎にお世話になることとなっていた。
今日は炭治郎と伊之助が朝から街へ降りて炭を売っているが、耳を澄ますと山道からふたりの音が近づいてくるので、昼食を摂りに帰ってきたらしい。

斧を立てかけて、首にかけた手拭いで汗を吸う。のどかだ。安穏で、平和だ。素晴らしくずっと望んでいた事のはずなのに、鬼を狩ってその為の修行を欠かさなかった日々と比べると、あまりの平穏さに落ち着かなくなる時がある。


「どうしたの? 善逸、おなか空いてない?」
「え、なに、俺そんな顔してた?」


一瞬だけなまえから聴こえた不安げな音は、俺が作った笑顔で掻き消える。彼女も俺と同じにふわりと笑って「ううん、早く食べよっか」と歩き出した。


だって、あまりにも静かだから。
違うよ、暮らしは毎日賑やかで楽しいんだ、煩いくらいに。炭治郎と伊之助は相変わらずだし、女の子ふたりもすっかり仲良くなったようで、家の中はいつだって明朗な音に溢れている。

それから、皆が協力し合っていて。炭治郎は炭焼きの勝手を知っているから、それで生計を立ててくれる。元鬼殺隊の本部が隊員の生活を保障してくれるとはいえ、自分たちで稼ぐことも当然大切だしな。伊之助は山を熟知しているから、食糧や資源をうまく確保してくれる。なまえと禰豆子ちゃんは家事全般を、男の手伝いなんて全くいらないほどに卒なくこなして、生活を支えてくれている。

そんな日々の中で、俺はどうだ。大してできることもなく、皆の得意分野を横からつつくだけ。炭売りに引っ付いていったり、家事にちょこちょこと手を出したり、こうして間に合わない雑用を請け負ったり。
何が得意なわけでもないから、剣を握らなくなってしまえば何をしたらいいのかさっぱりだ。

この心の靄をなんとか一言で表せばきっと、“不安”だ。
刀を握らなくても良い、誰かのために戦わなくてもいい、そんな俺に存在価値はあるのだろうか、と考えてしまう。滑稽だ。あんなにも戦いたくない、恐ろしいと泣き喚いていたってのに。

それに、だ。どうしたって何も持っちゃいなかった俺を大切にしてくれたじいちゃんは、もういない。俺が一方的であれかけがえのない存在だと思っていた兄貴も。それから、授かって培ってきた剣術を役に立てる場所だってもうない。
いろんなものを取りこぼした。俺のせいで。なまえがそばに居てくれるのは本当に有難く嬉しいことではあるけれど、彼女だってこの手からこぼれ落ちていくんじゃないか、そんな気持ちがずっと消えなくて。また自分のせいで落っことしてこんな想いをするくらいなら、そうなるまえに離れてしまった方がいいんじゃないかとさえ思うのだ。
悲観的すぎると言われてしまえばそれまでだけれど、仕様のないことだとも思うわけで。ああ、皮肉なことに、逃げ出したくなるのはずっと変わっていない。


膨れ上がって心を圧しつけてくるこの不安を、なんとか隠すのもそろそろ限界が近いように感じていた。
ひとりきりで此処を飛び出してしまいたい、欠け落ちそうなちっぽけな自尊心を守りたい気持ちと。幸せを手放したくない、未練がましく図々しい気持ちとがせめぎ合う。
答えが見つからないまま、またひとつの季節が終わってゆく。


「ぜんいつー!早くおいでよ!」


底抜けにあかるいその声に、つい止めてしまっていた足をゆっくりと動かした。



こころの天秤がふらふらと頼りなく揺れて、どちらに落ち着くこともできないまま。支点が軋んで、耳障りな音を立てているような心地がする。

そもそも、いつまでも此処でお世話になるわけにはいかないとは思っていた。亡きじいちゃんの屋敷にときどき通って、現実と向き合うのには時間がかかってしまったけれど、なんとか受け入れつつ。お館様に相談して、あたらしく住む場所を手配していただいたり、仕事の目星をつけてみたり。気持ちがきちんと追いついているのかは別として、必死に前を向こうとする姿勢だけはとっていた。

ただ、どうしても。なまえとのこれからが、なかなか決められなかった。
俺のいっとう大切で大好きな女の子と、離れたいはずがない。でも一緒に来てくれなんて頼むことは最早求婚に等しくて、いや誰彼構わず求婚していたような奴なんですけど、ごめんなさいね、それが現実味を帯びてくるとどうも駄目だった。すこし前…つまり俺だって誰かの役に立っていた頃ならば、ほんの少し違ったのかもしれないけれど。今、こんな不安を抱えながら本気の求婚をする勇気など、とてもじゃないが湧いてきやしない、し。


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