ながれゆくコンチェルト


 初夏の風が頬を撫ぜていく。日本とはまるで違う、湿りけのない軽やかなそよ風。手元のページが小さく音を立てて捲れて、隣に座る春日井さんが「あっ」と小さく声をこぼした。
「今日は風強いね」
「そうですね。気持ち良いんですけど……」
「ん?」
「髪の毛くしゃくしゃになっちゃう」
 困ったように笑って、髪を押さえる春日井さん。オレのあの突飛な提案を受け入れてもらって一ヶ月、否応なく隣あわせで座ることが増えて、すっかりこの距離感には慣れたけれど。
 ちょっとすみません、とヘアゴムを取り出して、伸びた髪をかるく纏めはじめる手元だとか、首筋だとか。見てはいけないような気がして目を逸らすけれど、吹き上げられてオレのほうまで届く春日井さんの香りからは逃れられなくて、情けなく鼓動が速度を速めた。……本当に、距離感には慣れたはずなんだけど。

 開放された街の図書館。そこが、オレたちが週に一度落ち合う勉強場所だった。大きく口を開けた広い窓から陽光が差し込んで、終わりかけた春がゆるく流れる。あたたかい静けさに包まれるその場所では、学生らしき人々が思い思いに手を動かしていたり、勉強を教え合うようなひそひそ声にも満たされていたりもする。オレたちもそれに倣って、オレが使っていたテキストを持ち寄ってイタリア語を勉強していた。
「これでよし」
 くるんと丸まった毛先が揺れて、ポニーテール姿の彼女が「すみません、続きしましょうか」とオレを見上げる。ここ最近で心臓が跳ねることなんて、誰か──十中八九リボーンだけど──に怒られる時とか、偉い人に会わざるを得ない時だとか、ごくたまに命の危険を感じた時くらいで、気分の悪いものばかりなのに。春日井さんと過ごす時間のそれはちっとも嫌じゃないどころか、むしろこの擽ったさが心地良い。
 気を取り直して、小声で教えながら進めていく。ダメツナなんて呼ばれて、今だってあらゆる分野の勉強に手こずっているオレだけど、どうしてだかイタリア語はすんなりと覚えることができた。まあ、イタリアンマフィアのボスがイタリア語ができないなんてありえねえ話だと、家庭教師様がひときわ手厳しく叩き込んでくれたおかげもあるのだろうけど。もしかすると、イタリアの血筋なんかも関係しているんだろうか。
「ツナさん、教えるのとっても上手ですよね」
「え、そうかな」
「すごくわかりやすくて助かります」
「リ……家庭教師の真似、してるだけだけどね」
「真似ができること自体がすごいですよ」
「あ、ありがとう」
 なぜか春日井さんのほうが照れくさそうに肩を竦めて、「お礼を言うのは私の方です」なんて笑う。その手元にあるノートには、春日井さんが紡いだ整った字が佇んでいる。高校生のオレがいろいろと重要事項を書き込んだ……といえば聞こえはいいけれど、使い古したテキストを横に広げられてしまっているのが恥ずかしい。
「あ、待って春日井さん」
「え?」
「そこ、つづり間違ってるよ」
「あれ、えーっと……」
「ほら、ここ」
 空いていた指をその筆跡に滑らせようと動かすと、ピンク色のシャーペンをきれいに握るその手も、ふらふらとオレの指摘を探しはじめる。そのまま覚束なく彷徨ってから、ぶつかる。ほんの一瞬、指先だけ。
 弾かれたみたいにお互い手を振り上げてしまって、彼女の手からはシャーペンがすべり落ちていった。
「あ、す、すみません」
「う、いや、オレこそごめん」
 0.1秒とか、そんなもんだと思う。けれど不思議なくらいにその体温と柔らかさを感じてしまって、熱かった。はじめて会った日に咄嗟に握った手を、図らずもしっかりと覚えていたオレの脳みそが、頼んじゃいないのに思い出させてくるから。お節介にも程がある。
 ……やっぱり、慣れた、なんて嘘かも。隣どうしに座るどころか、図書館じゃ大きな声を出せはしないので、声が聞こえるように顔を寄せ合って喋っているわけで。内緒話のようなトーン、まぶたを彩る細やかなラメが見えてしまうような距離感。透き通るような瞳が、そんな距離でオレをしっかりと捉えることだって珍しくない。そのうえ自惚れでなければ、春日井さんの頬だってかすかに染まっているのだから。今だってそう、髪がひとまとめにされて露わになった耳も、隠しきれない横顔も、赤い。こんなの、そう簡単に慣れたりできるはずがない。
 けれど。春日井さんは至って真剣に勉強しているのであって、オレだって手伝いを申し出た以上その真剣さには応えたい。そんな想いでさまざまな思惑を抑え込む、午前十一時。





「ツナさん、あのー……その」
「……どうかした?」
 いつも午後に会っていたオレたちは、今日はじめて午前中から待ち合わせをした。春日井さんが夕方から私用があるとかで、起きられるか不安ではあったけれど無事に間に合って、朝から図書館に向かっていたというわけだ。
 そしてちょうどお昼頃、そろそろランチタイムだし今日はここまでで、と図書館を出たところ。些か古めかしい扉をくぐってすぐ、春日井さんがすこし俯きがちに、なんだか言いにくそうにオレを呼び止めた。
「つ、ツナさん」
「は、はい」
「ごはん、いっしょに、食べませんか……!」
 何を言われるだろうと思っていたから、すこし肩の力が抜けた、けれど。すぐにまたぐっと力が入る。「無理だったら、全然、その……」と顔の前でぶんぶん手を振るその姿に、どうしようもない感情が込み上がってくる。いじらしいというか、うまく言えないけれど、ぐっと胸が詰まるようなそれ。
 真昼の太陽を溶かし込んだ瞳が、まっすぐにオレに向かってくる。「春日井さんが良いなら、ぜひ」と返した声はすこし震えてしまって、でもそんなこと意にも介さない様子で、春日井さんは顔を綻ばせる。ずるいんだよな、本当に。

 オレたちって案外気が合うんじゃないかな、なんて思うことが時折ある。ほんと、些細なことなんだけど。
 なにを食べに行こうかという話になり、ツナさんにお任せしますと遠慮する春日井さんをどうにか説得して、結果「ふたりで食べたいものを同時に言う」ことになった。オレがせーのと言った直後、オレたちの声はぴったり同じタイミングで「パスタ!」と重なって、つい顔を見合わせて笑ってしまったりしたから。
 そんなこんなで大通りのトラットリアに入って、比較的混み合う店内で二人席に案内された。並ぶことにならなくてよかった、とほっとするオレの前でメニューとにらめっこする春日井さんは、以前よりも幾分イタリア語が読めるのが面白いらしくなんだか楽しそうだ。その柔らかな表情を眺めながらのんきに水を飲んでいると、あろうことか彼女の口からとんでもない言葉が飛び出した。
「あっ! ボンゴレ!」
「んぐっ」
 あっぶねー、水吹きかけた。間一髪こらえて飲み下すと、かなり格好悪いことに盛大に咽せたし。そんなオレを見て「大丈夫ですか?」と心配そうに身体を乗り出す春日井さん。だ、大丈夫って、いやいや、大丈夫じゃないよ。待って、どうして春日井さんがボンゴレのことを……
「すみません、大きな声出して」
「う、あ、いや……」
「さっき覚えたばっかりの単語が書いてあって、つい嬉しくなっちゃって」
「……え?」
 申し訳なさそうに笑った春日井さんが、「これです」って指差したそこには「Vongole Bianco」の文字があった。えっと、これは、ボンゴレビアンコ……?
「あさりのパスタですよね! 私これにしようかな……って、ツナさん?」
「ごめん、気にしないで……」
 安堵が全身に襲いかかってくるみたいにぶわっと力が抜けて、がっくりと項垂れてしまう。なおも心配そうにしてくれる春日井さんに引け目を感じながら、長く長く息を吐き出した。……びっくりした、本当に。心臓に悪すぎる。まあ、隠し事してるオレが悪いんだけど……。
 額に滲んだ汗を軽く手の甲で拭って、テーブルの真ん中に広げられたメニューを覗き込む。オレの態度はもう気にしていない様子の春日井さんは、「バーニャカウダも食べたいな……」なんて呟くから、「じゃあ半分こしよっか」と提案してみると、嬉しそうに頷いてくれた。
「ボンゴレビアンコひとつ……あ、ひとつ、じゃなくて……」
 注文だってわかっていても、パスタにされたアサリのことだとわかっていても、なぜだか毎度ひやりとしてしまう。注文をバトンタッチして、前菜とバーニャカウダと、オレのボロネーゼを頼んでからも、なかなかそのヒヤヒヤは治まらない。
「あの……ボンゴレロッソとボンゴレビアンコ、どっちがトマトでしたっけ」
「ボン…………ロッソがトマトだよ」
「あ、よかった間違わなくて。ボンゴレビアンコ、ちゃんと食べたいほうでした!」
 微塵も悪気のなさそうな、屈託ないその笑顔。でもごめん、ごめんね、ボンゴレ連呼はやめてください。





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