こちらの世界の私は雅季くんのことを好きになり、そして振られた。
そんな私を雅弥くんが好きになってくれたけれど、私はその想いに応える事は出来なかった。
あちらの世界の私は雅弥くんのことを好きになり、そして振られた。
そんな私を雅季くんが好きになってくれたけれど、私はその想いに応える事は出来なかった。
こちらの世界の私とあちらの世界の雅季くんは苦い絶望を味わっていた。
鏡の向こうの世界ならば、相手は自分のことを想ってくれていたのではないかと…。
『私』と『私』が世界を入れ代わればうまくいくのではないか、と…。
「…はは、なんて夢の世界でもあるまいし…。」
私は自室にある姿見に映る泣き腫らした自分の顔を見て笑った。
瞼がぷっくりはれて、白目はウサギのように真っ赤だ。頬には乾いた涙の筋がうっすらこびりついていた。なんて痛々しくて惨めな姿。
この姿見は西園寺家の倉庫にしまわれていたもので、細かに彫られた白いアンティークな枠がところどころやや緑色に変色をしていた。しかし何故だかそんな古ぼけた鏡に惹かれてしまったのだ。
御堂さんに頼んで運んでもらったその姿見は私のお気に入りとなっていた。
深夜0時51分、私は吸い寄せられるように私を映す鏡に手を伸ばす。すると向こうの私も同じようにこちらに手を伸ばして来た。
鏡だから当然だ。
そこからまるで異世界の扉を開くようにいたずらに人差し指をゆっくり鏡近付けてみた。鏡の中の私と同時に触れる瞬間、向こう側の私がクスリと微笑んだ気がして。鏡面にゆらり、波紋が広がる。
体重を預ける鏡面が揺れたことで私の体は行き場を失って、そのまま揺れる鏡の中に傾いて行った。
『世界を交換しちゃおうよ?』
『僕は君を待っているよ。』
遠くにもう一人の私の声と雅季くんの声が重なるように聞こえたような気がして、私にまとわりつく空気が泥のように重く、藻掻いて、必死に藻掻いたところでハッと息を思い切り吐いた。
このいたずらなちょっとした私の行動が私の世界を一変させた。
視界に入るものをぐるりと取り敢えず見渡す。
白い天井にオフホワイトのカーテンとベッド。ラベンダーのアロマオイルの香りもする。背中にはいつも踏みしめているベージュのもこもこの絨毯が私を受け止めていた。
ここは…見覚えがある。私の部屋だ。でも何かが違う。
私の部屋の窓は東側にあって朝日がたっぷり射し込む角部屋だ。この部屋にその窓はなくて、代わりに西側に窓があって夕日がちょうど傾く位置だった。
部屋の中も何かが違う。
机の上に置かれたパソコンとオーディオの配置、ぬいぐるみと写真立ての配置、ソファーとテーブルの位置、とにかく色んなものがいつもの部屋と逆に配置されている。
壁ぎわに掛かった時計に目をやると何故か左回りに秒針が刻まれていた。
何かおかしい。私の部屋だけれど私の空間ではない。
つっ、と背中に冷たい汗が滴った。
「気が付いた?」
体を起こして声のする方を向けば、私の人差し指を優しく握り締める愛しい人の姿があった。
なんで、雅季くん…?
私の想いが届かなかった日から私たちはお互いを避け合って、目すら合わそうとしていなかったのに、何故かそんな雅季くんが私の顔を覗き込み、じっとその色素の薄い瞳で真っ直ぐ見つめてくる。
そんな眼差しが私の胸にギリッと爪を立てた。
優しくしないで、見つめないで、近くに寄らないで。
やっと飲み込んだはずの涙をまた吐き出してしまうから。そんな醜態までも貴方に見られたくはないのよ。
「…雅季くん、私のこと何とも想っていないってはっきり言ったよね?だったら優しくするのは残酷なことだって知ってるよね?」
ギリギリで零した私の言葉に雅季くんはふうっと大きく息を吐いた。
「…僕は君を待っていたんだよ。」
私の人差し指を掴んでいた手がそのまま手の平を滑り、腕に這い上がる。鎖骨と首を撫でられたと思ったら、その手は私の頬を包んでいた。
「…僕は君に同じ事を言われた。何とも想っていないって。」
「嘘っ!私は雅弥くんにはそう言ったけど、雅季くんに言われた。」
まさか、と改めて雅季くんを隅々まで見つめるが、彼は雅弥くんじゃなくて雅季くんだ。
私が彼を間違えるはずはないんだ。間違えたりなんかできないんだ。
だから、苦しい…。
同じ双子でも雅季くんじゃないとダメなの…。
でも一体どういうことなの?
私が雅季くんと不思議な私の部屋の空間を交互に見やる。
私は彼に振られた。
でも彼は私に振られたと言う。
「…***、僕は君が好きだよ。」
欲しかった彼からの言葉が、彼の瞳が、温もりが。今私の目の前にある。
絶望的に涙を枯らして手放した貴方がこの手の中にある…。
私は自然と瞼を伏せると、目の前にいる雅季くんの首に腕を絡み付けた。
私の目の前には私を求める雅季くんがいる。
私の欲しかった貴方が…。
「振られてお互いに絶望的だったね。」
―そうね。
「でもこちら側に来たからには君は僕のものだよ?」
―こちら側?
「彼女も向こうで今雅弥と幸せにやっているだろう。」
―なんの話?
「幸せになるべき世界にいるべきだって話…。」
そのまま唇が塞がれて、私の意識は遠退く。
遠い遠い夢のような、そんな感覚に私は瞳を閉じた。
ガッシャーン!
遠い夢の中で何かが割れたような音を聞いた気がする。
でもあれは何の音だったのかしら…?
いたずらな指先。
(『幸せになる世界に、身をおくべきなんだ。』、そう割れた鏡の前で少年は呟く。深夜0時51分、世界が変わる、永遠に。)
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