トロイメライ


 もうすっかり季節は変わっていた。彼女に出会った春から、夏に。日本だとまだ梅雨が終わらないくらいのこの季節、そんなじめじめした時期が存在しないこの街では、からっと晴れ渡る日々が続いていた。待ち合わせ場所からいつもの図書館に向かう道すがら、眩しい日差しに当てられて目を細める。
「はー、今日すっごく暑いですね」
 ぱたぱたと手で顔を仰ぐ春日井さんは、薄手のブラウスにサンダルを履いていて、会うたびに夏らしい格好になっていく。首筋にはすこし汗が滲んでいて、とっさに顔を逸らしてしまった。
「……本当だね」
「でも、日本よりはいくらかマシな感じがします」
 じめじめしてないですしね、と付け足してから、彼女はこの空気を満喫するみたいに思いきり息を吸い込んだ。
 すると通り過ぎようとした街並みの一角、そこにちいさな列ができていて、よく見るとジェラテリアに続いているらしい。なるほど。これだけ暑いとアイスくらい食べたくなるよな。そう思って足を止めたオレに、「ツナさん?」と春日井さんは首を傾げる。
「ねえ、ジェラテリアでも寄っていく?」
「え! つ、ツナさんがいいなら……!」
 ちょっとだけ恥ずかしそうにうなずいた春日井さんに、「じゃあ行こうか」と微笑みかける。ふと見た横顔が嬉しそうで、そんな些細なことですら心が躍った。
 すこし並んでからお店に入ると、冷房の涼しさですうっと汗が冷えた。そうして色とりどりのショーケースが目に飛び込んで、「ツナさんはどれにしますか?」なんて無邪気な声を受け止めながら、ガラスの向こうを覗き込む。横目で見遣った春日井さんがわくわくしているのが伝わってきて、なんだかオレまで簡単に浮かれてしまいそうだ。

「じゃあ、いただきます」
「いただきます」
 丁寧に手を合わせる春日井さんの真似っこをしてから、机に置いたジェラートをひとさじ掬い上げた。春日井さんはバニラといちごを、オレはピスタチオとミルクを注文してから、店内の小さなソファに並んで座って。ギリギリひとが一人入れないくらいの隙間を開けて、彼女の横顔を盗み見る。
「んー、おいしい!」
「外暑かったもんね。喜んでくれてよかった」
 嬉しいな、と思う。幸せそうに笑う春日井さんを見ていられることが。自然と湧いてきた感情に口元を緩ませたけれど、また同時に胸のあたりが重苦しくなってくる。
 近づく継承の重圧だとか、増えていく煩わしい縁談だとか。それらに落ち込む気持ちに反比例するみたいに、春日井さんに会いたい気持ちが膨らんでいく毎日がつづく。でも初めのころは本当に、こうして時々お茶するくらいのお友達でいるつもりだったのに。この笑顔に、声に、仕草に、惹かれてやまない自分を、どうすればいいのかわからない。
 平穏な日々を求めるあまりに、勘違いしているのかもしれないと思ったこともあった。オレはただこんなゆるく流れる時間を過ごしたいだけで、それなら相手が春日井さんじゃなくたって良いのかもって。でも違うんだ。春日井さん以外に考えられないって、うまく言えないけどそう思う。
「ツナさん?」
「あ、え、ごめん、何だった?」
「ふふ、考え事ですか? 溶けちゃいますよ」
 口元に手を当ててちいさく笑った春日井さんの瞳の奥に、ほんの少し寂しそうな色がみえた気がした。
 ここしばらくオレは会っているあいだはこんなことばかり考えてしまっていて、多少なりとも態度には出ているのだと思う。春日井さんは何も訊いてこないけれど、きっと思うところはあるはずで、こんな風に感情の機微をみせてくれたり、少しだけ目が合う頻度が落ちたような気だってしてしまう。無意味だろうけど、ごまかすみたいに笑ってからカップにスプーンを差し込んだ。
 ――春日井さんもきっとオレのこと、悪いようには思っていない、と思う。多分だけど。だからこそ、どうしたらいいのかもっとわからないんだよなと、ジェラートを口に運んでいると。その甘ったるさが舌の奥で溶ける頃、春日井さんが「あ」と短く声をあげた。
「ツナさん」
「ん?」
「ここ、ついてますよ」
 ほら、と自らの唇を指差す仕草にどきりとして、でもそれどころじゃない。ぼーっとしていたとはいえ恥ずかしくて、あわてて指で唇の端を拭った。すると春日井さんはすこし眉を下げて、「そっちじゃないです」なんて笑って。
「ほら、こっち……」
 細い指がオレの方を向いて、それから。それからすぐ、固まった。時が止まったのかって、冗談じゃなく思った。それくらい不自然に、その指先は動かなくなった。
 たぶん春日井さんの指先は、とっさに、そして自然にオレに触れようとしていた。ただ口元を拭おうとしただけで、でもそれくらい、オレたちは近くにいるってこと。ただあと一歩、踏み越えられない線があるだけで。
 春日井さんの顔を、見られなかった。数秒ののちにぴくりと指先が動いて、か細い「ごめんなさい」と一緒に落ちていく。
「……ごめん」
 それだけ返事をして、手元のナフキンで唇を乱雑に拭った。「とれたかな」と訊くと、「はい」とひとこと返ってくる。そこでやっと春日井さんの方を見遣ると、うすくうすく頬が染まっていた。

 きっと、違った。ごめん、の意味は。春日井さんは「いきなり触れようとしてごめんなさい」って、そういう意味で言ったはずだった。本当は、そんなことで謝ってほしくないのに。
 そして、すこし前までなら、オレの「ごめん」にだって大した意味はなかったかもしれない。けれど今は、後から後からこぼれ出してくる。ごめんね、春日井さん。嘘ついてごめん。本当のこと言えなくてごめん。君の気持ちを考えられなくてごめん。オレのせいで進めないのに、いつまでも振り回してごめん。出会ったのが、オレなんかでごめんね。
 自惚れなら笑ってくれていい。でもやっぱり春日井さんの中でも、オレの存在がだんだん大きくなっているんじゃないかって思うんだよ。今ならまだ、間に合うはずだから。
「……早く食べて、図書館いこっか」
「あ、はい、そう、ですよね」
 掬いあげたジェラートが、重いしずくになってカップに落っこちてゆく。どろどろに溶けて混じり合って、ひとつになって。こんなに簡単なら、訳ないよな。

 ……もしもの話。何度も何度も考えた、ありもしない話。本当に、彼女についた嘘の通りに、オレが留学でこの街に来ていたとしたら。
 オレはなんの変哲もない大学生で、君もこの街で働くただの女の子。やっぱりあの大通りで出逢って、浮き立つ心のままに君の手を引いて走るんだ。胸の高鳴りをおさえて約束を取り付けて、くだらないことで笑って、お互いの話をたくさんして、君のことをたくさん知って。オレには隠し事なんかなくて、ただ甘酸っぱい感情だけを胸に君を見つめて――。オレはそうやって君に、春日井さんに、恋をしていたのかな。
 淡く光るこの気持ちは、恋にすらできなかった。でも仕方ないって自分に言い聞かせて諦めて、じくじく痛む心から目を逸らすのにはもう慣れはじめている。
 ――最後にしよう。今日を終えたら、オレはもう、君には会わないよ。君の優しさに甘えていたけれど、このままじゃまた傷つけるだけで終わってしまう。そんなの、もう嫌だから。だからせめて、綺麗なままでお別れを。





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