花びらひとつ落ちる時


「シャキッとしやがれ」
「わかってるよ……」
 哀しいことに着慣れはじめてしまった、実にお高いらしいスーツ。もう値段を聞くのはやめてしまった。なんか怖いから。そんな分不相応な服を着込んで立つオレが、目の前のバカでかい全身鏡の前で情けない顔をしている。オレにはまだなんのことやらわからないけれど、お偉いさんたちにはスーツの質というのは一目でわかってしまうらしい。
「どうせ今日もお見合いだろ」
「ダメツナのくせに言うようになったな」
 生意気な物言いのリボーンを軽く睨むけれど、リボーンの表情は変わらない。オレの扱いってこれからもこんな感じのままなのかな。
「……まあな。今日はかなり長い付き合いの同盟ファミリーだ、失礼のないようにしろよ」
「はあ、気をつけるけどさ……っていって! なんで蹴るんだよ!」
「いつまでも情けねえ顔してるからだぞ」
 蹴られた脚をさすっていると、窓から吹き込む風がいくらか涼やかになっていることに気がついた。真っ盛りの夏はもう、過ぎ去っていった。訪れた九月、まだ気温が高いことには変わりはないが、確実に秋は近付いてきている。
 十月に計画されたボンゴレ継承式まで、残りわずかとなっていた。リボーンの話によれば、様々なファミリーが一堂に会するその継承式は、あちこちに権力を誇示するのにもってこいなんだとか。“ボンゴレファミリー10代目”と婚約し、未来の妻として隣を歩くことで優位に立ちたい、そんなファミリーの人間や女性たちがラストスパートをかけてきているようで、会談という名のお見合いが増えてゆくなかで、それはなんとなくオレも感じ取っていた。まあ、そんなの知ったことじゃないけどさ。
 もちろんボスの継承というのは名ばかりではなく、“ボス候補”という現在の補佐的な立場から、それ相応の役職にステップアップするということでもある。オレもとうとうちゃんと仕事しなきゃダメなのか、なんてどんよりしつつ、本格的に業務を引き継いだり、まだ勉強しなくてはいけないこともあったりして、以前よりも最近は毎日忙しく過ごしていた。大変だけど、でも、そのおかげであまり深くは考えずに済んでいる。……春日井さんのことを。
 
 幸い、なんて言ってしまいたくはないけれど。最後に会ったあの夏の日から、春日井さんのお誘いもぱったりと止んでしまっていた。オレの態度に何か思うところがあったのか、はたまた別の原因があるのかはもうわからないけれど、メッセージも八月の初めでやりとりは終わっている。
 たった、四ヶ月。季節がひとつ変わるくらいの間、友人かそれ未満として少し関わっていただけ、のはずだった。そのはずなのに、近ごろ毎日「シャキッとしろ」「弛んでるぞ」なんてリボーンに指摘されるくらいには、どこか空虚な気持ちを持て余し続けている。

 ◇

 身構えて向かった今日の訪問先は、今までに足を踏み入れてきた場所よりもいくらか穏やかだった。昔からの付き合いだというそのファミリーではボス自ら出迎えてくれて、「よく来てくれたね」なんて柔らかく笑ってみせるから、自然と肩の力も抜けてしまう。 ボスは日本語も堪能で、オレは猛勉強の末にイタリア語だって理解できるようにはなったけれど、母国語というのはやはりありがたかった。相変わらず顔が広いリボーンも、いくらか親しげに言葉を交わしているから、そんな和やかな雰囲気につい安心してしまうというか、気を抜いてしまうというか。
 ……けれど。程々に話が盛り上がったところで、「デーチモ、うちの孫娘に会ってみないか」なんて言われてしまったから、とっさに言葉を返せずに固まってしまった。でもそんなオレを気にする様子もなく、ボスは穏やかに笑っている。
「そう身構えてもらわなくてもいいんだ。挨拶程度に考えてくれたらいい」
「は、はあ……」
「私の娘が日本人と結婚して産まれた子でね。ずっと日本で暮らしていたんだ、親しみやすい子だと思うよ」
「そう、ですか……」
 ボスがとっても素敵な雰囲気の人だけに、ちょっと断りにくいよなあ、なんて考えてしまう。断る前提で申し訳ないけれど、でも、なんだかまだ、オレは幻想を捨て切れていないんだと思う。普通の恋愛ができるなんて、幸せが手に入るなんてもう思っていないけれど、それでも。
 そうしてつい難しい表情をしてしまっていたらしいオレを見て、ボスは「お見合い続きで疲れているところにすまないね」なんて言ってみせるから、つい勢いよく背筋を伸ばしてしまった。
「いっ……いえ! そ、そんな、えっと」
「はは、いやね、これは私の下心でもあってね」
「したごころ……?」
 首を傾げるオレに、ボスは少しだけ声のボリュームを落として話してくれた。孫娘はイタリアに来て日も浅く、顔見知りの人間もファミリーの外にはほぼいないのだと。けれどマフィアに生まれた以上、ジャッポーネで普通の暮らしを続けさせることは不可能に近い。半ば無理やり始めさせてしまったマフィアとしての暮らし、名のあるファミリーの娘だとしても、経験のなさや色々なことで苦労をさせてしまうかもしれなくて。けれど似たような環境でマフィアの世界に近付いてしまったオレなら、彼女のことを少しでもわかってくれるのではないかと、ボスはそう言った。……それから。ボスは明言はしなかったけれど、顔が利く人物――つまり、ボンゴレボスであるオレのことだ――と知り合いになっておく、そんなアドバンテージも手に入れておきたいんじゃないかと、こっそり思った。
「同じ日本人として、気が合えば良き友人になってくれたら嬉しいんだ。どうかな」
 ――そうやって一連の話を聞きながら、オレはどうしてだか、春日井さんのことを思い浮かべていた。
 思い浮かべるというより、もう少しはっきりと。初めて会ったあの日、ぼんやりと視界に映していた不安げな表情が、聞いたばかりの話のイメージとゆるく重なってゆく。心拍数が上がって、ざわざわと血が騒ぐようなこの感覚、これは、超直感の――
「デーチモ?」
「あっいえ、えっと……はい、そういうこと、なら」
 嬉しそうに目元を緩めたボスに、ありがとう、と手を握られて、そうして少し気が散ってしまっても、ゆるい勘がじわじわと心臓を侵しつづけている。
 ……そんなこと。あるわけないと思うのに、胸騒ぎが止まない。するとおもむろに扉がノックされて、オレは大袈裟なくらいに肩を震わせてしまっていた。
「はは、丁度良かったね。入っておいで」
  じわりと汗が滲んで、ゆっくりと動く重厚な扉の隙間を、オレは食い入るように見つめてしまっていた。呼吸が、浅かった。……運命も奇跡も、オレはたくさんの偶然に生かされてきたけれど、オレの都合のいいように動くって、そう信じているといつだって痛い目に遭っていた。だから、だから考えたくなんかないのに、やわく床を叩くヒールの音が、扉が軋む音が、過敏になった五感に響く。
 固唾を呑むって、きっとこういうことだ。
 視界に飛び込んできたパンプスの色は、見飽きたりなんかしない晴れた空が落っこちてきたような、鮮やかな青だった。ふわり、長いワンピースの裾が揺れる。細くて白い指先が、ゆっくりと握り込まれる。呼吸を忘れてしまいそうになりながら、ひとつひとつ、瞳がそのひとの姿を追いかけていた。
「デーチモ、はじめまして」
 ――オレは、君を知ってる。
 しなやかにお辞儀をした彼女の、小さく動いた口元をオレの視線がとらえて、けれど伏し目がちな瞳はまだつま先を見つめるみたいにさまよっていた。心臓が早鐘を打っている。名前を呼ぼうとして、掠れた声がうまく音にならなくて、もういちど息を吸い込もうとしたそのとき、やっと。
「……っ、え」
 目が、合った。
 あの春、はじめて出逢った日、オレが君を見つけた瞬間のように。
「…………春日井、さん」








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