たとえば。
今ではなく10年前に君と出逢えていたならば。
今のこの関係は、
今のこの距離は、
今のこの想いは、
違ったのだろうか。
まだまた子どもで何も考えなくて良かった無邪気だったあの頃、神様は僕らの味方で。
何だって叶うような気がしていた。
でも神様なんていないのだと、そう理解をしてしまった今は。何も叶わない。
願っても、祈っても、何も変わらない。
それとも神はそんな僕を嘲笑っているのだろうか…。
「紫、眠るなら自分の部屋へ行きなよ。」
「ん、んー。」
僕のベッドに寝転がる彼女から生返事だけが聞こえたかと思ったら、続けて気持ち良さそうな寝息が漏れて来た。
彼女が眠りに落ちたサインだ。
「…全く。」
僕は掛けていた眼鏡を机の上に置くと、紫の眠っているベッドサイドに腰を掛けた。座り込むとギシリとベッドのスプリングが軋む。
それは僕を思い留まらせる音、でもあった。
白いシーツに紫の長い真っ直ぐな黒髪が流れて、緩いカーブを作る。
普段化粧を嫌う紫の肌理細かな白い肌が対照的な黒髪からちらちらと覗いて。
体を横に向けて両手を胸元でキュッと握り締め、足を折り畳み、縮こまった姿はまるで胎児のようだった。
そしてそれはこちらが困惑するほど、無防備であった。
この手を伸ばせる距離で僕が何を考えているか、君には解るだろうか…。
勉強を教えてと言うから、部屋に招き入れたら、今度は眠いからと人のベッドに転がり、眠りに落ちてしまった紫を見て、参ったなと口に手を添える。
そして無防備なその姿に無意識に手を伸ばしてハッと我に返った。
いつもの眼鏡(かべ)がないから、つい枷が外れたか、どうやら本音が出やすくなってしまうらしい。
紫の髪を一房指で掬ってみた。サラサラと零れてゆくその様が僕らの関係に似ていると思った。
すぐに触れられるのに零れていきそうなギリギリの形。
僕と紫は兄妹だ。
血の繋がりはなくとも、同じ屋根の下に暮らす家族だった。
知り合ったのは父が再婚をした17歳のとき。
その頃の僕らは兄妹と言っても、友人よりも遥か遠く、だからと言って顔見知りとはまた何か違う、微妙な関係であった。妹に興味のなかった僕には奇妙な存在であった。
知らないのに、でも全く知らない訳ではない人間が自分の隣の部屋で生活をしている様。
こんなにも近い距離…。
そのうちに裕次兄さんや雅弥を通して紫との距離がいつしか近づいていて、気が付けば自然と僕の隣には紫がいた。
いや、自然と僕が紫の隣にいた、と言うべきか。
だから改めて思い知らされた。気が付いたときには遅過ぎた、僕たちのこの距離に。
妹ではなく、女として近付き過ぎた。
近付き過ぎたところで僕らの関係は出逢った頃と何ら変わりはなくて。兄妹だった。
これが父が再婚した17歳ではなく、10年早ければ、こんな想いに駆られることはなかった。
純粋な子どもの頃であれば、女の子ではなく、実の妹のように、もしくは友人のような妹として受け入れられたはずだ。
あの頃は神様が僕らの味方で、どんな関係にもなれたはずだった。
たとえ恋心を抱いてもそれを神様が叶えて幸せにしてくれたんだ。
しかし神様なんていなくなった今の僕らには自分で自分を保つしかなくて、こんなに手の伸ばせる距離に君はいるのに触れることすら許されない。
もう神は僕らの味方ではない。
願いを叶えてはくれない。
僕らは兄妹、なんだ。
「…ん、」
紫が寝返りを打つ。小さな背中が僕に向けられて、無性にその背中を護りたくなる、僕だけが君を護りたくなる。
でもそれは僕の役目ではない、神様はもういない。
神がいないならば、自分で自分を保つ以外術がなくて。
それはつまり僕の眼鏡(かべ)のように自分で自分の枷を外すことも可能と言うこと、で…。
そろりと、僕は紫のすやすや眠る顔の両側に腕を立てた。これで退路は塞がれた。
僕と君を隔てる眼鏡(かべ)も取り外された。
何も知らない君の、この近過ぎた距離を近付ける瞬間。
神が僕を嘲笑っている。
それでもいい。
もう僕らは神に守られる世界にはいないのだから…。
だから、この世界は僕らで作る。
そうして僕は。
君のその小さな唇との距離を、隙間を失わせた。
近すぎる距離から近すぎた距離へ…。
(もう、距離なんて無くなったよ、)
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