鴉を殺し




瞼が重い。人酔いの気持ち悪さと、耳に残る黄色い歓声。ああいう場所は嫌いじゃないけれど、疲れてしまうことはどうしたって避けられない。ゆっくり身体を起こすと部屋は相も変わらず真っ暗なままで、ひとつため息をこぼした。

私は今日、国民的アイドルのバースデー公演に足を運んでいた。全身を余すことなく黄色につつみ、ペンライトを振りながら、ステージで輝くきらきらの笑顔を追いかけていた。我妻善逸。それが私がずっと、デビュー当時から…いや、それよりずっと前から、応援し続けてきたひとの名前。
ずっと前、とは。彼がアイドルになるよりも前、なると決意するよりも前から、私は善逸のそばにいた。立場上おおっぴらにはできないけれど、私が善逸の恋人、だから。そして今日もこうして、二人の家で善逸の帰りを待っている。

スマホの時計を見遣ると、9月4日の、深夜1時をすこし過ぎたところ。たしか私は十時ごろに帰ってきたはずだけれど、前述のコンサート疲れで、シャワーだけ済ませて眠ってしまっていたらしかった。


「バースデー公演、複数してもらうことになったから、3日は一緒に居られないかも」と、複雑そうな表情で言う善逸の姿を思い出す。そんなイベントをしてもらえるまでになったことが嬉しかったり、ファンを蔑ろにしたくなかったり、でも、私と誕生日を過ごせないことが、残念だったり。いろんな感情が綯交ぜになった顔をして、黙って抱き竦めてくる善逸の背中を、優しく摩ってあげた、けれど。
本当は私だって残念だった。きっと善逸は音でわかってしまっているのだろうけど、それでも、彼の仕事の負担になりたくない。そんな強がりを抱えたまんま見送った。

だから公演前日から会場近くに泊まり込んでいる善逸と、この9月3日という大切な一日に、会うことはおろか電話もしていなかった。一方的にコンサートへは出向いたし、気づいてくれていたのかなとは思うけれど。


「日付、変わっちゃったな」


ぽつり、つぶやきが闇に溶けていく。それ以上は言葉を継がなかったし、返事もなかった。

ぜんぶ仕方がないんだってわかってるよ。でも。去年までは、1日ずっと仕事場にすし詰めなんてことはなかった。人気が出てきた、成功した、夢が叶った。それゆえのことだと解っているのに、私情をはさみこんでしまうことが堪らなく嫌だった。
情けない。目元が熱くなる。思い切り息を吸い込んでから起き上がったとき、玄関の鍵が、あいた。

がちゃり。無機質な音の主は、ひとりしかいない。いや、でも。数時間前に公演を終えた会場はここから、車で1時間ほどかかるはず。こんな深夜に善逸がマネージャーさんに無理を言うはずもない。これは、一体。
混乱を解くひまもなく、バタバタと足音が向かってくる。扉が開けられて、廊下をてらすオレンジ色がベッドルームに飛び込んで。それを背負って立つ黒い影は、ぼんやり金色にきらめいていた。


「……ぜんいつ?」
「…っはぁ、ただいま、つかれたぁ」


扉を閉めないまま、よろよろと…本来ここにいないはずの善逸が、こちらに向かってくる。夢? まだ寝ぼけてる? そんな私の戸惑いをものともしない善逸は、半端に身体を起こした私ごと、ふかふかのベッドに飛び込んだ。


「えっ、ちょっと、善逸」
「んー?」


本物だ。抱き竦める力も、重みも温もりも、ほんのり香る汗と、香水の匂いも。どうやらこれは、都合の良い夢ではないらしい。


「なんで…?」
「帰ってきちゃった。タクシー乗り継いで」
「は……」
「なに。だめだった?」


だめじゃない。だめなわけない。でもどうして、そう戸惑う音は筒抜けらしくて、善逸は私を閉じこめたままちいさく笑った。


「お前の声で聴きたかったから」
「……なにを?」
「ねえ、ちょっと、酷くない?」
「ごめんごめん、わかってる、よ」


ああ、だめだ。ずんと沈み込んだ気持ちが、かえってこない。自然と唇が尖ってしまって「でも…」と、かわいげのない言葉を吐き出す準備をはじめる。


「コンサートで言ったよ」
「ん、え?」
「せーの、って善逸が掛け声かけたあと」
「……それじゃ、だぁめ。ねえ」


くっついていた身体が離れて、視線がかち合う。いつも琥珀みたいにかがやくその瞳は、暗がりでいっそうよくひかめいていて、潤み始めた目をそらせなかった。


「お前だけの声で聴かせてよ、ちゃんとさ」


はっと息を呑むと、まるでそれを狙っていたかのように唇が触れあった。やわく、緩く。数回そうして押し付けてから、次はあつい舌がそこをなぞる。隙間を見つけてねじ込まれて、咥内をゆっくりと犯していく。
すがりつくようにシャツを握ると、善逸の大きな手が私の髪をかき混ぜた。そのうち頭のうしろ側に落ち着いた手に、強く引き寄せられる。くるしい、けど、気持ちいい。まるで水面に浮かんでいるかのような、不確かな感覚に包み込まれながら、絡められる舌に必死に応える。


「言ってくれる?」


ほんのすこし離れて、濡れた唇がわずかに動く。今度はそれに一瞬だけ、私から触れた。
すこしだけ見開かれた目を見つめて、まだ震える声を絞り出す。ううん、ちがう。落ち込んでいるからじゃない。善逸にほしいものをちゃんと貰えたから、ここにあるのは余韻だけ。


「善逸、お誕生日、おめでとう」
「……ん、ふふ、ありがと」


そのまま乗せてあった手を動かして、くしゃくしゃと髪を撫でてくれた。自分で言っちゃいけないけれど、一等愛しそうな、甘ったるい表情で。


「お前に貰う音が、いちばん嬉しいんだよ、俺」
「…善逸」
「今日の最後、お前の声で聴けてよかった」
「……もう4日だよ」
「ばか。まだ3日だよ。9月3日、25時」
「ええ? なにそれ」


ふふ、おでこをくっつけて笑い合う。自然と鼻が触れ合って、どちらからともなく唇を重ねて。睫毛まで触れ合いそうな距離で、お互いの瞳の光をたしかめあった。


「あしたも、朝から?」
「……うん。結構早い、かな」
「そっか、無理させてごめんね」
「ばかね、お前。無理なんかじゃないし、俺がお前に会いたかったんだよ」


そう言って、善逸はとびきりの笑顔をみせてくれた。きっと、自惚れかもしれないけどきっと、今日見せたどの笑顔よりも明るく、きらきらと幸せを纏って。


9月3日、25時20分。さしこむオレンジに照らされて、ベッドに沈む、あなたとふたりきりの誕生日。このままずっと9月3日ならいい。朝が、来なければいいのに。



(三千世界の鴉を殺し、主と朝寝がしてみたい)


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