君は褪せない花嵐




※進路ネタバレあり
※前作と同一夢主




 風邪、引いた……。ぞくぞくと駆け上がってくるような寒気を、毛布に思いっきりくるまってなんとかやりすごそうとしてみる。けれど自分の身体のことは自分が一番よくわかるもので、これはまだまだ熱が上がってきそうだな、とため息がこぼれた。
 別に風邪くらいどうってことない、なんて、母国ですらない場所で強がれるほどわたしはここでの生活に慣れていなかった。交換留学生としてやってきたこのアルゼンチンという国は、当たり前に日本とは何もかも違っているし、知り合いや頼れる人だってまだ少ない。そんな心細さが、余計に身体から力を奪ってゆくような心地すらする。
「……及川くん」
 薄暗い部屋にひとり、名前を呼んでも当たり前に返事はない。気だるさに引きずられるように目を瞑って、心臓を蝕もうとする不安から逃げようと息を吐いた。





 わたしがこの国に来たのは、きっと及川くんのせいだった。
 ……一口にそう言ってしまうのは少し乱暴だけれど、外国語をちゃんと学ぼうと思ったのも、留学してみようと思ったのも、その行き先にアルゼンチンの大学を選んだのも。及川くんが臆病なわたしにたくさんの影響を与えてくれたからに違いないって、はっきりと言える。
 そうして君と再会して、高校生のころ叶わなかった恋を実らせることができて数ヶ月。所属チームのホームであるサンフアンで暮らす及川くんと、そこからバスで二時間半ほどの大学の学生寮に住むわたしは、互いにできるだけ時間を作って会うようにしていた。ちょっと遠いなあ、って思ったことも言われたこともあるけれど、よく考えずとも飛行機で片道三十時間よりは断然マシだ。人間って、どんどん欲張りになってしまうらしい。
 決して不満があるわけじゃないけれど、わたしの方がたくさん会いに行っていると思う。わたしは大学がお休みの日がはっきりしているし、勉強だって移動中にもできるけれど、及川くんの方はそうもいかないことが多いから。初めは迷っていたサンフアンまでの道のりも、ずいぶんとスムーズに辿れるようになった。それは、不満ではない。嫌、でもないのだ。でもちょっと、やっぱり、寂しいと思うことは、ある。そうやって人間が欲張りになってゆく過程を、わたしはここ最近、今まででいちばん身に染みて感じている。

 意識がゆらゆら浮き上がってきて、閉じた瞼の向こうの明るさがじわりと沁みる。朝、かな。いや、電気つけたんだっけ。目を開けようとしたけれど、眩しさになかなか瞼が上がってくれないし、やっぱりまだ頭は重いし、あらゆる感覚にぼんやり靄がかかっている。薄く開いた目からぼやけた部屋を映すのが精一杯だった。なんだか、夢を見ているみたいだ。
「なまえちゃん」
 及川くんの声が、聞こえたような気がした。すぐそこにいるような、ありえないのに、そんな気すらする。……及川くん。及川くんに、会いたいなあ。心細さがまた湧き上がってきて、目を覚ましてもいないのに目頭があつくなる。
 やっぱり、夢、みてるんだろうな。ふわふわした現実味のない意識のなかで、頬に少しひやりとした感覚がふれる。するりと撫でられて、やわく前髪を撫でつけられて、髪を梳くように手のひらが滑ってゆく感覚。きっと自分の熱のせいでひんやり感じていたその手が、だんだんと身体に馴染むようにあたたかくなってゆく。その体温すべてが恋しくて、身体を襲う怠さもあいまって――とうとう、目も開けられないままなのに、涙が瞳からこぼれだしていった。呼吸が、浅くなる。だって、君に会いたくって仕方ないんだよ、わたし。こんなときにそばにいてほしいって、欲張りなことばっかり考えちゃうんだよ。
「……とおる、くん……」
 まだなかなか口にできない君の名前が、抑えきれない寂しさといっしょにあふれていった。
「さみしい……会いたい、徹くん……」
 ひりひりと喉が熱くて、声に出したつもりの言葉は本当に喉を通っていったのかすら曖昧だった。熱を持った肌を涙がすべって、濡れたところが空気を浴びて冷えてゆく。
 なまえちゃん。またそうやって名前を呼ばれたような気がして、揺蕩う意識のなかでまた涙が滲む。……徹くん、ずっと会いたかった。今もずっと会いたいよ。寂しくてくるしい。君の目を見て言えない本音が、ほろほろ崩れて落ちてゆく。
 ぐらぐら揺れるみたいに頭が痛くて、けれど撫でられているみたいな、そんな感覚にすこし痛みが和らぐような気もする。不安定に浮かんでいた意識が、ゆっくりゆっくり、また沈み込んでゆくような。及川くんがいないと苦しくて、及川くんがいてくれるような気がするだけで息ができてしまうから、わたしはまた眠りに落ちていった。たとえ夢でも、会えてほんとうによかった。
 
 



 トオル、恋人が体調を崩してるらしいよ。そうチームメイトから告げられたのは、練習終わりのロッカールームでのこと。状況が飲み込めず混乱する俺に、人伝に連絡が来たのだと彼は教えてくれた。俺の恋人――なまえちゃんの、友人のまた友人くらいにチームメイトの知り合いがいるらしく、すっかり寝込んでしまっている彼女を心配した友人が、ここまで連絡を取り次いでくれたらしいのだ。
 連絡してみようとスマホを取り出したけれど、たぶんなんともないって言い張るんだろうな、と思った。……なまえちゃん。俺のことが好きで、地球の裏側まで追いかけてきてくれた女の子。諦めかけていた恋は、捨てようとしていたこの想いは、間違いなくなまえちゃんのおかげで今ここで実っている。
 ――不安だろうな。俺がまだアルゼンチンに来たばかりの頃、慣れない環境に体調を崩してしまったことを思い出す。心細くて、息苦しくて、情けなくも涙が出そうになったりもした。なまえちゃんも今、もしかしたらそんな気持ちでいるのだろうか。たとえ留学生としての友人がいようとも、存分に頼って気を許せるまでにはまだなっていないのだろうと思う。彼女の話しぶりや、生来の性格からして。「及川くん!」って、顔を合わせるたびとびきり嬉しそうな笑顔で駆け寄ってくる姿を、ほとんど無意識のうちに思い浮かべていた。
 明日はオフだ。とはいえ一日だけだから、元々は無理に予定は入れずに休むつもりでいた。けれど今この瞬間、もしもなまえちゃんがひとり不安に震えているのだとしたら? バスで二時間半、もっと近かったらよかったのに、なんて冗談めかして言ったことがあるけれど、三十時間のフライトに比べればそんなもの。俺は今、駆けつけられる距離にいる。抱きしめてあげられる距離にいる。
 夕方、まだ彼女の住む街へのバスは出ている。……会いに行こう。そうと決まれば善は急げだ。チームメイトに礼を告げて、彼女のもとへ駆けつける旨を伝えると、「がんばれよ」と思い切り背中を叩かれたから、びりびりとした痛気持ち良さに笑みを返しておいた。

 話を通して入れてもらった彼女の部屋で、毛布にくるまって縮こまるその姿に、来てよかった、ってすぐに思った。別に、ぜんぜんなんともないよ元気だよ、なんて笑われたとしてもそう思っていたのかもしれない。それでも、やっぱり。普段なにもしてあげられない俺だから、こんな時くらいはそばにいてやりたいって、自分勝手だけどそう思う。
「……なまえちゃん」
 ベッドに腰掛けてつぶやくみたいに名前を呼ぶと、もぞもぞと塊が動き出す。やばい、起こしちゃったかな。そう思ったけれど、毛布が少しめくれて覗いた横顔は目を開ける気配はない。ほっとしつつも懲りずに頬に触れると、その肌はやっぱりいつもよりずいぶんと熱を持っている。
 乱れた前髪をそっと撫でつけて、やわらかな髪の流れに沿ってゆったりと頭を撫でて。すこし汗ばんでいるような感触に、“着替え”という選択肢が一瞬頭をよぎったけれど、いやそれはまずいでしょとため息をついていると、喉の奥から漏れ出るような声がする。俺じゃないから、なまえちゃんしかいない。すると口がきゅっと引き結ばれて、閉じた瞼からこぼれるようなしずくが見え隠れ、している。気づいた途端、震えるみたいに心臓が跳ねた。
 また、名前を呼ぼうとしたのに。それより早く、か細い声で紡がれた「徹くん」に、息が止まる。
 さみしい。会いたい。かすれて消えそうな声がそう続いて、閉じたままの瞳から涙があふれてすべって、シーツに静かに吸い込まれてゆくまで、俺はたぶん瞬きすら忘れていた。
 岩ちゃんあたりにこんなことを言えば、クズだとかクソだとか言われてしまうんだろうけど。俺は女の子に「寂しい」って、そう言われることにはたぶん人より慣れていた。高校生のときは散々そう言われて、幾度となく薄っぺらい「ごめんね」を返してやり過ごしてきた。大したことだと思っていなかったし、そう言う以外にどうすればいいのか、見当がついたとしても俺にはどうしようもないことなんだと諦めていたから。
 ……それなのに。
「なまえちゃん……、」
 ごめん、って言おうとして、けれどそれは違うような気がして飲み込んだ。そんなふうに思わせているんだろうなって、気付いていなかったわけじゃない。それでも、なまえちゃんのこぼした寂しさに俺はどうしようもなく揺さぶられていて、どうにもならないからと捨て置くことだってできなくて。
 どうにかしてあげられるのは、俺しかいない。でも今の俺には、してあげられることの方が少ない。でも、なまえちゃんをこのままにしておきたくない。でも、やっぱり、でも――。ああうん、そうだ、いつかの俺はこうやって悩んで惑わされることが億劫で、自分にとってノイズになるような気がして、ほとんど無意識に考えることを避けてきたんだろうな。
 指先でそっと涙の跡をなぞる。不思議だなって、他人事みたいにぼんやり思った。依然ぐるぐると頭の中はまとまらないし、どうしたらいいかなんてすぐにはわからなくて、たとえこのまま寄り添っていたって、お前の寂しさが根っこから和らぐわけじゃない。つまり、やっぱりどうにもならないのだ。それなのに、俺はいま億劫でも、面倒でもなんでもない。
 ……そうだね、俺は、お前になら。
 卒業と同時に微かな繋がりすら切れてしまって、きっともう二度と会えないのだろう、と――そう思って飲み下していたあの喪失感に比べれば、悩むことも迷うこともぜんぶ、何もかも些末なことに違いなかった。





 次に瞼を透かす光を感じたとき、今度はすぐに、朝がきたと思った。目を閉じていてもぐらぐら揺れる視界も、締め付けられるような重たさも、きれいさっぱり消えてしまったわけではないけれど、きっとずいぶんとましになっていた。
 代わりに、身体が重い。比喩じゃない。物理的に重たくて、物理的に圧迫されて息がしづらかった。寝ている間に実家の猫が胸に乗っかっていたときにも、どこか似たような息苦しさを感じた、気が。
「……え……?」
 ……腕だ。え、腕? 眩しさに抗えない視界のかわりに動かした手は、首元にまわされた腕のようなものにぶつかった。途端、ものすごい勢いで心臓がさわぎだす。一気に意識が冴えた。冷や汗がにじんで、無理やり起きあがろうとしたところで、頭の上のほうから気だるげな声が聞こえてくる。
「ん……なまえちゃん?」
 わたしの名前を呼んでくれる、聞き覚えのある声。くっついているのが大好きな体温だってやっと気がついて、今度はまた違うふうに心臓が跳ねた。……いや。そんな、まさか、どうして、及川くんがここにいるの。ど、どうして、わたしの隣で寝てるの。
「っ、あ、え、お、おいかわ、くん」
「なに……?」
 寝起きの掠れた声は、どう考えたって完全にこっちのセリフだった。なに。なんで、どういうこと。……昨日のあれこれって、もしかして、夢なんかじゃなかったってこと? 混乱しつつも距離を取ろうとするわたしを、及川くんの腕は簡単には離してくれない。
「ちょ、っと……どこ行く気」
「だっ……て、び、びっくりしてて」
「うん」
「だから、いったん、待ってほしいんですけど……」
 わたしの言葉をさらりと無視した及川くんは、ぐいっと首元を引き寄せてきて、それからじっと目を覗き込んでくる。朝の光がさしこむ部屋で、寝起きの顔をまじまじと見られるなんて、こんなにも恥ずかしいことがあっていいはずがない、のに。
 頬を親指でするりと撫ぜて、満足げに微笑んだ及川くんは、「よかった、熱下がったね」なんてやさしく目を細めてみせるから、わたしはなんにも言えなくなってしまった。

 いったん顔を洗いに行って、それからまたベッドに逆戻りして、わたしを後ろから閉じ込めるみたいに抱きしめた及川くんは、ここまで来た理由をちゃんと聞かせてくれた。わざわざ来てくれてありがとう、って言ったら、大したことしてないよと軽くかわされたけれど。無理を強いてしまったに違いなくて、少し心がちくりとしてしまう。それから連絡を取り次いでくれた友人にお礼を言おうとスマホを探したけれど、「後でいいでしょ」ってさらにきつく抱きしめられてしまったので、仕方なくもう少しおとなしくしておくことにした。
 それから、変なことを言っていなかったか、なんて不自然な質問をしてしまったけれど。「お前ずっと寝てたでしょ」ってさらりと返されて、あの失言は夢の中での出来事だったらしくてそっと胸を撫で下ろした。さすがにあんな情けない本音は、及川くんに聞かれたくなんかない。
「うん……うん、たしかにね、いきなりごめんね」
「なに、変な夢でも見た?」
 そんなふうに笑い混じりに尋ねられてしまったから、ぶんぶん首を横に振って、「それよりわたし、及川くんに風邪うつしてないかな」って、これまた不自然に話題の舵を切ってしまう。でも、これもさっきから引っかかっていたことには違いなかった。
「んー? まあ大丈夫でしょ。ちゅーはしてないし」
「そ、そうかな……そうだといいけど……」
 唸るわたしの髪を「気にしすぎ」って適当にかき混ぜる及川くんだったけれど、そんなの気にするに決まってる。もしも君がわたしのせいで体調を崩してしまったら、そう思うと居た堪れなくなる。それにそもそも今日だって、一日しかないオフ、調整や休息にしっかり使いたかったかもしれない。

 ……あんなに、あんなにも会いたくて、胸が締め付けられて仕方なかったのに、いざ目を覚ますと現実ばかり見てしまうのがどこか虚しくて、かわいげがなくて少し嫌になる。目を閉じてしまいそうになったわたしを、「ねえ」って、不意に及川くんの声が呼ぶ。ちょっとふてくされたような、なにか文句を言ってくるときの声。
「嬉しくないの、お前は」
「え……」
「お前のだ〜いすきな及川くんが会いにきてるんですけど」
 ぐいっと肩を引っ張られて、及川くんに向けていたはずの背中がシーツにくっついた。じっとりとした視線を浴びながら、かけられた言葉をほぼ無意識に反芻してしまう。……嬉しくないの。って、嬉しいに決まってる。
「及川くん……」
「うん」
「……会いたかった」
「知ってる」
 今度は、ちゃんと前から。後ろからじゃなくて、正面からぎゅうっと抱きしめられて、情けないと思うのに、じわじわ涙が滲んでくる。
「泣いていいよ、なまえちゃん」
「んん……」
「ねえ、むしろなんで我慢してんのさ。さみしいならそれでいいじゃん」
 そんなふうに、柔らかな声で言われてしまったら。わたしのちっぽけな忍耐力じゃもう我慢なんかできなくて、肩が震えて涙があふれ出してゆく。
 まだわからないことだらけの場所で、言葉もコミュニケーションも完璧には程遠くて、身近に気を許せる人はいない。そんな中で体調をくずして、真っ先に君に会いたくなって、でも迷惑をかけたくなくて、うまく言えなくて――。まとまらない想いをひとかけらずつ、涙に溶かして言葉にするわたしの背中を、及川くんはやさしく撫でていてくれる。
 打ち明けるのは単純なことで、けれど簡単ではなくて、それでも。君が、及川くんが会いにきてくれて、そばにいてくれて、こうやって受け止めてくれるから、ぐちゃぐちゃに渦巻いていた感情ははらはらと解けてゆく。泣いていいよって、そう言える強さが格好良くてたまらない。そう言える優しさに、こんなにも救われている。
 きっと及川くんも、不安になったことがあるんだろうな、と思った。苦しくて寂しい夜が君にもあって……もしかしたら、今もあるのかな。今は尋ねられないけれど、叶うならいつか、寄り添えるくらいにわたしも強くなりたいと思う。焦がれてばかり、頼ってばかりのままで、立ち止まってしまわないように。

 ――しばらく背中を摩っていた手が、不意に頭に乗っかった。それはぐすぐすと鼻を鳴らしていたわたしがやっと落ち着いて、呼吸が整いはじめたころ。
「俺ね」
 そっと身体を離されて、ついさっきの起き抜けよりもちゃんと、朝日に照らされながら見つめあう。瞬きでゆれる睫毛を目で追うことができて、光を吸い込んだ瞳のずっと奥まで覗いてしまえるような、そんな距離。あともう少しだけって、どうしたって欲張ってしまいそうになる、そんな距離だった。
「もっと、なまえちゃんに困らされたい」
 頬にかかるひとすじの髪を、そっとはらうために触れていった指先すら熱い。
「なにもしてあげられない俺のこと、もっといっぱい困らせて。」
 そんなことないよ、とか、できないよ、とか。そんなあいまいな言葉で遠ざけてしまえるようなものじゃなくて、及川くんの瞳に潜む熱にあてられて、目を逸らせなくなる。及川くんがわたしに向ける痺れてしまいそうな欲に、じくじくと胸が疼いている。どんどん欲張りになってゆくのは、きっとわたしだけじゃないし、君だけでもないなんて、もうとっくの前からわかりきっていることだった。





20240429



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