世間の人気を博す小説家である廣瀬遼一との連載小説の打ち合せが終わった。
今回は廣瀬さんの自宅ではなく、VIPルームに呼び出され、そのまま皐月さんに予め用意をしてもらっていた別室にて次回のテーマについて話をしたのだった。

私が来る前にどれだけあのセレブの人たちと飲んでいたのだろうか。部屋を出る間際に一瞬近づいた彼からは仄かにシャンパンの香りがした。

私はその彼との距離にどきりと跳ねた心臓に悔しくて胸の中心に手を重ねて、錯覚だ、と呪文のように唱えながら先に廊下へと歩いてゆく彼の背中にゆっくりと着いて行った。

でもその私の踏む一歩一歩がいつもより弾けていたことは前意識と無意識の間を行きつ戻りつしながら、そのまま無意識に追いやった。
7センチのヒールのある黒いパンプスが少しだけ軸を揺らがせたのはそのせいかもしれない。





ポーン。
乗り込んだエレベーターが2階で止まり、そのままエントランスへと続く螺旋を描く階段へと向かう。

「では、また改めてこちらから廣瀬さんにご連絡させていただきますので。」
「はいはい。次は打合せはどーする?俺ん家でする?んで、序でに抱いてやろうか?」
「結構です!」
「はいはい、解ってますよ。」

かかか、と高笑いする廣瀬さんの後ろ姿をちらちらと網膜で追いながら階段に足を下ろし、私はスケジュール帳に次の予定の書き込みを続けた。
指に握るボールペンに力が籠もるのが僅かに解った。一々、この人の言葉に揺さ振られる自分が悔しかった。
だからいつもつっけんどんで返す。それでしか保てないのだ。





「編集長と話をしてからなので、明日の午後以降になるかと、」

と廣瀬さんの背中越しに、私はスケジュール帳越しに言葉を落とした時だった。
7センチのヒールがおかしな角度に階段の絨毯に持っていかれた。
ぐらりと体の軸が大きくズレて体勢を崩したと気が付いた時には遅すぎた。私のパンプスは片方が階段の縁で脱げ落ちてバランスを崩す。

「きゃっ、」
「あ、おいっ!」





廣瀬さんの言葉とざざざと階段を廣瀬さんを巻き込んで落ちたのはほぼ同時だった。
周りから上がった高い声と人が集まってくるのが耳に聞こえる。

落ちたと解ったのは右腕と膝がじんじんと疼き始めたからだ。
しかし落ちた割りには衝撃は少なくはっとする。

そして何故か私の鼻には先程まで彼が吸っていた煙草の香りが微かに立ち込め、口には柔らかい感触と鉄の滲んだものが広がる。

「……ってえ。」

私の下でそう片目を瞑りながら呟く。目をその下へ下ろせば目の前には廣瀬さんの弩アップの顔がぼやけて見えた。そしてゆっくりと離される唇の感覚……。
廣瀬さんの唇にはじんわりと血が滲んでいた。





「……お前なあ、俺のこと下敷きにするは歯で攻撃はしてくるは……。いてえ……。」
「……ご、めん……なさ……。」

左腕を押さえ、顔を顰めながら立ち上がる廣瀬さんは何事も無かったのように立ち上がる。
その横で私はかたかたと知らないうちに震えていた。

肩が、腕が、胸が……。
──痛い……。





切れた唇をペロリと舐めると廣瀬さんは私を見下ろす。

「別に怪我なんかしてねーから、そんな泣きそうになるなよ。」
「……ごめんなさ……。」
「ここはありがとうございます、だろーが。お前も怪我ないな?次は気を付けろよ。」

小さく頷くと、くしゃりと頭を撫でられる。大切な物を扱うかのように。





私は、今。
廣瀬さんと階段を一緒に転げ落ちた。廣瀬さんが受け身を取ってくれたから二人とも多少の痛みを伴いながらも、大事に至らずに済んだ。

そして……。
私は自分の唇を人差し指でなぞると指の腹には真っ赤な血。
私のではなく、廣瀬さんの血。

柔らかな唇の感覚と鉄のようなものが口に広がった意味を改めて突き付けられた。
アクシデントとは言え、私たちは唇を触れてしまったんだ。

ふっと目の縁に盛り上がる熱い何か。
アクシデントだと言うのに、胸の奧が膝よりも痛いのは何故だろうか。





廣瀬さんは屈んで私の様子を窺う。

「お前、何泣いて……。どっか痛むのか?」

私はポロポロ零れる涙に構わず首を横に振った。顎に伝った涙がスカートに落ちて小さい染みを作る。

廣瀬さんは何事もなかったかのようにいる。それはそうだ。これはあくまでまアクシデントなのだ。
そしてキスのひとつやふたつ、廣瀬さんにはなんて事なくて。
私が事故と自分の気持ちを切り離せない。





「ははーん、あれか?事故とは言えお約束的なキスしちゃったから傷付いてんの?」

私の涙の滑落速度は益々増すばかりだ。胸の奧が痛いって言いながら私の体を縛り付ける。
私は一度だけ廣瀬さんの顔を見ると、そのまま脱げ落ちたパンプスを拾い上げ、カジノのエントランスから外へ駆け出した。
途中でもう片方のパンプスも脱げ、両手にパンプスを握り締めながら無我夢中で都会の中を走り抜ける。





「恋する女みたいな顔してんじゃねーよ……。マジでマジかよ……。」

エントランスでは参ったとでも言うかのように口元を手で覆い、床に視線を落として零した彼の言葉は私は知らない。

とぼとぼとようやく人気の掃けた六本木の夜を首都高と並びながら歩く。タクシーを止めることも忘れ、私は手にしたパンプスを視線を落とした。
エナメル素材の黒いパンプスはきらりと街路灯の明かりを受けて光っていた。

私の頬までも光っていたことは私たち以外、空から見下ろしていた月しか知らない。





足の裏が焼けるように熱い。
目頭も灼けるように熱い。
胸の奧は焦げたように痛い。





パンプスを握り締めて月夜を見上げた

(俺を見たお前の顔に傷付いたとか、嘘だろ。畜生、こんなはずじゃなかったのに……。)







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