君のくちづけはとっておき




※現パロ風味
 



 とっておきのワンピースがある。このあいだ買ったばかりの、まだ袖を通していない洋服。淡いグリーンの水彩みたいな花柄がきれいで、大きな襟もひらひら柔らかに踊るスカートも、ぜんぶがかわいくてしかたない。職場に着て行くのはなんだかもったいなくて、はじめて着るのはデートの日にしよう、なんて、まるでピュアな女の子みたいなことを考えてしまうほど、私にとってそのワンピースは『とっておき』だった。

 そうしていざそのワンピースに袖を通した日、それは待ちに待った瞬間で、鏡に映る私はワンピースの華やかさにちょっぴり負けているかもしれないけれど、そんなことはこの際どうだっていい。かわいい。……かわいいなあ。これを着て、無一郎くんとデート、かあ。デートだなんだと騒ぐ歳でもないよな、と思いつつ。そんなひねくれた自分に、いくつになってもわくわくしていたっていいでしょ、なんて文句も言いたくなってしまう。そうやって浮き立つような気持ちに浸されながらも、ひとつの問題にぶち当たった。
 ……これ、背中のファスナー、閉められるかな。こういう洋服にありがちなバックジップ型は、肩の関節が硬い私には少し難易度が高そうで。ぐっと背中に手を回して真ん中くらいまで上げて、そうして上から手を回して……うーん、あとちょっとなのに。そうやって唸っていると、「なにしてるの? なんの声?」と顔を覗かせた恋人の姿に、私は思わず目を輝かせてしまっていた。
「無一郎くん!」
「なに」
 ふしぎそうに瞬きを繰り返す無一郎くんは、いつか私が「その髪型好きだな」って言ったふうにゆるく髪をまとめていて、懲りずにきゅんとしてしまう。……かっこいいな、無一郎くんって。何度思ったって足りないことを考えながら、君の髪や瞳の色を意識して選んだワンピースに視線を落とす。気付かれているかもしれないけれど、色選びの理由は一応ないしょ。こっそり深呼吸してから、背中を指差してみせた。
「あの、背中のこれ……あげてほしくて」
 ちょっと恥じらいはあれど、同棲までしていればわりと慣れみたいなものも生まれてくる。なにより今は、恥ずかしさより助けてほしい気持ちが勝ってしまっていた。頼まれた無一郎くんのほうも特に気にする素振りもなく、「いいよ。貸して」と歩み寄ってくるから、いそいそと「お願いします」と背中を向けた。
「ふーん、届かなかったの」
「うん……」
「なまえさん身体硬いもんね」
「言い返せない……」
 これくらいの揶揄いは想定内だったので流していると、さっそく上げてくれるようで、無一郎くんの指がかるく背中に当たる。ほどなくして、じじ、と小さくファスナーが滑ってゆく音がして、なんとなく肩をすくめて固まってしまう。……なんか、思ったより緊張するかも、これ。生地が引っ張られて上げにくかったのか、腰のあたりを押さえるみたいに手を添えられてしまうし。素肌に近いところに指先があるのも、無防備に背中を晒してしまっているのも、何も不健全なことはしていないのに、良くない方へ思考が傾いてしまいそうだった。
 どうしよう、そんなゆっくりじゃなくて、もっと早く上げてくれないかな。自分勝手なことを考えてそわそわしていたそのとき、ふいに無一郎くんの指先が首筋にふれるからおかしな声を上げてしまった。
「っわ、な、なに……?」
「髪。巻き込んじゃうよ」
「あっ……そっか」
 そう言って手を伸ばすより早く、無一郎くんの手にさらりと髪を避けられてしまった。髪に隠されていたうなじが晒されて、空気に触れてすこし冷えたはずなのに、ゆるくなぞっていった君の熱は残されている。
 ……ああもう、朝からなに考えてるんだろう、だめだめ。それもこれも、無一郎くんがいつも変ないたずらをしてくるせい。わざとなのかそうじゃないのかのギリギリを攻めるみたいなことをして、私がむっとすれば「意識してるの?」なんて言って笑ってきたりするのだ。いくつも年下の男の子に翻弄されて情けないと思うのに、いいようにされるのがいつものことで。今だってそう、ぜったい狙ってやっているに違いなくて、意地でも乗っかってやらないぞとこっそり決意を固めてみる。……そんな私を知ってか知らずか、無一郎くんは相変わらずゆったりとファスナーを引き上げつづけていて、そして。
「はい。できたよ」
 そう言って腰からも手を離して、片方に流していた私の髪を背中に戻してくれて、ぽん、と頭に置かれた手も一瞬で離れてゆく。拍子抜け、なんて、無駄に意識してしまっていたせいでそんな言葉が頭を過ぎる。……私の、気にしすぎか。それもそれで恥ずかしいし、妙に空回ってしまったような喪失感が、あったりなかったり……。
 まあ、とにもかくにもこれで何事もなく出かけられるわけだし。気を取り直してお礼を言おうと、そうやって顔を上げようとした私の視界に、すっと無一郎くんの影が落ちる。そうして身構える間もなくふわりと抱かれて、「なまえさん」と呼ばれて、耳元に唇が寄せられて。

「下ろすのも僕にさせてね」

 かっ、と瞬く間に血が昇って身体が熱くなる。無一郎くんはついさっきまで触れていた背中のファスナーをまた指でなぞってみせるから、情けなくも固まったまま動けなくなってしまって、「ふふ、耳真っ赤」なんて声にも返す言葉が見つからない。
「……そ……ういう、殺し文句、って」
「ん?」
「どこで覚えてくるの……」
「どこ……かは、わかんないけど」
 うつむいたまま絞り出した質問に、無一郎くんはなんでもなさそうな調子で言う。──「なまえさんのために覚えたんだよ」なんて。ほんとうに君は、君はどこまで私を惑わせたら気が済むんだろう。
「…………無一郎くんのいじわる……」
「手伝ってあげたのにそんなこと言うんだ」
 なにを言っても跳ねかえされて、プライドもぜんぶ崩れてしまうのが悔しいと思うのに。髪を撫で付ける手がとびきり心地良くて、君には敵いません、ってもう認めてしまいたくなる。
 恐る恐る顔を上げると、ばちりと視線が交わった先で無一郎くんがゆるやかに目を細めて笑うから、ぎゅっと心臓が縮んだような気がした。「ありがとう」とこぼしたお礼が少し投げやりになってしまっても、やっぱり嬉しそうに受け止めてくれるから、この笑顔が見られるならなんだっていいのかもしれない、って。そんなことを、こっそり思ってしまう。
「ねえ、なまえさん」
「……なあに」
「これ、似合ってる。可愛い」
「……う……」
「僕の色みたい」
 ……もう降参。「私の負けだからもうやめて」と両手を上げてみせると、「なにそれ」と無一郎くんはからりと笑った。

 ──そして今日いちにち、無一郎くんの言葉が頭から離れないままに落ち着きなく過ごしてしまう私と、そんな私をしたり顔で見つめていた無一郎くんがいたのは、また別の話である。




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