君が忘れているかもしれないあの日のこと




※進路ネタバレあり




 

 思い出の写真がある。
 たぶん、高三の春だったと思う。体育館のすぐ外の通路で撮られた、澄ました顔でポケットに手を入れる及川くんと、引きつった笑顔でピースするわたしが、微妙な距離感で写っている一枚。及川くんは白地にミントグリーンのジャージ、わたしはあのころ気に入っていた白いブレザーの制服で、紐のリボンは左右のバランスがちょっとおかしい。表情にしろ服装にしろ、及川くんはいつだって決まっているように見えて、自分のそれはやたらと気になってしまう。それは自分の欠点は目につきやすいから、という理由でもあるのかもしれないけれど、たぶん、それだけじゃなかった。
 休日に青城の体育館で行われていた練習試合を見に行った後、昔から仲のよかった一静くんと話していると、別のところで女の子たちに囲まれていたはずの及川くんがやってきて。つい緊張してしまうわたしなんてお構いなしに、「ちょうどいいじゃん、はーい二人並んで〜」って一静くんはスマホを向けてきて、気づくと響いていたシャッター音。とりあえずしてみたピースは、なんだかおかしな角度だった。
「う〜……」
「なにその唸り声」
 再び黄色い声に及川くんが連れ去られた後、くすくすと笑う一静くんの横で頭を抱える。「お礼言いたいけど文句も言いたい……」なんて言うわたしに、「文句言われんの?」って一静くんはまた笑った。
「だって……あんなことしたら、その、バレるよ」
「もうバレてんじゃない?」
「ねえわたしってそんなにわかりやすいかな」
 それは、長々とあたため続けてきた片想いだった。叶わないんだろうな、ってこともわかっていながら、どこかで希望を捨てきれないような。
 だってこんな風に言いながらも、本当はわかっていた。及川くんはわたしの気持ちに気付いていて、でもそんなのには慣れっこな彼だから、波風を立てないようにうまく接してくれているんだってこと。それでいい。それでいいって思わないと。時々気を回してくれる一静くんや友達が、臆病なわたしの代わりに作ってくれる思い出を、大切に握りしめていられるだけで構わないって、そうやってわきまえないといけないって思ってた。
 ……だから。

「え、懐かしー! いつの写真だっけこれ」
 その何年後かに、及川くんとその写真を眺められる時間がやってくるなんて、わたしは本当にこれっぽっちも思っていなかったのだ。



 二年生のころはそれほど接点がなかった及川くんとわたしだったけれど、三年生で出席番号が前後になった。写真にうつされたぎこちない春を越えて、だんだんとクラスでも話す機会が増えて、バレーボールの試合もたくさん観に行って、わたしはずっと相変わらず及川くんのことが好きで。だんだんと、気持ちに呼応するように距離が縮まってゆくような気がしていた。将来のこととか目指すべき場所とか、そういう、大人になっても変わらず大切だと思えるものの話もしてくれた。心を許してくれているのかも、と思った瞬間も確かにあって、それがたまらなく嬉しかった。
 そして訪れた、高三の二月。つんのめって転ぶような、勢い任せの告白をした。結果としてわたしは振られてしまったけれど、及川くんは何度も「ごめんね」と謝っていて、わたしは余計に諦めきれなくなるだけだった。優しくて、鈍い刃だと思った。それは卒業式、「お前にあげたかった」って死守したらしいブレザーのボタンを渡された時も。きちんと振ってくれないから、何もかも捨てきれないから、わたしは、ちゃんとさよならできないままだった。
 一度は諦めようとした。でも進学先で、交換留学先のリストにアルゼンチンを見つけてしまった途端に、このままでいられるわけがない、って衝動で身体がはち切れそうになって、わたしは地球の裏側へ飛ぶことを決意してしまったのだ。
 ……君に会いに行くわけじゃない。わたしは留学に行くだけ。そう自分に言い聞かせながら、大学からは少し距離のあったサンフアンに試合を観に行って――そのときの及川くんの、びっくりなんて単純な言葉じゃ片付かない表情も。「もう二度と会えないと思ってた」なんて言って顔を歪ませていたことも、わたしは、いつだって昨日のことのように思い起こせてしまう。

「たぶんね……高三の春かな」
 ざらりと流れた記憶を呑み込んでそう答えると、背後からスマホを覗き込んでいた及川くんが、ぐるっと回りこんでわたしの隣に腰掛ける。ソファが柔らかく沈んで、肩に体温がくっついて、たったそれだけのことが幸せだと思った。今だって毎日は会えないし、わたしはあと数ヶ月でいったん日本に帰らなくてはいけないけれど、再会する前より何もかも幸せに違いなかった。
「これまっつんが撮ってくれたやつだよね」
「……うん。そうそう」
 そっか、覚えてるんだ。わたしにとってはとびきり大切な思い出で、でもきっと、当時の及川くんにとっては取るに足らない数分間だったに違いないと思っていたから、心の奥から温もりが溢れてくるような気がした。そうやって噛み締めていると、不意にずいっと画面を覗き込んでくる及川くんに、ついほんの少し身体を引いてしまう。
「なーんかさあ……俺めっちゃスカした顔してない?」
 ふ、とつい笑ってしまってから、写真の中の及川くんの口元を見つめた。それから「ね」とひとこと返すと、「認めんのかい」と及川くんは身体を引いて笑う。あの当時、何かにつけて及川くんに遠慮していたわたしが聞いたら真っ青になりそうな返答だ。
「でもかっこいいよ」
 ちらりと見遣りながらそう言うと、一瞬ちょっとびっくりしたような顔をして、けれどすぐにその目元がゆるむ。もっと言ってくれ、とでも言いたげに。
「ふ〜ん、そう?」
「うん、及川くんはずっとかっこいいからねえ」
 そうやって言葉を重ねると、満足げにソファに背中をあずけた及川くん。ゆったりと手が伸びてきて髪をかき混ぜるから、つい笑みがこぼれてしまった。
「ねー」
「ん?」
「もっと言ってよ、かっこいいって」
 きっと飽きるほど言われてきたはずなのに、今だってそうだろうに、その言葉に意味を見出して、わたしにねだってくれることが嬉しかった。「かっこいいよ、及川くん」って、そう言い切ろうとしたわたしの語尾に、「とおる、ね」って及川くんの声が重なった。ちょっと尖った唇がかわいいなんて、そんなことを考えてしまう。
「及川くんじゃなくて、徹くん」
「…………及川くん」
「もー」
 いつまで俺は及川くんのままなの、って、今度はもう少ししっかり唇がとんがった。関係にやっと名前がついてしばらく経つけれど、「及川くん」と呼んでいた時間が長すぎて、なかなか変えられないままでいることに、時々こうやって文句を言われてしまうことがあった。今がまさにそう。こうなると及川くんはしばらくゴネる。
「だって及川くん、」
「とーおーる」
「……ふ、ふふ」
「なーに笑ってんのさー」
 なんだか拗ねたようにそう言って、それから。ついさっきの話題から思い出したように、「まっつんのことは名前で呼ぶじゃん」って及川くんは言った。……まあ、そうなんだけども。一静くんはずっと仲のいい良き友達で、及川くんもそんなことはもうわかっている。でも「だって小学校から一緒なんだもん」って言うと、なんだかそれはそれで不満そうだった。
「ていうか、いま一静くんは関係ないよ」
「ほらぁ〜また呼んだ! ねえ俺悲しくて泣いちゃうかも」
「こんなことで泣かないの」
 わざとらしい頬の膨らませ方につい笑ってしまうと、不意に思いっきり寄りかかられた。わっ、とかわいくない声が漏れて、「重い重い」ってバランスを崩しかけるわたしの肩に、及川くんの腕がまわってくる。

 ……空気が、途端にぬるくなったような気がした。
「だってさ、お前は俺の彼女でしょ?」
「う…………うん」
 じわじわ、迫る熱。……俺の彼女、って、まだ夢みたいな言葉が頭に染み込むように響いていた。抱き寄せられるような格好に、突然くっついた体温、及川くんの匂いとちょっと低い声。どきどきして、目が回る。
「呼んでよ、徹って。ね、なまえちゃん」
 甘ったるく呼ばれて、一瞬で、のぼせた。思わず両手で顔を覆ってしまうと、「あ、こら」って熱い手のひらに手首を掴まれる。じっと顔を覗き込まれて、柔らかなブラウンのなかにわたしがいることが、やっぱりまだ夢みたいだと思う。
「そっ、そういうことされると、余計呼べなくなる」
「えー、なんで」
「ばくはつする」
「しないから」
 少しだけ離れてくれて、でも視線は絡めたまま、「お前ほんとに俺のこと好きだね」って及川くんはゆるく目を細める。言葉にされると恥ずかしいけれど、そんなの。もうとっくにわかりきってるでしょ、と言ってやりたくなる。
「す……すきだよ」
「うん。俺も」
「めちゃくちゃすき……」
「知ってる」
 柔らかな影が、視界に落ちる。ほとんど反射で目を閉じてしまうと、ほんの一瞬だけ触れた熱。するりと指先が頬をすべって、ゆっくりと目を開けると、逆光になった影のなかで、及川くんの瞳が静かに光っている。……及川くんだって、わたしのこと。
「かわいい。大好き」
 ぎゅん、と縮こまった心臓のせいで息がうまく吸えない。絡まった視線もむりやりほどいて俯いてしまうと、くつくつと喉の奥で笑うような声がした。及川くんは、わたしがこうやって好きでたまらないのを隠せないとき、君に勝てないとき、いつもすっごく嬉しそうな顔をする。ほんとに俺のこと好きだね、なんて嬉しそうに言ってくるのもそういうこと。案の定、ちらりと見遣った先の及川くんは、いかにも満足げな表情をしている。
「顔真っ赤」
「……だってかっこいいもん、及川くん」
「ねえ、徹だってば」
 ……そんな及川くんを見て、心が浮き立っているわたしも大概だと思う。だって君の言うとおり、好きで好きでたまらないから。わたしの気持ちで満たされてくれるのなら、ぜんぶあげるよ、ってばかみたいなことを言ってしまいたくなる。
 甘くて苦い思い出をうつしていた画面は、もうすっかり暗くなっていた。まだ青いすまし顔も、ぎこちないピースも、過ぎ去って遠ざかって、でもずっと色褪せない。及川くんへの「かっこいい」は、とじこめられた思い出のなかで、ぱちぱちと弾けて胸を焼いている。だから、もう少しだけあのころのままで。






「誰かが忘れているかもしれない僕らに大事な001のこと」 
/ UNISON SQUARE GARDEN
20240407



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