運命に踊らされながら


「私、海外暮らしなんて嫌だよ……日本に居たい……」
「イタリア、いいところじゃない。景色も良くて食べ物も美味しくて」
「観光くらいならいいのかもしれないけど……突然住むだなんて、そんなの無理だよ」 
 三月のある日、窓の外に映る空は恨めしいくらいに青かった。部屋の隅で項垂れる私の背中を、「まあまあ、瑠璃なら大丈夫よ」なんて言いながら、お母さんがさすってくれているけれど、到底気分は晴れそうにもない。

 マフィア。それは日本に暮らす人々にとっては、遠い遠い国の組織、もしくは実在するかどうかも知り得ないような、フィクションにも近い存在なのだろうと思う。けれど私にとっては、身近で当たり前のものだった。
 祖父はマフィアのボスで、両親はファミリーの日本支部のツートップ。小さい頃からずっと、そんな環境で過ごしてきた。子供である私は仕事には近付けてもらえなかったから、詳しいことはあまり知らないけれど。
 マフィア家系に生まれたことが嫌だとまでは思わない。だって、誇りを持って働く両親はとても好きだった。けれどできれば日本で普通に暮らしたいとは思っていたし、おじいちゃんの度々の「瑠璃はイタリアで暮らして、こっちで結婚しなさい」なんてお誘いもあまり好きではなかった。だからのらりくらりと躱して、あわよくばこのまま日本で適当に就職しようと思っていたのに、そう上手くは行かなくて。
 このリストにある大学に受からなければイタリアで暮らしなさい、と。おじいちゃんにそう言われたのは高校三年生の春で、リストには名だたる国公立大学ばかりが記されていた。両親も親戚も「ボスの言うことだからね」「あなたは直系の孫だから」と、イタリア暮らしを勧めてくる。むしろ皆、こちらの高校にしたらどうだと言うおじいちゃんの意見を私が無視して、日本の高校に通っていることすら、不思議そうにしているくらいだから。
 けれど、どうしても日本を離れたくなかった。両親と一緒にイタリアには何度も行っていたけれど、それでも異国の地に突然住まうというのは不安ばかりが付き纏う。それにいま日本を離れたら、自分の思うように生きられないような、そんな気すらする。
 だから死に物狂いで勉強した、けれど。その努力も虚しく、実力及ばなかった私は単身イタリアに渡ることになったのだった。

 ◇
 
「……イタリアに行って、どうしたらいいの」
「そうだね、ファミリーの事務を請け負う部署で働いて、いろいろ学ばせてもらいなさい」
 渡伊数日前、若干ふてくされた様子で電話をした私に、おじいちゃんは優しくそう言った。
 そういうわけでイタリアに渡ってすぐに挨拶に伺うと、皆「ボスのお孫様ですから」と謙遜するばかりで、学ばせてもらうどころか仕事の進行までもが上手くいかなかった。その上、会話が成り立つくらい日本語が上手な人は一握り。小さいころに覚えた気がするイタリア語は忘れてしまったし、受験勉強に夢中でイタリア語を勉強してこなかったから、基本的なコミニュケーションすら怪しい。
 前途多難すぎるスタートに、もはや日本に帰りたくてしょうがなかった。次の日はすこし街に散歩に出たけれど、このまま空港まで逃げて、日本行きの飛行機に飛び乗ってしまおうかしらとまで思っていたのだ。
 しかもその気分転換になるはずの散歩で、言語すら理解できないのに、ナンパのようなものにも遭遇してしまった。適当にあしらえばよかったのだと思うけれど、まさに踏んだり蹴ったり、その時の私には余裕なんかなくて、もう泣いてしまいたいほど気分が落ち切っていて――

 そんな時だった。
 ……見つけた。春の日差しを浴びて、きらきらと輝くそのひとを。瞳も髪も美しく透かされて、柔らかに揺れる甘いブラウンに目を奪われた。
 はじめてあなたと目が合った瞬間、街に溢れる陽気がいっせいに心の中で踊り出したような、そんな気がしてしまうほどだった。それは、観光客らしからぬ日本人のような出で立ち、そうして見るからに優しそうなひとがそこにいたから、なんてラッキーへの安心感だけではなかったに違いない。……見惚れた、のかもしれない。くすんだ視界がぱあっと晴れて、もうきっと大丈夫だって、気づいたときにはそう思ってしまっていたほどだった。
 この出逢いを逃しちゃいけない、と直感的に思った。その一心でひたすらに、今までにないほど積極的に歩み寄った。そして不慣れに畳み掛けるそんな私に、あなたはとびきり優しく笑ってくれたから。心の奥の奥の方から、暖かい気持ちがあふれて止まらなかった。思えばこの時すでに、このひとに……ツナさんに、特別な想いを抱いてしまっていたのかもしれない。

 ◇

 ツナさんと出会って三ヶ月ほど経ったころ、週末を楽しみにしながら事務仕事をこなしていた。だいぶ仕事にも慣れて、マフィアの仕組みだとか、どんな風に取りまとめられているかだとかもざっくりとわかってきて。あんなにも嫌だったイタリア暮らしも板についてきて、きっとこれはツナさんに出会えたおかげなんだろうって、そんなふうにも浮かれていた。


「ボンゴレの時期ボスに会ってみてはくれないか」
 休日の夜、おじいちゃんに話があるからと部屋に呼び出された。開口一番そう言われて、このあいだツナさんと食べたボンゴレビアンコをまず思い出してしまったけれど、ふと思い浮かんだのは“ボンゴレファミリー”のこと。「同盟ファミリーの……?」と呟く私に頷いて、「古くから付き合いがある、大きなファミリーなんだ」とおじいちゃんは微笑む。
「ボスに会う……って」
「ああ、継承にあたって挨拶回りに来てくれるらしいからね、瑠璃も会っておいてほしいんだ」
「まさかとは思うけど、お見合いじゃ……ないよね?」
「そういう話にもなるかもしれんね」
「そ、それは……」
 動揺を隠せない私を見遣って、「無理にとは言わんよ」とおじいちゃんは言うけれど。「初めからそのつもりでこっちに呼んだの?」と訊いてしまうと、おじいちゃんはすこしばつが悪そうな顔をした。
「言えば、お前はファミリー中の反対を押し切ってでも日本に残っただろう」
「それは……否定は、できないけど」
「…………瑠璃には、本当に苦労をかけたね。普通の恋愛もできなかったと聞いた」
「あ、え、どうしておじいちゃんがそれを……」
 実のところ、おじいちゃんの言う通りだった。学生時代、それほどおかしな振る舞いをしていた覚えは自分ではないけれど、たまに来ていた迎えや付き人を見た同級生がいたことで、“実家がヤクザらしい”なんてあながち嘘にもならない噂が流れてしまっていたのだ。今まで一度だけ勇気を出した告白もそれを理由に断られ、素敵な出会いの機会もなかなか訪れなくて。すべての原因をその噂のせいにする気はないけれど、まともに恋愛を経験することもなくここまで来てしまったのが今の私だった。
 でも現に、今も。ただの留学生であるツナさんには、実家がヤクザならぬマフィアだということは隠しながら過ごしているし、原因……と言ってしまっても、バチは当たらないのかもしれない。
「私のせいでもあるのだが、幼い頃からマフィアと密接に育ててきてしまって、なかなか……“一般人”との幸せというのは、瑠璃には得難いものなのかもしれない。すまないね」
「…………おじいちゃんが、謝ることじゃ……」
「だからこそ、瑠璃の幸せに責任を持ちたいと思っているんだよ」
「ん……うん……」
「彼は……ボンゴレ10代目は本当に、まっすぐな目をした青年だ。彼と話せば、この世界も悪いものばかりじゃないと、きっと思えるはずだよ」
 ――幸せ。私の幸せってなんだろう。話の中で思考がもつれて、ゆっくりと俯いてしまった私を、おじいちゃんは黙って見守ってくれている。
 私はおじいちゃんが、両親が、ファミリーが大好きだった。昔からずっと、今も。だから離れることは考えられなくて、そうなれば自分はマフィアとは切っても切れない存在だ。つまるところ、“一般人”と結ばれようと思えば……実態がどうあれ恐れられてしまうマフィアというものを、受け入れてもらわなければいけない。そんなことできるのかな。今までずっとだめだったのに。
 そうして、ツナさんの笑顔をふと思い出す。彼はただの留学生で、一般人。マフィアだなんて明かしたら、拒絶されたって何らおかしくはないわけで。……あの優しいツナさんに、拒絶されてしまう、なんて。それに、危険と隣り合わせの組織に引き込むなんて真似も、できやしない。
「おじいちゃんがそこまで言うなら……会ってみよう、かな」
「ありがとう。本当に、ひと目見るだけで構わないからね」
 曖昧に微笑み返しておいたけれど、ずしりと心が重くなる。でも私が悪いんだ。自分がぜんぶ望むように、好き勝手に幸せになれると心のどこかで思っていたから、想いの向くままにツナさんとの時間を楽しんでいた。
 ……大丈夫。まだこれは恋じゃない。それにほんの少し諦めるくらい、今までと変わらない。ジェラートのついた唇に手を伸ばしかけて、引っ込めたことを思い出す。あのとき触れてしまわなくて、本当によかった。

 ◇

 そうして芽生えかけていた特別な気持ちを封じ込めて、しばらく経った頃。ボンゴレ]世とのお約束の日はあっという間にやってきた。正直気は乗らないけれど、おじいちゃんの顔に泥は塗れないと気を取り直し、深呼吸をひとつしてから向かった応接間。
 何かが変わることを、ほんの少しだけ期待していた。そうして踏み込んだその先で、質の良いスーツを身に纏って座るそのひとを。あなたを、私は知っていた。

 窓から差し込む晩夏のきらめきに照らされるブラウンは、あの日と変わらない優しさを纏っていた。またしても目を奪われて、息ができなくなってしまうような、そんな気さえした。
 見開かれていたそのひとの――ほかでもない、ツナさんの瞳が。ゆるゆると細められて、やわらかく視線がほどける。
 まるで、雑踏の中から私を見つけだしてくれた時のように。

「…………春日井、さん」







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