大人になりきれない


※「おばみつ」が結婚している描写があります。



 じゃあね。って、狭い玄関で君を見送るとき、いつも不思議な気持ちになる。お腹すいたねって言い合ったり、買い物袋をぶらさげてきたり、そんなふうに帰ってきた玄関から、君だけが帰っていってしまうこと。
 引き留めたいなんて思わなくて、でも寂しくて、うまく言葉にならない感情に惑わされている。そのせいで私が言葉を詰まらせていること、無一郎くんは気付いているのかもしれなくて。でもからかわれることはしばしばあるのに、この瞬間だけは、たとえば「帰ってほしくないの?」とか、そんな冗談すら言ってくれはしなかった。
 
 約束を控えていると、日に日に浮ついた気持ちになってしまう。そんな折、「今日連れていきたいところがあるんだけど」というメッセージを無一郎くんから受け取ったのは、お昼休みの終わりがけのことだった。どうやらご飯、それも珍しく外食のお誘いらしい。まあ急いで使いたい食材もなかったしとOKすると、あれよあれよと話の流れに乗せられて、職場の最寄り駅まで迎えにきてくれることになってしまった。どうせ僕はここで乗り換えるし、って。
 職場の人に見つかったら気まずいかもと思っていたけれど、それは杞憂に終わって。改札の中で待っていてくれた無一郎くんと合流して、いつもは乗らない違う方面の電車に乗り込むと、なんとなく肩の力が抜けてしまった。
「……大丈夫だった?」
「え、なにが?」
「仕事終わりだし……疲れてたりとか」
「そんな、大丈夫だから気にしなくていいよ」
 私のそわそわ具合が気取られてしまっていたかもと思うとちょっと落ち着かなくて、殊更に明るい声を出せば、無一郎くんも「そっか」とすこし安心したみたいに返事をしてくれた。おそらく仕事帰りの人で程々に混む電車の中、うつむきがちな無一郎くんの表情ははっきりとは見えない。ただいつもより少し近くなる距離に妙に焦ってしまいながら、ドア横の手すりをぎゅっと握りしめていた。そうして目線を彷徨わせていれば、視界にゆらりと映り込む、吊り革をつかむ無一郎くんの腕。……少し張った筋のような部分まで見えて、いろんなことを誤魔化すためにこぼれたのはわざとらしい咳払いだった。
「どうしたの」
「……なんにも」
「ふーん」
 軽くかがんだ無一郎くんに覗き込まれて、とっさにのけぞってしまう。なんにもって顔じゃないよね、なんて言いたげだった気がしたけれど、そのまま元の位置に戻っていく無一郎くんはひとまず見逃してくれるらしかった。
 よく考えれば当然のことだけれど、男の人だなあ、と思う。背が伸びてかっこよくなって、そんな十四歳のころとは違う君にそろそろ慣れてきたころなのに、違うんだって理解すればするほど心は落ち着かなくなる。焦りにも似たような感情が、少しずつちりちりと胸を焼いていた。
「……と、ところでですね」
「ん?」
「どこ、向かってるの?」
 話題を逸らしたかったのと、本当に気になっていたのと。訊ねてみると、「よく行ってる定食屋さんがあるんだ」って、ちょっと視線を伏せて無一郎くんは言う。なんだかその視線があったかく見えて、無一郎くんにも通うお店があるんだなあと妙に感心してしまった。口には出さなかったけれど。
 あんまり聞き慣れない駅のアナウンスと、「ここ。降りよっか」と短い言葉を合図に一緒に電車を降りると、湿った夜風がふわりと髪をさらってゆく。春はもうすっかり過ぎ去ってしまって、たったの数ヶ月前のことなのに、あの日の桜の花びらが恋しくなる。



 知らない場所の空気に浸されると、わくわくどきどき、そんな幼い感情が湧き上がってくるのを止められなくなる。隣を歩く無一郎くんにバレないように、ふう、と胸を満たす空気を吐き出した。ひとりだと半分くらいを占めてしまう不安は、君がいるからたちまちに姿を消していた。わくわくだけが残されて、浮き立ったような足取りだって悟られてしまいそうな気がする。
「もう着くよ」
「あ、うん」
 五分も歩いていないころにそう言われて、すこし上擦った声で返事をした。少し先に柔らかな灯りの漏れるお店らしき建物を見つけて、なんとなく直感で、あれだ、と思った。予想通りに「ここ」と短く言った無一郎くんは、私を見遣って扉に手をかけて、そして。
「僕の知り合いがやってるお店」
「え!?」
「行こっか」
 とんでもないことを言いながら目線を取り上げて、それからしれっと開けてしまうから、何か言う間もなくその背中を追いかけるしかなかった。
 ……知り合い、知り合いって、無一郎くんの? あたりまえか、当然だよね。どんな繋がりなの、どうして連れてきてくれたの、そうやって訊きたいことが瞬時に広がって、無一郎くんは道中そんなことを訊かれないよう今カミングアウトしたのかもしれない。
「いらっしゃいませー!」
 そのみずみずしい声は、無一郎くんをみとめた途端に「あら!」とピンク色付いた気がした。そうしてすぐ追うように慌てて「こんばんは」って入店した私を見てさらに、「あら!」と。また鮮やかになって、それは私も、声の主と視線が交わったからかもしれない。
「きゃ、無一郎くんっ……!」
 外から見ていたとおりに暖かい灯りに照らされて、桃色と、それから若草色の髪がふわりと揺れていた。きらきら輝く瞳は、これもきれいに透ける若草色。「一緒に来てくれたのね」って、惚れ惚れするような色に頬を染めて言う女性に、無一郎くんは平然と「こんばんは」なんて言ってみせた。
「待ってね、いま小芭内さんを呼んでくるから!」
「いやいいよ別に、って聞いてないか」
 すたたっと奥に引っ込んでいった彼女を見遣って、「とりあえず座ろっか」となんでもないように言ってみせるけれど、いや、まって、情報量が多い。「情報量……」とついそのままこぼしてしまう私に、無一郎くんは目を丸くして首を傾げている。
「し、しりあい」
「うん。知り合い」
「かっ、カノジョ?」
「は?」
 なにそれ意味わかんないんだけど、とコンマ一秒で顔に書いた無一郎くんに「ごめん」と慌てて謝りながら、とりあえず彼の向かいの椅子を引いた。ガタンガタンと音を立ててしまうけれど、周りをよく見れば他のお客さんはいなかった。
「や、だってその、すっごく嬉しそうだったから……無一郎くんに会えたのが」
「いや、さくらさんに会えて嬉しいんでしょ」
「えっ、私?」
「僕がいつもさくらさんの話をしてるから」
「いつも!? なっ、なんで!?」
「好きな人だから」
 清々しいほどの即答。つい一瞬息を止めてしまってから、「すぐそういうこと言う」なんて悪態をついてみせるけれど、「本当のことでしょ」とどこ吹く風である。
「ていうか、さっきの人なら結婚してるよ」
「そっ……かあ」
 まだ落ち着かないままに返事をしながら、どこで知り合ったんだろう、とこっそり考える。呼んでくるから、なんて口ぶりからして、ご主人のほうもお知り合いなのかもしれない。尚更どういう繋がりかわからなくなる。
 すると「気になるって顔してる」って、無一郎くんにすぐにバレてしまって、「そんな顔してたかな……」とうつむく私に君はくすくす笑っていた。
「……実はさ」
 すこし身を乗り出すみたいにして顔を寄せてきて、私も真似をするように無一郎くんに近づいてみる。周りには誰もいないけれど、ないしょ話をするような格好に心臓もどきどきといっそう音を立てていた。
「昔≠フ知り合いなんだ」
「……へ、」
 思わず見開いた目に、無一郎くんの柔らかなほほえみが映る。……昔? まさか、そんな。
「鬼殺隊の、同じ『柱』だった人たちだよ」
「……」
「生まれ変わって、前世の記憶を持ってるらしいんだ、ふたりとも」
 信じられないかもしれないけどさ。そう付け加えてから離れてしまうから、君がつくる影もさっと引いていって、オレンジがかった明かりが視界を白ませる。速くなってゆく鼓動すらもう、意識の外に吹っ飛んでしまって、ただ呆然と無一郎くんを見つめていることしかできなくて。
 ――信じられない、わけがない。だって、無一郎くんがこんな嘘をつくはずがない。それに私たちの出逢いが確かにここにある限り、どんな突飛な奇跡だってありえなくなんかない。だから、本当。君の言ったことは本当で、あの時代の君を知る人がここにいて、君はちゃんと、ほんとうに、ひとりじゃなかったんだ。
 そうだ、さっきの彼女が無一郎くんを映したときの表情は、心の底からの思いやりが色濃く滲んでいた。間違いなく大切な存在を見つめるときのそれだった。くだらない勘違いをしてしまうほどに、親しさと愛が精一杯に込められていた。私の知らない無一郎くんのことまで知っている、きっと無一郎くんにとってもいっとう大切な存在。
 ぽろ、と涙が転がり落ちていた。気付いた時には。そうして、目を見開いた無一郎くんは視界のなかで滲んでしまう。止めなきゃとかそんなことを考える前に、もうひとつの目からもこぼれ出ていた。次から次へと、自分でもわかるくらいに大粒の涙が転がって、落ちて、ぽたぽたと音を立ててゆく。
「さくらさん、」
「ごめ、ん、わたし……」
 机に乗せたままだった手にそっと触れられて、そのままゆるく握り込まれても、喉が焼け付いてなんにも言えなかった。うつむいて唇を噛んで、なんとか涙を堰き止めようとするけれど、そんなにうまくはいってくれない。手を握り返せないままに肩を震わせる私を、「さくらさん」って、凪いだ声が呼ぶ。
「謝らないで。……ねえ、ありがとう」
 ……ありがとう。って、どうしてそんなこと。
「僕はさ」
 君の声を逃すまいと息を止めて、まだこぼれようとする涙を指先でごまかして。無理やり顔をあげた私を見つめている無一郎くんが、どうしてだか泣きそうに見えたのは一瞬で、そのまま静かに首を横に振ってしまうから。引っ込められた君の言葉に手を伸ばす方法を、私は知らない。
 すると不意に、ティッシュの箱が視界に飛び込んできた。「よかったら使ってくださいね」って、さっきの甘く優しい声で言われて、羞恥だかなんだかが混ざり合って妙なくらいに心臓が跳ねてしまう。そうだ、ここはお店で、無一郎くんのお知り合いに会いにきていて……。
「私たち、お邪魔かもしれないから……奥にいるわね」
 私がお礼を言う前にそんなことを言われて、ぱっ、と反射的に繋がっていた手を離してしまった。しまった、とは思ったけれど、人前でこんな状態でいるのはあまりにも忍びない。お構いなく、すみません、ティッシュありがとうございます、なんて上擦った声で言葉を並べ立てて涙を拭く私の前で、手を振り解かれた無一郎くんはなんだかムスッとしているように見えたけれど。変なところだけ大人ぶってしまう私は、取り繕えなくなるのは君とふたりのときだけらしい。

 そうしてなんとか気を取り直して挨拶をして、それから無一郎くんがお互いを紹介してくれた。「こちらが橘さくらさん」って、珍しくフルネームで呼ばれてほんの少し心臓が跳ねてしまった。
 ご夫婦は伊黒さんというそうで、けれど無一郎くんは癖なのか「甘露寺さん」と奥さんを時々旧姓で呼んでいた。そのたび旦那さんの纏う空気がぶわっと乱れていたような気がするから、クールに見えてだいぶ愛情深い人、なの、かもしれない。初対面の私ですら気がつくのに無一郎くんは何にも気にしていなさそうで、慣れっこなのか持ち前の胆力の強さかどっちだろうとこっそり考えてしまう。それは、緊張をごまかすための現実逃避でもあったけれど。
 お子さんもいるから夜はたまにしか営業していないとかで、今日は無一郎くんと、それから私のためにお店をわざわざ開けてくれたらしかった。「準備してくるわね」ってついときめいてしまう笑顔を残していった奥さんを見送って、ぽつり、無一郎くんがつぶやく。
「……二人とも、昔からずっと気にかけてくれてて」
 俯きがちに、「この時代で、さくらさんに会えない間も」って付け足されて。その声に滲んだ寂しさにも似た何かに、胸がきゅっとへこむような心地がする。
「だから、なんていうか、紹介できてよかった」
「……うん」
「いきなり泣くからびっくりしたけどね」
「ごっ、ごめん……」
 別にいいよってからりと笑って、「意外と涙もろいとこあるよね」なんて言って頬杖をつく無一郎くん。あまりにもその通りで、でもやっぱり情けなくて言い返せないでいると、ふとキッチンのほうからふわりとお出汁のいい香りがしてきて、つい。たぶん、待ち遠しさが顔に出てしまった。はっとしてすぐ表情を戻したけれど、そんな私にやっぱりすぐ気がついた無一郎くんは、「そういう単純なとこ、好きだよ」って優しく笑うから、口をつぐむ以外に何もできないままだった。

 運ばれてきたお料理に舌鼓を打ちながら、奥さんと少しずつ話をしているうちに、私たちはすっかり打ち解けていた。「よかったら名前で呼んで」って頬を染めて言われてしまえば断る理由なんぞあるはずもなく、蜜璃ちゃん、さくらちゃん、って呼び合って。無一郎くんは「こんなに仲良くなるなんて」って目を丸くしていたけれど、よく考えたら相性良さそうかも、なんてひとりで納得していたりもした。そうして蜜璃ちゃんに「せっかくだし一緒に食べましょ!」ってお盆にてんこもりの桜餅を出してもらって、思わず椅子から落ちかけたのが今さっきのこと。
「さくらさん、まだ食べられるの」
「うーん、甘いものは別腹みたいなところあるし……」
「きゃ、わかるわ〜その気持ち!」
 ご飯を食べ終わってから私と無一郎くんは隣り合わせになって、向かい側に伊黒夫妻、というふうに席替えをしていた。旦那さんはお片付けをしていたみたいだったけれど、蜜璃ちゃんに誘われると静かに隣に座っていて、やはり相当ベタ惚れとみて間違いなさそうだ。
 私の数倍のスピードで桜餅を食べてゆく蜜璃ちゃんを横目に、「無一郎くんは食べないの?」「じゃあ一個だけ」なんて少し小さな声で言葉を交わしていれば、ふふ、と蜜璃ちゃんの柔らかな笑い声が響く。思わず首を傾げてしまうと、「やだごめんね、つい」って蜜璃ちゃんは顔の前でぶんぶん手を振っていた。
「ふたりを見てるとね、とっても仲良しなのがすっごく伝わってきて、キュンときちゃうっていうか、ぐわーっとなるっていうか……!」
 キラキラの瞳でジェスチャーを交えながらそんなことを言う蜜璃ちゃんに、今更ながら気になった。――無一郎くんはこのふたりに、私のことをどうやって伝えているんだろう、って。まさか、付き合ってることになってたり……そ、外堀埋められてる!? そうやってばかみたいなことを考えていれば、無一郎くんは「そんなずるいことしないよ」って、私の心を見透かしたみたいに耳打ちしてくるから、つい思いきり背筋を伸ばしてしまった。
「そうでしょ。あともう一押しだと思うんだけどね」
「きゃ〜……!」
「む、無一郎くん」
 慌てたような私の声に、「なに?」って涼しげに眉を上げる無一郎くん。そうやって訊かれるとうまく言葉になってくれなくて、喉の奥に恨み言はつっかえてしまう。これは、どっちにしろ外堀を埋められているような……。しれっとお茶を啜る無一郎くんの横で肩をすくめていると、蜜璃ちゃんが「なんだか嬉しくなっちゃうわ」と顔を綻ばせるから、なんだか私もふっと力が抜けた。
「私たちにとって、無一郎くんって弟みたいな存在だから……嬉しいのよね。大切なひとができたこと」
「大切なひと……」
「大切じゃなかったら、こんなに優しい顔はできないもの」
 ね、って蜜璃ちゃんが同意を求めたのは旦那さんで、けれど彼は軽く顔を背けて「そうだな」と一言、……そうだな? まさかこのクールな旦那さんにまで肯定されるとは思わず、かなり面食らってしまった。
 逃げ場のないこの状況、顔があつくてドキドキして、思わず突っ伏したくなってしまったりもするけれど。こっそり盗み見た先、無一郎くんもすこしむず痒そうな顔をしているようにも見えて、それがまるで蜜璃ちゃんの言うとおりに弟≠ンたいだから、もう引っ込んだはずの涙がまた滲んでしまいそうだった。家族みたいなぬくもりが、むず痒くなるような優しさが、君のそばにもちゃんとあるんだ、って。

 ◇

 また来てね、ってずっときらきらしていた笑顔に見送られて、ありがたいことにお土産に桜餅までいただいてしまって、私たちはふたりで帰路についていた。楽しかったね、連れてきてくれてありがとう、なんて電車で言葉を交わしているうちに、私が降りる駅でしれっと無一郎くんも降りたかと思えば、何か口を挟む間もなく「送ってくよ」なんて言われてしまって。今日はずっと無一郎くんのペースに飲まれている。まあ、今日に限ったことではないんだけど。

 ぽつぽつと言葉を交わして家を目指しながら、そっか、無一郎くんはこのあとすぐに帰っちゃうんだ、って突然寂しさに襲われる。……ひとりでいた時間のほうが、ずっとずっと長かったはずなのに。ああ、もう着いちゃうなあ。
「さくらさん?」
 マンションの少し前で立ち止まった私に気づいて、無一郎くんも道端で静かに足を止めた。頼りない街灯の下、ちいさく首を傾げる君から逃げるみたいに目を逸らす。
「……あ、会ってよかったのかなあ、私なんかが」
「……」
「なんて、ごめん、すごく素敵な人たちだったから、なんか……」

 大切だよ。君のことが、ほんとうに大切。そう思えば思うほどに、やっぱり怖くなる。君には無限の未来があって、ちっぽけな私なんかじゃだめで、いつか離れ離れになってしまうかもしれなくて、それで――

「ん!?」
 ざっ、ざっ、と迷いのない足音がしてすぐ、顔を上げた途端に頬をがっしり掴まれた。……比喩でも、なんでもなく。無一郎くんの右手に挟まれて、「にゃに……」と情けない声が出て、じっと瞳を覗いてくる無一郎くんの眉間には、よく見るとしわが寄っている。
「つまんないこと考えてるでしょ」
「へ……や、あの」
「涙脆いとこも好き。でも、こんなことで泣かないで」
 ぎゅっと口のすぼまった実に間抜けな顔のままだったけれど、その言葉はまっすぐで切実だったから、「うん」って、そう答えることしかできなかった。私いま泣きそうな顔してたんだ、って気付かされて、もちろん泣いてしまうつもりなんかなかったけれど、私よりも私を見てくれる無一郎くんに胸がぎゅっと狭くなるような心地がする。そんな気持ちをやり過ごしながら、なんとか「ごぇん」って、動かない口で謝っておいた。
「わっ、わかったから」
「……」
「はなして……」
 依然むっとしつつも離してくれた無一郎くんは、つい縮こまるように肩をすくめる私に、「さくらさんはさ、いろいろ考えすぎ」ってじっとりした視線を私に向けてくる。渋々、といったふうに手を引っ込めながら。
「……そりゃ私……大人だもん」
「ふーん、僕はガキだってこと?」
「えっ? えええ……」
 いきなりの曲解に「そんなこと言ってないよお……」と思わず弱りきった声を出してしまうと、ふっと小さく吹き出して、「冗談」なんて言って無一郎くんは表情をゆるめてくれた。少し肩の力が抜けて、「調子狂うなあ」って呟きが聞こえた気がしたけれど、どう考えてもそれはこっちのセリフだ。けれど言い返すわけにもいかなくて、「もう……」と中身のない悪態をつくことしかできなかった。
「……じゃあ」
「……うん、」
「今日は帰るから」
 ややあって無一郎くんはそう言って、「早く寝なよ」って小さく微笑んだ。こくりと声も出さずにうなずいてから、これはどう考えても名残惜しさ満点の態度だ、と焦ったけれど。無一郎くんはゆるく目を細めて、たぶん自惚れなんかじゃなく、君もその視線に名残惜しさを滲ませて。それから「おやすみ」って手をひらりと振って、元来た道を引き返してゆく。
「……お、やすみ」
 後先考えない私でも、いま君を引き止めるような無謀なことはできなくて。遠ざかってゆく君の背中をしばらく見つめてしまいながら、ぐるぐる、思考回路は今日のことにすっかり支配されていた。楽しかったことも嬉しかったことも、最後にやけどみたいに遺された寂しさも。
 そうしてその夜は頭の中がいっぱいでちっとも眠れず、朝方やっと寝落ちてやっぱり寝坊して、遅刻ギリギリで会社に駆け込む羽目になったのだけど、これは無一郎くんには内緒にしておこうと思う。





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