外はバケツの水でもひっくり返したかのような土砂降りであった。
ざざざざあああ……。
地面や窓ガラスをこれでもかと言うくらい殴り叩いてはそれは一線の音を奏でるように続く。





夕食後のアトリエ。
私は何となく失敗した課題への気持ちのやりどころに迷い、結局、空っぽになりたくて原点に戻っていた。シュッと柔らかな線が重なる、それが徐々に形を帯びる、やがて平面に立体図が出来上がる。

私はデッサンをしていた。手には指に馴染んだ私の一番好きな5Bの鉛筆。力を入らなくてもきちんとその弱い筆力を残してくれる感覚が好きだった。
モチーフは昨日和人さんがみんなに内緒でくれたオレンジ。瑞々しさを湛えた表皮が私の目を捕える。

丸だけれど、ただの丸ではない。球であり、それは緻密に均整を保った形でもなく、どちらに傾くこともないが、微妙な表情を何となく丸として映してくれる。
私はそんなギリギリの姿が好きだった。表皮は林檎のように光沢を放つ滑らかさでもないし、かと言ってキウイのような産毛もない。

表面には幾つもの小さな凸凹を持ち、そこからオレンジが呼吸をしているのではないかと思った。





シュッ、シュッ……。
ざざざざあああ……。

シュッ、シュッ……。
ざあぁぁ……

段々と鉛筆をスケッチブックに滑らすに連れて私の耳は強い雨音から遠ざかって行った。
自分の世界に入り込んだ瞬間だ。

そんな私の後ろで雨音とは別の奏でられる音を聴いたような気もしたが、それはもう私の耳ではなく脳のどこかで聴いている音であった。
ショパンの練習曲だ。何度もこの部屋で指の美しい彼が奏でたピアノだった。
私の世界を邪魔することのないその音の存在が雨音と相まってとても心地が好かった。





頭の遠くで雨音と彼のピアノをぼんやり聴きながら、私は無心に鉛筆を走らせる。私と対オレンジの世界が出来上がった頃には、ピアノの曲目は既に変わっており、雨音も先ほどよりは緩んだ気がした。

──と、ホッと束の間の達成感に息を吐いた時だった。

ピカッ、ドーン!
「きゃあっ!」

このアトリエだけでなくこの辺りの地域に轟く揺れるような雷がどこかに落ちた。
体の中まで稲妻の音が突き抜けたかのような痺れと激しい余韻が残る。
そしてそれと共に彼のピアノの音も止んでいた。

ピカッ、ドーン!
「きゃあっ!」

私はその場に蹲る。
もうお分りだろう。私は雷が小さな頃から苦手なのだ。あの体を貫いて地面へ叩きつけられそうな感覚が恐怖そのものだった。

しかも今日は運が悪かった。雷が落ちたのが近所なのだろう。ふっといきなりアトリエの電灯が消えて目の前は一気に真っ暗になる。
分かるのは微かに鼻を掠める柑橘の香りだけ。





「……や……停、電?」

ピカッと暗闇に時々走る稲妻の光をカーテン越しに確認しながらも私は自分の肩を両手で抱きながらへたりこんでしまう。

音の恐怖と暗闇の不確かさ。
ぎゅうっと体に力が入った。





「……菊、原さ……いますか……。」
「…………。」

もしかして彼はもうアトリエを出ていってしまった?
私は雷の鳴り止まない暗闇に置いて行かれてしまった?

「……菊原さんっ、」

小さな子どものように涙声で彼の名前を叫ぶ。助けてって喉から声を絞りだす。

「……クスクス、そんな可愛く求められたら、ね?」

私の背後から菊原さんの柔らかな声とポーンと一つの音が返ってきた。
『ド』の音だ。

ポーン、ポーン。

「菊、原さん……。」
「……大丈夫。俺はここにいるからこの音を頼りにこちらにおいで。」





ポーン、ポーン。
ポーン、ポーン。
私は言われるが儘にその暗闇から小さく響く単音の方へと吸い寄せられるように足を向けた。ポーン、と音が目の前に来たと思った瞬間には私は煙草の仄かな香りが残るシャツに顔をぶつけており、それが菊原さんだと分かった瞬間にはその片腕で私は菊原さんの中へ包み込まれてしまった。
耳元で『いい子だね』と囁かれた気もするが、私は恐怖の方が勝ってそれどころではなかった。

何だか雪山で遭難して細い消えてしまいそうな遠くの灯りを頼りに小屋へ辿り着いた気分。

はあ、と私はその腕の中で力が抜けてしまった。安心しきってしまったのだ。
暗闇だけれども、温度がある。
雷は轟くけれども、安心させる音が途切れずにある。





クスクスと頭の上から再び柔らかい艶やかな声が聞こえてきた。

「***って雷が苦手だったんだ?」
「……はい、小さい頃から……ひゃっ!」

また遠くで雷が轟いだ。反射的に肩が大きく跳ねてしまう。その後に決まってカタカタと震えだしてしまうのだ。
菊原さんが傍にいるというのに反射は的確だった。





ポーン、ポーン、ポーン、ポーン、ポーン、ポーン、ポーン……。
菊原さんがもう片方の手で鍵盤をゆっくり押した。この音は先程の『ド』ではない。私も知っている曲。かつて菊原さんとも一緒に弾いたことのある曲だった。

「……きらきら星……。」

私の呟きにふっと彼が空気の中で笑う。

「そう。……続き弾いて、みる?」

そう言うと菊原さんはそのまま私を椅子に座らせ、その背後に自分が立った。私の強ばる体が解るのか、暗闇の中だが彼の距離は背中から微塵も離れはしなかった。

き、ら、き、ら、ひ、か、る、よ、ぞ、ら、の、ほ、し、よ……。

私は音に言葉を乗せて弾いた。

「……あ、」

真っ暗闇のため鍵盤も覚束なく、時折音を外しながらもきらきら星を弾き続ける。そしてそんな頼りない私の指の両脇から長い腕が伸びてきて、きらきら星に更なるアレンジが加わった。

私のペースに合わせながら。
たまにお互いの指が擦るように触れながら。
時折外す不協和音は小さく笑いながら。
背中に熱を感じながら。





きらきら星。
私と彼ときらきら星。





音がきらきら、きらきら綺麗

(雷よりも強い輝きはこの指先から生み出される。)







title:明滅ランプ

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