空を駆けてゆくように


「テリーくん」
「……。」
「テリーくんったら」
「気安く呼ぶな」
 困ったな、取りつく島もないというのはこういうことなのかもしれない。森の中を進む彼の足取りに迷いはなく、慣れていなければ足を取られる木の根や蔦も易々と越えてゆく。噂通り、そして自己紹介通りの熟練した旅人さんであることは間違いなさそうだ。見失ってしまわないよう追いかけていると、ふと、目の前の背中が動きを止める。止まってほしくて呼んでいたのは確かだけど、あまりに不意に振り返るから、勢いあまって飛び込んでしまいそうになった。足に力を込めてなんとか堪えると、つめたい紫色の視線が突き刺さる。
「気が散る。帰ってろ」
「そうはいかないよ」
「フン、親に命令されたからか? もう少し自分の意志を持った方がいいぜ」
 まったく、どうしてこうも刺々しいんだこの人は……。数刻前からゆるむことのない鋭い瞳を見遣って、つい眉をひそめてしまう。

 時は、少し前に遡る。
 彼がこの村に訪れたのは、地主である父の「魔物が蔓延る森を抜け、ヌシとなったものも倒して家宝を取ってきてほしい」という依頼を受けるためだ。屋敷のすぐ裏の森の魔物たちが村の人間では手に負えなくなってしまい、近くの大きな街まで募集をかけていたものだった。
「森の奥の家宝を取ってくる。そういう話で間違いなかったな?」
 青い服に銀の髪。度々冒険者のあいだで噂されている、“青い閃光”まさにその人だとすぐにわかった。そしてその青い閃光さんはテリーと名乗り、依頼をひとことで要約してみせるから、そんな単純な話じゃないのになとつい思ってしまう。父も同じだったのか、「この森には危険が……」と言いかけるが、「問題ない」と話をぶった斬ってしまった。そうして面食らっているうちに、彼はさっさと屋敷を出ていってしまおうとする。慌てて止めて、それから娘のリーシェ――わたしのことだ――に森の中の道案内をさせる旨を父が話すと、彼は大袈裟なくらい眉間に皺を寄せてみせた。
 わたしは昔から本が好きで、自然が好きで、あちこちの植物図鑑や学術書を読み漁っては、それを自分の目で確かめるべく屋敷の裏の森に遊びに出かけていた。初めこそ危ないからと止めていた親や使用人も、いくら言っても聞かないからと静観するようになって。そうこうしているうちに、自然についての知識は人並み以上についたと思うし、癖のある裏の森のこともかなりわかるようになっていた。だからこの依頼にあたって、正しい道や危険な場所を教えつつ、ある程度深い場所まで旅人を連れてゆくのはわたしの役目となって、いるのだが。
「……こい、……彼女が?」
 ……わたしのことをこいつ、と言いかけてやめたところからして、見るからに不躾な青い閃光さんも、依頼主に対して最低限の礼儀は持ち合わせているらしい。わたしは性格もさることながら見た目も活発にみえる方ではないし、冒険者然としているわけでもないから、この怪訝そうな反応も理解はできるけれど。
「ああ、森は初見で潜るには危険すぎる。慣れている娘に途中まで連れて行かせるようにしておって……」
「必要ない」
 今度こそ、その人は父の言葉も聞かずに出ていってしまった。放っておいてもいいかなと少し思ったけれど、なんだかこのままでは後味も良くない。父に「一応様子を見てくるね」と告げて、すぐに彼を追いかけたのだった。
 森の入り口あたりで見つけた青い背中を、少し迷ってから「テリーさん」と呼んでみる。反応はないけれど、聞こえていないんじゃなく無視だろうと思った。なんとなく。
「途中までご一緒します」
「必要ないと言ったはずだ」
 ほらやっぱり、聞こえてた。口には出さないでいると、テリーさんは「本の虫がついてきてどうする」と背中を向けたまま吐き捨てる。……ほんのむし。ほ、本の虫って、わたしのことでしょうか。せいぜいメガネをかけているぐらいで、そんなふうに言われる筋合いはないような気もする。
「オレはあんたなんかより場数も踏んでる。今日だって旅の途中で強い魔物を倒しにきただけだ」
「……人を、見た目だけで判断するのは良くないと思いますけど」
 苛立ちというほどではないものの、少し硬い声になってしまった。その機微を拾ったのかどうかはわからないけれど、首だけで振り返った彼は、わたしを見遣って目を細める。その瞳が綺麗だって、そう思ったのは一瞬。
「オジョーサマに頼るほど貧弱じゃないんでね」
 ……これは、なんとも。
 ああそうですかと背中を向けることもできたけれど、わたしはこの瞬間、無理やりにでもついていってやろうと決意した。この自信に満ちた姿に、耳にする現実離れした噂。確かにテリーさんは、あっさり依頼をクリアして帰ってきそうな気もしてしまう。……それで。ほらなあんたの助けなんかいらなかっただろ、ってこんなふうに笑われてしまったら、わたしは今度こそはしたなく怒ってしまうかもしれないと思ったのだ。
「……オジョーサマ、じゃなくて、リーシェです。勝手についていきますし、危ないところは助言させていただきますから」
「……はぁ」
 呆れたぜ、みたいなため息をこぼして、テリーさんは森に足を踏み入れてゆく。表情が変わらなくてわかりにくい人だと、たったの数分前はそう思っていたはずなのに。どうしてだか言いたいことが伝わってくるような気がしてしまうのは、わたしが下に見られているからなんだろう。



 わたしを「あんた」と呼んできて、絶妙に不躾な言葉選びをしてくるものだから、わたしの方だけ“さん”なんて敬称をつけるのが気に入らなくなったのがついさっきのこと。
 ……とはいえ、わたしは人が怪我をしたり傷ついたりするところを見て面白がるような人間じゃない。だから何度も呼んでいるのに、テリーくんはわたしを無視して進んでゆくから、取り急ぎ要件だけ伝えることにした。
「その先のツタ、踏むと動き出すけど……」
「……!」
 痛いっとでも言いたげに動いて絡んでくるの、と付け足すと、テリーくんはツタを踏みかけた足を間一髪のところで引っ込めていた。視線だけこっちに遣ったテリーくんは……何か言いたげだ。もっと早く言えよ、とかそんなところだろうか。あいにくわたしは何度も止めていて、責められるようないわれはないので、「こっちが抜け道だよ」と特に彼の表情に触れることもなく道をさし示した。
 ずかずか進む彼をちょこまかと追いかけながら、また「テリーくん」と呼んでみると、さっきの一幕が効いていたのか今度はすんなり足が止まる。けれど振り返ったテリーくんは、「あんた、呼ぶより先に要件を言えよ」と眉をひそめてみせた。
「……だって」
「……?」
「そうしたらあなた、返事すらしてくれなさそうだもの」
 肯定とも、否定とも取れないような雰囲気。口を引き結んでいた彼は小さく息をついて、「それで、今度は?」とわたしの忠告を聞き入れるつもりがあるようだった。けれど「毒の沼地があるの。苔に隠れてるから、迂回した方がいいよ」と別の道を指せば、「なんだそんなことか」と突っ込んで行こうとする。「危ないってば」と、つい腕を掴んでしまった。
「おい離せ、邪魔だ」
「わたしの話、聞いてた? 毒の沼だよ」
「避けて通ったりいくらでもやりようがある。言ったろ、あんたより場数を踏んでるんだ」
「……この森のことは、わたしの方が知ってる」
「フン、どうだか」
 暗くて足場も悪くて、この瘴気を好む魔物だってうろついていて、ろくなことがないからこう言っているのに。「遠回りしている暇はない」なんて言って、なんだか初めからずっとひどく急いでいるような、そんな彼に妙な違和感を覚えつつ。掴んでいた腕をいとも簡単に振り解かれてしまった、そのとき。
 
 ……おそらく、気配に気付いたのはテリーくんのほうが少し早かった。ぴんと空気が張ったような気がして、そうだ、ここには――。
「ッ、メラ!」
 この環境を好んで棲みついて、毒を投げつけてくる魔物がいるのだ。脳裏に浮かんだ苦い痛みから、ほとんど反射でとなえた呪文が勢いよく飛んでゆく。暗い森を引き裂くような炎がほとばしって、ぶつかって、耳障りに弾ける音を残して消える。
「くさった死体がいるの!」
 見開かれた薄紫がきらりと光って、次の瞬間には思いきり腕を引かれていた。よろめいた拍子に尻もちをついて、近くで液体が飛び散る音がする。逃げなきゃ、いや、牽制のためにももう一度メラを――
「……チッ」
 焦って絡まる思考を断ち切るように、鋭く金属が鳴いた。ほとんど陽光の入らないこの森のなかで、鮮やかな手つきで抜かれたその剣が、つめたく微かに輝きをまとう。
「三、いや、四体か。……そこから動くなよ」
 果たして。それはわたしに言ったのか、魔物に言ったのか。それを考え込むひまもないような、瞬きひとつの間。わたしが呼吸を忘れたほんの一瞬。わずかな明かりを照り返したアイスブルーの光が、一直線に閃いた。
 ――青い閃光。ほんとうだ。
 断末魔が聞こえる。どうしてだか息が詰まって、吸い込んだ空気がやけに冷たく肺に滲みた。ざく、と土を踏む足音に肩が震えて、みっともなく座りっぱなしだったことにやっと気がつく。ただでさえ暗い視界に、ゆるく影が落ちてきた。
「腰でも抜けたか?」
 そんなテリーくんの声にぼうっとしていた意識が輪郭を持ちはじめて、耳元で響く自分の心音で我にかえったような気がした。しゃらん、と涼やかな音を立てて鞘に収められた剣は、先刻のあの一瞬を覚えているのだろうか――。そんなことがふと頭をよぎって、消える。「ううん」と小さく首を振って、それは強がりでもなんでもなかったけれど。
 音もなく、視界に青が飛び込んできた。……青い手袋。テリーくんの手だ。思わず少し顔を上げて、その手を差し出した主の表情を見遣ってしまうけれど、彼はその鋭い視線を崩すことはない。手を貸してくれるって、そういう意味でいいのかな。恐る恐る手を持ち上げてゆくと、「早くしろ」なんて急かされてしまう。
 思い切って手を重ねると、ぐっと強く握られて、それに驚く間もなく勢いよく引っ張り上げられる。無理やり突然立たされてよろめいてしまうけれど、やさしさなんて感じられない手付きだったけれど。理由を考えるより先に、胸にあふれてきたのは嬉しさにも似た暖かさだった。
「……あの、ありがとう」
「……フン」
 小さく鼻を鳴らして、ふいと顔を背けてしまったテリーくんとのあいだに、そっと沈黙が落ちてくる。すぐにでも歩き出すかと思っていたのに。小さく首を傾げて、テリーくんの次の言葉を待ってみる。
「……悪かったな」
 ……えっ。そう溢してしまいそうだった声を、すんでのところで堰き止めた。だって、この人、謝ったりするんだ。失礼極まりないことを考えてしまいながら、ぶんぶんと首を横に振った。
「わたしこそ……ごめんなさい」
 たぶんいろんな意味を込めて渡してくれた謝罪に、わたしも同じようにたくさんを込めてひとこと返した。テリーくんは、もう返事をしてくれなかったけれど。わたしがさっき指し示した通り、迂回する道を選んで歩き出したその背中を追いかけながら、ふたりのあいだに漂う空気が柔らかくなったような気がしていた。ほんの、少しだけ。

「……ねえ、聞いてもいいかな」
「……勝手にしろ」
「テリーくんは、どうして旅をしてるの?」
 相変わらずテリーくんの足取りは迷いなく、わたしが追いかけるような格好になるのは変わらない。けれど、受け応えは先程よりも冷たくはなくなっているような気がする。話をしてくれる気はあるみたいだった。
「最強の剣を探してる」
「最強の、剣……」
 おうむ返しをしてしまってから、飲み込んで考えてみる。わたしとそう変わらない歳のころで、そんな途方もない目標に向かって歩いているんだ。何も知らないながらに、すごいなあ、と素直に思う。淀みない足取りも、そう振る舞えるだけの強さを身につけたことも。ついさっき、この目で見たあの閃光のような剣捌きも――。会って間もないわたしにはわかりっこないだろうけれど、きっと努力してきたんだろうな。「教えてくれてありがとう」って、そんな言葉に返事はなかったけれど、それでよかった。
 まるでその熱に浮かされたみたいに、自分の想いもゆるやかに燻っていた。本をめくりながら、森の空気を吸いながら、近頃考えてしまうこと。少しで構わないから、聞いてほしくなった。
「……わたしはね、薬草が好きなの」
「……」
「だからたくさん勉強して、傷や病を癒す薬を作れるようになりたいんだ」
「回復呪文があるだろ」
「うん、そうなんだけどね。呪文が使えなかったり、薬草が必要になる場面ってあるでしょう」
 それは、他人に話したことはない夢のようなものだった。自然に触れて、たくさん本を読んで。それらが過去の経験と重なって、わたしの中に漠然と生まれていた“やりたいこと”。回復呪文で傷が癒えたり、神父様のお祈りで病が治ったりもする。けれど、みんなが呪文を使えるわけじゃない。それに、呪文やお祈りじゃ治しきれない伝染病だって、確かに存在しているのをこの目で見てしまった。
「薬草もね。そのまま使うだけじゃなく、ちゃんとした調合で、もっといい効能を引き出せたりもするんだよ」
 分かれ道に差し掛かって、ふと、テリーくんが足を止めた。次はどっちへ行くべきか、わたしが示すまでおそらく彼は動かない。これはチャンスかもしれない、とカバンを開けて小さな袋を取り出した。
「これなんか、ただのどくけし草じゃないの。わたしが特別に配合したから、毒も消えるし傷の痛みも引くんだよ」
 せっかくだしあげる、って差し出すと、テリーくんは顔をしかめた。それもそうか、ほぼ見知らぬ人間からもらう薬というのも気味が悪いかもしれない。いやでも、何度も自分で試して効能は折紙付きだし……。少し迷った末に、「わたしが毒見してみせようか?」って提案してみると、ふっ、と息が抜けてゆくような声がした。……笑った?
「……いや。もらっておく」
 そう言って、差し出された手。暖かな既視感のある青い手のひらに、小さく頷いてから袋を置いた。それから「押し売りじゃないだろうな」って目を細めるから、ゆるんだ表情につられるようにわたしも微笑んでいた。
「はじめて人に話したから、聞いてくれたお礼」
「大袈裟だな」
 懐にしまわれてゆくそれを見届けてから、進む方向を指し示して「もうすぐ着くよ」って言えば、「ああ」と短いけれど返事をくれる。ついさっきまで、なんとも馬が合わない相手だと思っていたのに。なんだか妙な居心地の良さに、依頼を終えて別れてしまうことを考えると、ほんの少しの寂しさが胸に滲んでいた。

 ◇


 最深部の一歩手前、「お前はここにいろ」と言われた通りにじっと待機していると、構えていたわりに拍子抜け、いやもはや予想通りだったかもしれないけれど、驚くほど早くテリーくんは戻ってきた。“家宝”が入ったらしい木箱と共に。
「悪くなかったが、まあこんなものだろうな」
 魔物についてそう言うから詳しく聞いてみると、毒の息なんかも使ってくる相手はそこそこに手応えがあったそうで、わたしの渡した薬草も出番が訪れたらしい。その効能については「効くには効いたが」とだけ言って言い淀むから、詳しく聞き出そうとしたけれど、それ以上は話してくれなかった。……でも、使ってくれたんだ。役に立ててよかった。言いようのない嬉しさが込み上げてきて、緩む頬がテリーくんにバレないようにそっと俯いた。
 そうして森の中を引き返しながら、テリーくんの旅のことをもう少しだけ聞かせてもらったりもした。といっても、わたしが質問を繰り返すようなかたちだったけれど。そうやって口数のそう多くないテリーくんとぽつぽつ話して、少し寂しいな、なんてぼんやり思ってしまう。それは単に、この村には滅多に同年代の子なんか来ないからかもしれないけれど。

 無事に村に戻ると父はたいそう喜んで、何度も何度もテリーくんにお礼を言っていた。当の本人はすぐに出て行こうとしていたけれど、父はもう日が暮れるからとテリーくんを引き留めて、村の宿に泊まってもらっていた。明日の朝もあいさつができるかなって、少しだけ喜んでしまったのはわたしだけの秘密。
 夜は疲れていたのもあってすぐに眠りに落ちたけれど、夜明け、まだ日も昇らないうちにわたしは目を覚ましていた。なんの変哲もない、屋敷の一室。ベッドのすぐ近くにある大きな窓の向こう、薄ぼんやりと明るい朝が訪れていて、微かに鳥のさえずりが聞こえてくる。また今日も、変わらない一日がはじまる。
 ……それでいいのかな。
 別に、今の暮らしに不自由があるわけじゃない。むしろ恵まれている方だとすら思う。実のところわたしは養子で、両親や兄とは血が繋がっていないけれど、それでも。きょうだい仲はいいし、多少他人行儀なところはあったかもしれないけれど、優しく育ててもらってきたのだと思う。
 このままここで暮らして、親の認めた誰かと結婚して子供を産んで、誰かに守られながら、静かに穏やかに老いてゆく。きっと、それが「普通」のことに違いない。

 ――まばたきで視界が暗く落ちた一瞬、思考を裂くように、あの閃光が瞼の裏で鮮烈にきらめいた。
 最強の剣を探してる、って。そんなテリーくんの声も、頭にこだまする。まっすぐな、強い目をしていた。磨き上げられた剣のような鋭さだった。何が彼をそこまでつき動かしているのだろう。いっそ危うさを感じるほどの強い決意に、ただ、純粋に興味を惹かれた。そして――。
 仕舞い込んでいた非現実的な夢を話そうと思ってしまったのは、きっとそんな彼の熱に当てられたから。その熱さが、冷めない。消えてくれない。思いきり息を吸い込んで、わたしはベッドを飛び出していた。
 何度も何度も着て身体に馴染んだワンピースに、慣れたブーツを履いて。兄にもらった短剣を腰にベルトで留めて、いつも肩にかけているカバンに最低限の荷物を詰め込んだ。親に頼ってしまうのは忍びないけれど、小遣いとして渡されていたゴールドも。そして、走り書きで置き手紙も残した。今までの感謝と、ゴールドをいつか必ず返しにくるということ。
 大して動いていないのに、なぜか息が上がっていた。きっと鼓動が激しくなっているせいだ。そうして部屋を飛び出してしまう前、姿見で確かめた自分は頬がほんのり紅潮していて、隠しきれない高揚感にまたばくばくと心臓がうるさくなるような気さえする。仕上げにゆるいウェーブを髪飾りで留めて、突拍子もない決意は、花開いてしまったらもう止められなかった。

 屋敷の正面から出るのは骨が折れるから、部屋の窓から桟を渡って庭に出た。何年も前、この部屋を与えられた頃からやる手口だ。はしたないって、何度か怒られたっけな。
 ゆっくり、ゆっくりと空が明るくなってゆく。分厚い窓越しには微かにしか聞こえなかった鳥の声は、風の音は、まっすぐはっきりわたしにぶつかってくる。急かされるように走り出すと、もうすっかり心拍数は上がりきっているはずなのに、どこまでも深く息が吸えるような気がした。どこまでだって走っていけそうな、そんな気さえする。
 ……そうして、見つけた。村のはずれ、出口にさしかかるあたりに、青く輝くその背中を。
「テリーくん!」
 ざっ、と彼は勢いよく振り返った。昨日は何度呼んだって振り返らなかったのに。わたしの声がしたことが、そしてわたしがここにいることがよほど不思議だったのか、「リーシェ?」って、焦った声がはじめてわたしを呼んでくれた。
 なんだ、君、そんな顔もするんだね。
「わたしも連れていって!」
「……はあ!?」
 テリーくんの驚いた声は、心の底から引っ張り出したみたいだった。まんまと足を止めてくれた彼に追いついて、肩で息をするわたしを、テリーくんは数秒のあいだ見つめていた。そうしてわたしが何か言う前に、「バカなこと言うなよ」って、昨日の調子を取り戻して腕を組んでしまう。
「家出の誘いなら他を当たれ」
「わたしは……っ、テリーくんが、いい」
「……はぁ……?」
 呆れてものも言えない、そんな顔。テリーくんが面食らっているあいだに息を整えて、「わたし、お母さんを病で亡くしたの」って、そう言えばテリーくんは怪訝な顔をする。それもそうだ、昨日テリーくんは屋敷でわたしの母と思しき人物に会っているのだから、わけがわからないだろう。養母であって、実の母ではないけれど。
「僧侶様に助けていただいたけど、呪文じゃ治らなかった。神父様のお祈りでも、どうにもならなかった……」
「……」
「その時からずっと、絵空事みたいで誰にも言えなかったけど、どんな病も治す薬を作りたかったの」
 回復呪文があるだろ、ってテリーくんも言っていた。きっとみんな、そう思うのだ。どこかの書物で読んだ「医者」なんて存在は、呪文や祈りで傷を癒すこの時世にはほぼいないのだろう。書庫にあった薬学や医学の本も、ずいぶん古ぼけたものしか残っていなかった。でも、わたしは。医者ほどの存在にはなれなかったとしても、得意なことを学んで、知識を生かしてひとを救うことができたらいいな、って。幼くて無力で、弱ってゆく母を前に何もできなかったあの頃の自分の無念も、ほんの少しでも晴れるかもしれないとも思ってしまう。
「それに……テリーくんに出会って。この村に閉じこもってるだけじゃなくて、もっと世界を歩いて、たくさんのこと、学んでみたくなった」
 きっと押し付けがましいわたしの主張に、テリーくんは黙ったままだった。わかってる、そんな甘い人でも、ぬるい覚悟を携えた人でもないってことも。「呪文は少し使えるから、自分の身は守れるし……それに」って、なんとか言葉を継いで、けれど同情だけで気を引こうと思ったわけじゃない。なにか考え込むように薄紫の視線を落として、息を吐いて、そうして開こうとした口は、わたしがカバンから取り出した金属音でぴたりと止まった。じゃらり、麻袋の中でゴールドが擦れている。
「ご、ゴールドもたくさんあるから、悪い話じゃないと思う」
「……お前な」
「サンマリーノまででもいいから……お願い」
 はあ、と一際大きなため息がこぼされて、組んだ腕を崩さないままに、「オレは別に、サンマリーノに行くとは言ってないけどな」なんてテリーくんは言った。
「それなら、どこでも構わないよ」
「ずいぶん主体性がないな。大丈夫なのかよ?」
「そういうことじゃない。大事なのは行き先じゃないもの」
 わたしにまで伝染した、君に宿る熱をもっと感じていたかった。できることならば、わたしが閉じこもっているそれよりももっと広い、君の瞳に映る世界をこの目で見てみたかった。それ以上でもそれ以下でもなくて、行き先なんて些細なことだった。……どう説明しようかと頭をまわしていれば、不意に「それはしまっておけよ」と、テリーくんは麻袋を顎で指す。
「無闇に金なんか見せびらかさない方がいい。オレが暴漢なら殺されてたっておかしくないぜ?」
「だって……テリーくん、そんなことしないでしょう」
「どうだかな」
 仕方なくカバンに戻そうとすると、「それに、あんたの金ってわけでもないんだろ」って、テリーくんは的確に痛いところをついてきた。うっ、なんて漏れた声が届いてしまったのか、テリーくんは小さく笑う。
「そういうところが甘っちょろいんだぜ、世間知らずのオジョーサマ」
「……全額、ちゃんと返しに来るって決めてるもの……」
「フッ、殊勝なこった」
 自業自得とはいえ、ちくちくとした言葉の棘に肩をすくめてしまう。はなから通用するとは思っていなかったとはいえ、お金に頼るなんて浅ましい手段はよくなかったに違いない。……どうしよう、次はなんて言おう。そうだ、次は薬草の話をしようと思って……。ぐるぐる考えていると、テリーくんは「オレは」って、どこかため息混じりにも聞こえるふうに口を開いた。
「薬の毒味役はごめんだからな」
「……え、」
「行くぞ。準備は済んでるんだろうな?」
 言葉の意味をうまく噛み砕けないままに、舗装された土を踏む音が数歩分響く。「いいの?」って、上擦った声に、「そこで突っ立ってたいんならそうしてろ」なんて返されてしまうから、もつれそうな足を慌てて動かした。
 本当にいいの? どうして連れて行ってくれるの? そうやって疑問は浮かんできたけれど、訊ねてしまうのはなんだか違う気がして、ただ「ありがとう!」って声を張った。駆け出してその背中を追いかけて、となりに並んで。とはいえわたしの方が歩幅が小さいから、迷いなく進むテリーくんに常に小走りでついていくような格好になるけれど。
「……薬草、といえば」
 不意に口を開いたテリーくんを見遣ると、眉根を寄せたような妙な表情をしている。なんの話だろうと続きを待っていると、「さっきの薬、効くには効くが……」と言われて、含みのある言い方をすっ飛ばして、少し嬉しくなってしまったのも束の間。
「お前、あれは味もどうにかした方がいいぜ」
「えっ、味?」
「マズいにも程がある」
 ……あ、味。……味のことなんて、考えたことなかった。眉間に皺を寄せるテリーくんの渋い渋い表情からは、よっぽどマズかったことが伝わってくるようだったけれど。ショックを受けたというよりは、目から鱗、に近かった。だってあれは、わたしが試行錯誤して編み出した黄金比なのだ。
「……でも、計算上は効能が最大限に発揮される配合なの。そう簡単に変えられないよ」
 ちょっと困惑しつつ、それでもちゃんと言い訳をしてみせると、テリーくんはほんの少しだけ歩く速度を緩めてくれたような気がする。そうして、それに感心する間もなく。ふっ、なんて、気の抜けたような笑い声がした。……それは。昨日耳にした一瞬よりも、さっき聞いたバカにするような響きよりも、暖かくてはっきりした、テリーくんの笑い声に違いなかった。
「わ、笑った……テリーくんが……」
「はあ? なんだよ、人を魔物みたいに」
「ううん、ごめん……それより、わたし何か面白いこと言った?」
「いや、気にしなくていいぜ」
「そう?」
「頭でっかちだと思っただけだからな」
「あ、あた……」
 踏み締める地面が草原に変わって、新鮮な草を踏む音が柔らかにひびいていた。そんな爽やかな気分のときに撃ち込まれた悪口に、ついついため息がこぼれてしまう。カタブツ、融通がきかないってことよね。間違ったことは言ってないのに。
「……テリーくんに言われた悪口で辞書が作れそう」
「あんなの悪口のうちに入るのか?」
「入るったら! 本の虫、世間知らず、頭でっかち……マズいとか、邪魔とか毒味とかも言われた……」
「オレは事実しか言ってないけどな」
「……」
 別に口げんかをする気はないけれど、恨めしさを込めてじっとりと見つめてみると、「フン」なんて軽い吐息ひとつであしらわれてしまう。
 ――でも、こうして並んで歩けていることが。つい昨日出会ったばかりの、「最強の剣」を探して旅をしていて、とっても強い剣士であることしか知らない男の子と、旅に出るということ。きちんとついていけるかわからないけれど、わたしの心に火をつけた君の、アメジストみたいな瞳にうつる世界を覗くチャンスをもらえたこと。そんな非日常の詰め込まれた“これから”が、わたしは楽しみでたまらなかった。
「……味がどうとか言うけどね。わたし、実は料理はかなり得意なんだよ」
「それなら尚更、なんであんなにマズいものが作れるんだよ」
「ふ、ふふふ、ひどいなあ」
 弾んでしまう胸に軽口が落っこちてきて、つい笑いが込み上げるわたしに、「呑気なやつだな」ってテリーくんは呆れたような顔をしてみせる。
「ねえ、もっと気安く呼んでいいかな」
「……?」
「テリー、って呼んでいい?」
「どうでもいいこと訊くなよ。好きにしろ」
 歩幅は合わせてくれない。優しく頷いてはくれない。けれど、それで構わなかった。

 どこまでも続きそうな空の下、ひとりぼっちの足音とは別の、強い意志を湛えた足音がきこえてくる。わたしの足取りはまだ覚束ないけれど、自分だけの明日に向かって進めるような気がしてしまうのは、君の歩みがここにあるからなんだろう。
 ふと視線を向けた先、テリーの青い帽子から覗く銀の髪が、柔らかな朝日をいっぱいに吸い込んできらきら光っていた。きっとわたしはこの一瞬を、ずっとずっと忘れない。





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